月にかかわる物語を描こうとすると、陰暦での、いとなみ、暮らしのことを想わずにはいられない。 明治の初めに太陽暦を採用して、西洋列国にあわせて、いっきに近代にぬりかえる一つとして当然だったかも知れない。 けれども、なぜ月の満ち欠け、月光に心が和らぎ、あるいは揺れるのだろう? 永い陰暦の歴史の時の感覚や感情は遺伝子までは、ぬりかえられていない気がする。 星々を際立たせる新月から、大きく見せながら昇り夜空を華やかにする満月、それはこの東海の島々に暮らす人々の心情が反映される夜空の舞
先の投稿の「空耳に気をとられてしまうこともある」にある夜の月の満ち欠けの物語を書きたいなと思いはじめました。・・・と言ってしまつた。 ストップモーションの1枚の場面のイメージはあったのです。 けれど、さて、私は月について、いったい何を知っているのだろう? 地球の衛星、地球の大きさの4分の1ぐらいの大きさ、重力は6分の1程度、月が太陽の光を反射するため月の見え方が変わるのが満ち欠け。太陽と地球と月の位置で日食月食がおきる。 はたして、これで知っていると言うのか? あたりまえだが
ペテンペテン と おとがする ヨノナカ てっぺん てっぺん と サワガシイ するべき だ するべきだ と パターンパターン かちまけ カチマケ と かけごえ ぽいぽい ひと が と ポイポイ ひと を で いちじちがい しらん シラン と ぷんぷんおこってる ゆめゆめ ユメをみるなと ゆめのなかでも トク の かんじ が ちがう くやしい クヤシイ と ムシでも
ぺてんぺてんとおとがする てっぺんてっぺんとさわがしい べきべきとぱたーんぱたーん かちまけかちまけとまさつおん ぽいぽいひとがとぽいぽいひとをでいちじちがい しらんしらんとぷんぷんおこってる ゆめゆめゆめをみるなとゆめのなかでも とくのかんじがちがう くやしいくやしいとむしでもなかない くらいくらいとよるにいってみても ふあんふあんとふあんのふぁん 空耳に聴こえてきたことをボーッと書いてみました。こんなときも、あります。気持ちの月の満ち欠けで謂えば、どんなかたちかな。乱視
note#創作大賞に応募した「いつかの私とコアの物語」のモチーフを綴ります。 なぜなら、この唐突な序文はわかりにくいかなと思ったからです。それはあたりまえで、先に書いた「本には交流がある」を前提にして書き進めていたものだからです。 「本には交流がある」「いつかの私とコアとの物語」を書いた動機は「想い」と「考える」の違いはなんだろうと・・・。 「考える」にはどうしても(損得)(時系列)(観念)(自我)が混じる。 「想い」は(連想)という言葉に象徴されるように、例えば高い空に雲が
書き始めているうちに、これは、もしかすると順序が逆ではないかと気づきがあった。 いままでの一連の文章の小船が初めに錨をおろすのは巻頭に序文とするのが、流されやすい小船をとめておく、まっとうな手段だと思われた。なぜなら、題名に「本には交流がある Pー2 戯作」と、うたったが、どこに交流があるか?と思われたでしょう。川の流れと渚の話の何処に本との交流があるのか?と首を傾げたでしよう。 その訳をはつきりさせるためにも、ここに最終話の予定を逆行させました。そして、「本には交
最終話として書き始めているうちに、これは、もしかすると順序が逆ではないかと気づきがあった。 いままでの一連の文章の小船が初めに錨をおろすのは巻頭に序文とするのが、流されやすい小船をとめておく、まっとうな手段だと思われた。なぜなら、題名に「本には交流がある Pー2 戯作」と、うたったが、どこに交流があるか?と思われたでしょう。川の流れと渚の話の何処に本との交流があるのか?と首を傾げたでしよう。 その訳をはつきりさせるためにも、ここに最終話の予定を逆行させました。そして
奇跡のようなような本に、出会えました。山元加津子さんのメルマガの紹介で知りました。「最後の大野プロジェクト」「メイク・ア・ウィシュ 夢の実現が人生を変えた」 何か直感がありました。すぐに読むべきだと直感しました。 アワテンボウの私は、本の購入依頼をしたにもかかわらず、Kindleにもあることを知り、そちらでも購入してしまいました。読んでみて、みんなの優しさ、そして子どもたちの夢がそれを動かした奇跡のような記録でした。いや、奇跡なんて安っぽく言ってはならない感動がありました
川と海が交流する河口、その中でも潮汐で最初に交流がはじまる川口の光景。 海の水平線を見つめているのも想いが広がりますが、私は波打ち際の渚が大好きです。波の寄せ波、返し波のリズムが大好きです。 大好きな浜は汀の手前に小高い砂山がある。砂山を越えると、そこに海がとつぜん映画の場面暗転からのように明け、現れる。 その時、不思議に私は自由になったような解放された気持ちを持つ。ひとりで、げらげら笑ってしまうこともある。おかしいかな、でも本当だから仕方がない。 大潮のときが顕著ですが、
つぎは、海と繋がりが深い河口のことです。 深山から河口へ。 はじめは、岩石が川の旅を続けながら礫となり、前浜では波によって、砂や泥にまで細かくなり、前浜干潟、川干潟、三角州という生き物の、ゆりかごをつくる。潟は生物の食物連鎖のスタート地点かもしれない。底生生物のゴカイたちが、魚が、鳥がいて、またそれらを食べる私達がいる。 河口付近に点在している川の中の島々に見える中州も、自然の必然の造形として、生物に利用されている。朝でも夕でも薄暗い時間の島々に、なぜか心惹かれる。なぜか、懐
(あきらくんのお兄さん)とは、誰なんだろう?と思ったのです。名字で呼ばれるより、名前で呼ばれるより(あきらくんのお兄さん)と呼ばれるのがうれしかった、という。弟が生まれたことが嬉しかった、というのは、そこに愛おしい、たいせつにしたいつながりだと思いが、わきあがってきたのでしょうか。 それでも、私は思うのです。(あきらくんのお兄さん)は本当は、いったい誰なんだろうと.....。 山元加津子さんの初めての小説のなかの(あきらくんのお兄さん)は、もちろん、モデルは(ゆうきくんの海)
下流部の景色。 一面の田園地帯を大きく蛇行しながら広い河川敷をともないながら河口に向かって流れる川しもの景色です。 高い堤防に守られ辺り一面に田圃が広がっている光景ができる前は、いったい、どんな所だったのだろうと、子どもたちに混じって図書館で学んだ知識を元に老人は空想、夢想する。老人の遊びとしては面白い。 遙か遙か遠い縄文海進のころを想像する。そうだ、ここは黒潮が列島近くをまっすぐに流れていた温暖な縄文の時代の河口や海だったんだ。海辺近くの丘陵に貝塚があることからも、自然から
いよいよ里川に入ってきますが、これは私だけでなくコアの記憶の時間の光景とも言えます。 山渓から平野部に流れていく水勢は川はばを広げ、おおきく蛇行して大淵を作り、さまざまの生き物の住処をつくり、岩を淵に沈め、石たちは更に転がりながら丸く小さくなって下流に河口に向かって旅を続けます。 川原に一休みしている小石は、子どもたちが、ときには石は水よりも軽いことを実験、証明できる遊び道具になります。 水切り。 飽きずに何回でも何回でも集中して実験を続けます。向う岸まで水面を、選んだ石が
図鑑も絵本のひとつと面白いと楽しんでいる自分に気づいて、思ったこと。 植物のしくみ、動物のしくみ、天気のしくみ、宇宙と地球、生死のしくみも、小学生の素直な好奇心で読めば、知識というより心の風船が元気に膨らむようだ。 しかし、この男がかつては(自分は自分が作るものだ)などと実存主義の一部だけを信条として我利我利に気負っていたなどとは人は想像もできないでしょう。 実際、この男は正直になつてきていた。知識だけでなく、物やことを知らないことばかりだと、素直に認めはじめたのです。でも、
本には交流があるのPー2を今、綴っていますが、Pー1からの流れで安易にそうしてしまったのですが、どうも違うなと思い始めました。 きれぎれに綴った(本には交流がある)は、ひとつの、まとまりにしたい。というのは、フォローして頂いたり読んでくれている方がいるというのに、少し心配になってきたのです。強気と弱気の振れ幅の大きい二重人格の特徴です。心配というのは、本当に自分の身の丈にあったことを書いたのか?高慢な図々しいことを書いたのではないか、という思いでした。そもそも、自分を振り返る
ところで、山道やトロッコ列車の単線路を真夜中に歩いた経験をした人は稀だと思いますが、釣人は、目的の渓へ夜明けまでに間に合うように暗闇の道を歩きます。例えば新月で月は見えません。 けれども、心細くありません。街ではとうてい見られない満天の星が光り見守ってくれているように感じられるからです。 初めて、その夜空を見たとき、人は自分の内の何かが澄みわたって心が解放されるような、古代に戻ったような不思議な(時間)を全身で感じる。 二時間三時間歩いて、渓に降り、藪をこぎ、ウエーダにびっし