SF恋愛小説『ブルー・ギャラクシー セイラ編』1
セイラ編1 1章 セイラ
わたしは知らなかった。
肉体が、魂を裏切る。
まさか自分が、そんな罠に陥るなんて。
でも、だからこそミカエルさまは、大人の男性になることを拒絶したのだ。永遠に少年でいれば、清らかなまま、遠い女性を愛し続けていられるから。
ミカエルさまの元に来た当初は、単純に、侍女の仕事をすればいいのだと思っていた。二人分の食事の支度をしたり、あちこちに花を活けたり、ミカエルさまの衣類の入れ替えをしたり。屋敷の掃除や広い庭の手入れは、作業用アンドロイドに指示すればいい。そんなことなら、ジャン=クロードさまの元にいた頃から慣れている。
ミカエルさまが設計し、アンドロイドの建設部隊が築いたこの桔梗屋敷は、この小惑星の主である麗香さまの薔薇屋敷からかなり離れていて、涼やかな木立に囲まれ、日本風の趣を持っている。地球時代のその国は、麗香さまの故郷なのだという。
庭を眺められる縁側に、畳敷きの和室、雪見障子、板張りの廊下、温泉風の露天風呂。
桜の小道や、楓の小道、竹の林。鯉が泳ぐ池には、小島へ渡る橋がかかっている。
庭に咲かせる花も、小菊や桔梗、撫子や竜胆など、可憐で落ち着いた花が多い。わたしは切り花用にもっと華やかな花も欲しかったので、牡丹や百合、薔薇やアイリスの区画も作ってもらったけれど。
敷地の外れを流れる小川では、蛍も飛ぶ。蝶や蜻蛉も通り過ぎていく。周囲はどこまでも森と野原が繰り返されているから、野兎が迷い込むことも、狐が走りすぎることもある。
気候は穏やかで、厳しい暑さや寒さとは無縁だけれど、季節の花は順繰りに咲いていく。梅、桃、桜、菫、藤、菖蒲、紫陽花、露草、朝顔、桔梗、コスモス、竜胆、彼岸花。
最初は、この世の天国だと思っていた。こんな素晴らしい場所で、ミカエルさまと二人で暮らせるなんて。
わたしにはこれ以上、望むことはない。本当なら違法都市での路上で、冷たくなって死んでいたはずなのだもの。
でも、少しずつ、秘書的な仕事も言いつかるようになった。すぐ側に浮かぶ小惑星都市《ティルス》に、ミカエルさまの伝言を持って出掛けたり、何らかの買い物をしてきたり。時には特定の誰かに会うために、センタービルで開かれる行事に紛れ込むこともある。
ミカエルさまが一方的な通達を送って済ませるのではなく、わたしがじかに会って、相手の反応を見ることが大事なのだという。
「ほら、ぼくはこの姿だからね」
とミカエルさまは、笑っておっしゃる。グリフィン事務局がミカエルさまの意志を代行しているけれど、ご自分でもいくらかは、実務に手を出してみたいのだそうだ。
「〝報告の報告の報告〟では、何かが失われるんじゃないかと思う」
だから実際に、わたしが中小組織の幹部や、スカウト予定の若者などに接触し、印象を持ち帰ることが必要なのだと。
「わたしの印象で、よろしいのですか?」
「そう。セイラが現場で感じたことが、大切なんだ」
もちろん、グリフィンその人の代理などとは言えない。懸賞金制度の運営責任者グリフィンは、辺境のどこかにいる、霧に包まれた神秘の存在でなくてはならない。
だからわたしは、その時々で、適当な違法組織の幹部のふりをする。バイオロイドのわたしが人間として振る舞うなんて、最初は怖くて、スカートに隠された膝が震えていたけれど。
どんなことでも、繰り返していれば慣れる。メイド服ではなく、威厳のあるスーツや、華麗なドレスを着て、豪華な宝石を身につけていれば、相手はこちらを人間の女性と思い込む。
わたしの背後にアンドロイド兵士の部隊が控えていれば、街を歩く時でも危険はない。必要なら彼らに、大組織の戦闘部隊の制服を着せることもできるのだから。
時には、他の違法都市まで、何週間もかけて旅をすることもある。そして、何もかも心得ているかのような顔をして、出会う誰かに指図をしたり、報告を受けたりする。全て、ミカエルさまの計画に従って。
武装車に乗って違法都市の道路を走ることも、他組織の幹部と会うことも、様々な工作をすることも、空いた時間に好きな買い物をすることにも慣れてきた。都市の繁華街のビルでは、ありとあらゆるものが売られている。
「セイラが欲しいものは、何でも買って構わないよ」
とミカエルさまは言ってくださる。
ドレス、靴、宝石、家具、車。
もっとも、桔梗屋敷にあるわたしの部屋には、必要なものは揃っているし、外出の時には艦隊も護衛部隊も用意されているのだから、服や宝飾品が増えていくだけ。
地位のある人間の女性と見られることにも、慣れてきた。遠出した時は豪華なホテルに泊まり、一流のレストランで食事をする。最初は人間たちの、興味ありげな視線に怯えていたけれど、そのうち、気にならなくなった。
わたしは常に、ミカエルさまの権力に守られている。どこからか現れ、どこかへ去っていく、謎の女。
それは、蜜のような快感だった。わたしがミカエルさまの指図の通りに動けば、他の組織の人間たちは恐れ入って、わたしに従う。わたし自身には、何の力もないというのに。
「それは、ぼくも同じだよ」
とミカエルさまは笑っておっしゃる。
「ぼくは麗香さんの権力の一部を、貸し与えられているだけだ。いつか用済みになったら、捨てられるかもしれない。元々、あの人からもらった命なんだよ」
ミカエルさまは、うっすらと悲しさをにじませて微笑む。でも、芯の部分には、捨て鉢な達観があるのではないだろうか。そうなったらそれで、さっぱりする、とでもいうような。
かつて《ティルス》や、姉妹都市《インダル》、《サラスヴァティ》を築いたという麗香さまは……たぶん、人間たちの世界でも、最も底知れない、恐ろしい人。
科学者であり政治家であり、おそらくは、最初に超越化に成功した挑戦者なのでは、と推測されている。
でも、わたしの生活には、直接の関係はほとんどない。たまに用があって薔薇屋敷に出入りする時、お姿を見かけたり、言葉をかけられたりする程度のこと。わたしの理解など遠く及ばない存在なのだから、気にする必要もない。
もちろんミカエルさまは、わたしのような使い走りとは違う。
麗香さまに選ばれて、鍛えられ、辺境の中でも大きな役割を任されている。これからもずっと、人類社会の行く末に関わるような仕事をなさるに違いない。
もしも将来、ミカエルさまがグリフィンの役目を終え、どこか他の世界へ行くことになったら、わたしも付いていきたい。置き去りにされるのだったら……セイラはもう来なくていいよと言われたら……それは、もう、生きていても仕方ないということだもの。
ぜひセイラにも来てほしい、と言われたいのなら、勉強を続けることだった。歴史、科学、文学、政治、宗教、芸術。
ミカエルさまに派遣され、紙切れ一枚の内容を人に伝えるのにも、自分がその中身を理解しているかどうかで、伝え方が変わるのだとわかってきた。
物事のどこが神髄で、どこがおまけなのか、区別できなくてはならない。
グリフィン事務局が日々続けている、大きな仕事の中で、わたしに振られる役割は、どのピースにあたるのか。
知識が増えれば、ニュースを見ても、映画を見ても、自分なりの解釈ができるようになる。言われた用を果たす場面でも、それなりの工夫ができる。
「よく頑張っているね」
ミカエルさまは勉強の進み具合を気にかけてくださり、次はどういう本を読んだらいいか、どんな学説を研究すればいいか、指導してくださる。今ならもう、わたしにも、本物の人間に遜色ないくらいの教養が身に付いているのではないだろうか。
もちろん、天才であるミカエルさまに付いていくためには、もっともっと学ばなくてはならない。あの方はもう、普通の人間など、はるかに及ばない高みにいるのだから……
セイラ編1 2章 ミカエル
リリーさん、ごめんなさい。ぼくは、貴女に嘘をつきました。
怖かったからです。再び、惨めな奴隷に戻ることが。ただ死ぬのを待つだけの、無力な病人に戻ることが。
だから、麗香さんの差し出す手を握りました。
貴女を守るためなんかじゃ、ない。まず、自分自身が死にたくなかったから。権力のおこぼれにあずかって、安心を得たかったから。
でも、そういう自分を醜いと感じていたので、自分を粉飾しました。リリーさんを守るための、やむを得ない選択だったということにしたんです。
自分が醜いことは、最初から知っていた。誰を殺してもいいから、自分だけは助かりたかった。そうやって、違法組織から脱出してきたんです。
でも、それで何が悪い、とも思っていた。
だって、ひたすらいい子にしていたって、誰も助けてはくれないのだから。そもそも身勝手な人間たちが、バイオロイドという奴隷階級を創り出したのだから。
それでも、市民社会に保護されて、貴女と出会えた。毅然として美しく、まばゆい貴女と。貴女は法なんか飛び越えて、ぼくに未来を与えてくれた。
暗黒の宇宙で出会った、ただ一つの太陽。
貴女との関わりの中でだけは、可憐な少年でいたかった。貴女にそう思ってもらえることが、ぼくの救いだった。
今でもまだ、揺れ動いているんですよ。もしも麗香さんに、貴女が邪魔になった、抹殺しろと言われたら、自分はいったい、どうするのかと。
セイラ編1 3章 セイラ
「セイラには、女性の話相手が必要だね」
ミカエルさまにそう言われた時には、驚いた。ずっとこの桔梗屋敷で、二人で暮らせるものと思っていたのだ。
でも、わたしが外の世界に出掛ける時には、人間のお供がいた方が安心だという。だから、女性の警備隊長を付けることにしたと。
ミカエルさまが決めたことなら、わたしは従うしかない。
やってきたのは、レティシア。
ミカエルさまが、相応しい人材を最高幹部会の代理人の一人であるリザードさまに頼み、こちらに派遣してもらったのだという。
以前は〝初代グリフィン〟の下で警備隊長を務めていたという、人間の女性だった。背が高く、鍛えた筋肉をまとい、褐色の肌と短い黒髪をしているから、ジャングルの黒豹のよう。
最初はわたしも、ちょっと怖いと思った。隙のない、冷徹な闘士のように見えたから。
でも、親しくなってからは、レティシアが来てくれてよかった、と思うようになった。違法組織に長くいても、歪んでいない人だったから。女性同士の他愛ないおしゃべりができるし、初代グリフィンのことや、事務局の様子、他組織の内情など、色々と教えてもらることが多い。
あのままミカエルさまと二人きりでは、きっと、自分でも辛かったのではないだろうか。大好きな方ではあるけれど、あまりにも、逃げ場がなくて。
最初の挨拶の時、
「ミカエルさまがグリフィンとして動く時には、事務局が、必要な艦隊や戦闘部隊を用意します。ですが、ミカエルさまが個人で動かれる時は、わたしが警護を引き受けます。常にミカエルさまの身辺におりますので、よろしくお願いします」
迷彩柄の戦闘服を着たレティシアが毅然として言ったことに対して、ミカエルさまは困惑顔をなさった。
「ぼくには特に、護衛はいらないんだよ。外に出るなんて、滅多にないしね。その時でも、アンドロイド兵で足りる。きみには、セイラが動く時の護衛を頼みたいだけなんだ。リザードさんにも、そうお願いしたはずなんだけど」
それでもいいのだろう。この屋敷がある星系は、辺境の宇宙を支配する〝連合〟の中枢部にあって、人類の文明圏では一番安全な場所といえるから。
でも、レティシアは平然と言った。
「リザードさまからは、護衛の他に、ミカエルさまの健康管理も命じられています」
ミカエルさまは、驚いた。
「健康管理? ぼくはもう、健康体だけど?」
ミカエルさまを蝕んでいた悪性の脳腫瘍は、最新の治療技術によって、既に完治しているという。普通の腫瘍ではなく、知能強化の副産物だったため、市民社会では根本的な治療が不可能だった。それでミカエルさまは、無法の辺境に逆戻りするしかなかった。
その時、ミカエルさまの保護者になってくれた〝リリス〟とは、結局、遠く離れることになってしまったけれど。
でも、レティシアは淡々として説明した。
「リザードさまがおっしゃるには、放っておけばミカエルさまは、一日中デスクに向かって書類仕事をしているだろう、それでは困る、ということです」
それは当たっていた。わたしがいくら休養や気分転換を勧めても、ミカエルさまは朝から晩まで執務室にこもり、〝グリフィン〟としての情報分析や計画策定にかかりきりだった。
食事をしていても、お茶を飲んでいても、半ば上の空だった。自分に何か見落としがあれば、ただちに〝リリス〟に危険が及ぶと思い詰めていらしたから。屋敷の周囲の散歩に出かけても、考え事をしていて、小川の土手から転げ落ちてしまうくらい。
ミカエルさまも、反論の言葉がない様子で、身を縮め、視線を落としてしまった。
「それでは心身のバランスが崩れるので、適切な判断ができなくなってしまいます。一日のうち、職務に就いていいのは八時間までと制限するように、命じられました」
ミカエルさまが口をぽっかり開けても、レティシアは動じない。
「睡眠時間も最低八時間、確保していただきます。運動も、土日を除いて毎日二時間、していただきます」
「運動!? 毎日!?」
ミカエルさまは、拷問の予告を受けたようなお顔。
「最低限、二時間です。ミカエルさまの心身を鍛えなくては、これから先の長い年月、適切な判断を下し続けることができません」
それがリザードさま直々の命令と知って、ミカエルさまは抵抗をあきらめた。
リザードさまは長年〝連合〟の最高幹部会の代理人を務められただけでなく、初代グリフィンの後見役でもあった方。
わたしの元のご主人のジャン=クロードさまも、最高幹部会の命令で、ミカエルさまの教育係を務めたのだ。地位からいえば、ジャン=クロードさまより、リザードさまの方がはるかに上となる。
現在のミカエルさまの地位は、リザードさまのやや下、ということになるのだろうか。
結果として、リザードさまの命令は正しかったのだ。いくら天才のミカエルさまでも、座って頭を使うばかりでは、神経ばかりが疲労して、不眠や食欲不振に陥り、仕事の質も落ちてしまうから。
わたしもまたレティシアのコーチを受け、一緒に運動するようになったので、体力がついた。ヨガ、ジョギング、水泳、様々な格闘技。射撃や戦闘術の基礎も教えてもらえるから、心強い。
それは、実際に戦うためではなく、戦う心構えを持つためだった。違法都市を歩く時は、いくら周囲にアンドロイド兵士が付いていても、自分で危険度の判断ができる方がいい。逃げ足だって、速い方がいい。
それに、わたしは『成長を止めた』ミカエルさまと違い、普通に成長しているので、運動の効果が目に見えて現れた。
自分がレティシアのような、柔軟で引き締まった筋肉を備えていくのが嬉しい。機敏に動く肉体を持っていれば、何かの時は、銃を持ってミカエルさまを守ることもできる。そんなこと、まずないとは思うけれど。
ミカエルさまも、華奢な少年の肉体のままではあるけれど、以前より体力はついてきた。生活のリズムも整った。
食事の時間は食事を楽しみ、運動の時間は頭を空っぽにして動く。そして、執務時間には仕事に集中する。そういう日々が、ご自分の自信にもつながっていると思う。
世間ではきっと、市民社会の要人に賞金をかけて命を狙わせるグリフィンのことを、悪魔のように狡猾で冷酷な人物だと思っているだろう。でも、実体はこんなものだ。
好きな女性を陰から守りたいと願う、純真な少年。
ミカエルさまを抜擢した麗香さまは――人間であるにせよ、超越体になっているにせよ――卓越した眼力の持ち主なのだと思う。〝リリス〟を愛するミカエルさまほど、この職務に適した存在はないのだもの。
最初の頃、わたしは屋敷内ではずっと、膝丈の紺のワンピースに白いエプロンという、お定まりのメイド服を着ていた。スーツやドレスを着るのは、ミカエルさまの命令で外出する時だけ。でも、
「他に誰もいないんだから、メイド服にこだわらなくていいんだよ」
とミカエルさまに言われてからは、動きやすい私服を着るようになった。エプロンは、必要な時だけ使う。
その私服も、レティシアが見立ててくれるようになった。本人は迷彩の戦闘服が基本で、精々、イヤリングが変わるくらいなのに、お洒落にも一家言あるのだった。
「わたしの戦闘服は、仕事用だからこれでいいの。でも、あなたは綺麗にして、ミカエルさまの目を楽しませないと」
わたしは身長が伸び、胸も大きくなっていたので、大人のドレスが着られるようになっていた。レティシアがそう言ってくれるのなら、色々と挑戦してみてもいいかもしれない。
「黒髪には、着られない色がないのよ。でも、あなたは色が白いから、強い色より淡い色が似合うわね。それに、清楚な顔立ちだから、上品なワンピースを基本にするといいわ」
水色、ベビーピンク、菫色、パステルイエロー、若草色。
偽装用のドレスやスーツには、強い色、目立つ色、鋭いラインを使うのだけれど、私服はもっと自分の好みに合わせてもいい。
レースの襟、胸元のリボン、たっぷりと布地を使ったスカート。そうすると、それに合わせた靴も欲しくなる。自分の姿を鏡で見て、うっとりする時間も増える。
わたしが新しい服を着ると、ミカエルさまも褒めてくださった。
「とってもいいよ。時々、外に出て、見せびらかさないと勿体ないね」
ミカエルさまは、この桔梗屋敷から出ることは滅多になく、たまの外出も、薔薇屋敷に出向くくらいなのだけれど。
困ったことは……女として成熟したわたしの肉体が、美しいドレスの下で、溶岩のように燃え始めたことだった。
それまで、自分としては、ミカエルさまの姿を見て、声を聞き、言葉をかけていただくだけで、満足して生きられると思っていた。
心では、その通りだ。
でも、肉体が……何か満たされず、むずむず、そわそわする。生理の前など、胸が張って、乳首が敏感になり、うっかり自分で触れてしまうと、全身に甘いしびれが走る。何度でも、その刺激を繰り返したくなってしまう。
知識では、知っていた。これが、発情するということ。
でも、その衝動に勝てないのは男性だけで、女は、耐えられるはずだと思っていた。だって、心はミカエルさまで満たされているのだから。
それでは足りないなんて、恥ずかしいし、恐ろしい。
どこまで傲慢になるつもりなの、セイラ。いま生きていられるだけで、奇跡なのよ。
たまに、ジャン=クロードさまから通話が入ることがある。
「元気にしているかい、セイラ」
ジャン=クロードさまは、わたしを娘のように思ってくださっている。だからこそ、ミカエルさまの元へ行きたいという願いを、叶えてくださった。
「とても元気です。勉強もしています。レティシアからも、色々と教わっています」
何か困ったことはないか、ミカエルに言えないことは自分に相談するようにと、ジャン=クロードさまは言ってくださる。こんな欲望のことは、絶対に言えない。でも、ジャン=クロードさまは、それも理解しておいでなのかもしれない。
「ミカエルは、普通の男になることを拒んで、少年のままでいる。彼は特殊な存在だから、それはそれで仕方ない。だがきみは、普通の女性の幸福を願って構わないんだよ」
そう、いたわるように言われたから。
「わたし、いまここで、十分に幸せです」
とは答えたけれど、信用されたかどうか。ミカエルさまは、遠く離れたリリーさまのことだけ、特別に愛しているのだから。
「外へ出た時に、誰かと交際しても構わないんだ。身元を隠していられる限りはね」
ミカエルさま以外の、どんな男と付き合えと?
わたしにとって、父代りのジャン=クロードさま以外、成人男性は恐怖もしくは警戒の対象でしかない。ジャン=クロードさまに拾われる前、わたしも他のバイオロイドの子供たちも、大人の男たちの暴力にさらされていた……思い出したくない記憶。
ただ、子供だった頃には苦痛でしかなかった行為が、肉体が育った今では、快感に変わっていることもわかる。それは、自分自身で幾度も確かめていた。
もし、今、自分に優しくしてくれる男性がいたら……
いけない。そんな危険な空想は。違法都市で出会う相手は、全て警戒しなくてはならないのだ。
「女たちには、それが問題なのよ」
どんな話の流れだったか、ある日、レティシアが語ってくれた。運動した後、二人で露店風呂の大きな浴槽に浸かっていた時。
「違法都市で出会う男で、まともな奴なんかほとんどいない。だって、バイオロイドの奴隷は、何でも言うことを聞いてくれるんだものね。それに慣れてしまったら、人間は腐りはてるわ。ただ、人間の女を口説く時だけ、奴らも必死でまともなふりをしている。それに騙されて、泣きを見た女がどれだけいることか。だからわたしたちは、グリフィン事務局をほぼ女だけで固められて、嬉しかったのよ」
辺境で苦労してきた人間の女たちは、女同士で団結して、自分たちを守るようになってきたという。
「でもまあ、肉体的に、男を必要とするのは仕方ないわよね。でも、娯楽のためにバイオロイドの小姓を使うのでは、男たちがしていることを非難できないでしょ」
人間の女性は、全員ではないにしても、そういう矜持を持っていてくれるのだ。
「街へ出て、口説いてきた男たちの中から、ましな奴とデートしてみるの。その結果、合格だと判定すれば、後からそいつを女友達に紹介するの。奴らも、女のネットワークで信用されれば、たくさんの女と付き合えるから、一度その方式に馴染むと、少しましになってくるわ。そうやって、ましな男を増やしていくしかないわね」
女がどう思うかを、本当に気にかける男は、辺境では稀有な存在なのだ。
「だからセイラも……よかったら、そういう男を紹介できるわよ」
ああ、そうなのか。ミカエルさまがレティシアを呼んでくれたことには、そういう意味もあったのか。
「ありがとう……いずれ、もし、そういう気になったら……お願いします」
頼むことはないと思いながら、わたしはそう答えた。わたしはレティシアたち、本物の人間の女性とは違う。勉強して賢くなったとはいえ、培養された奴隷なのだ。
主人に尽くすことが、自分の幸せ。
わたしはもう、生涯かけて尽くしたい人を見つけたのだから、それで幸せなのだ。
肉体の要求は、自分で鎮めればいい。ちょっとした道具があれば、それで簡単に快感を得ることができる。
強い腕や、厚い胸板に抱きしめられたら、なんて、想像しても仕方ない。ミカエルさまは、わたしより小柄な少年なのだ。
セイラ編1 4章 ミカエル
麗香さんの暮らす隠居屋敷の地下には、広大な研究施設が隠されている。主に、人体改造の研究施設だ。過去の研究の成果である、様々な改造体も冷凍保存されている。危険すぎて、凍結するしかなかった戦闘用強化体もある。
地上の薔薇園を見ているだけでは、地下にそんな冷たい迷宮があるとはわからないが。むしろ、この屋敷は、地下迷宮の入り口としての意味しかないのだろう。
ぼくは出入りの許可を得ているので、たまに、一人で地下室に入る。特に用事があるわけではない。自分が研究したいことなら、自分の屋敷でできる。ただ、凍結された実験体を眺めて、思うことが色々あるのだ。
麗香さんに創り出されて、外の世界を知ることもなく、再び冷凍カプセルに押し込められた生き物たち。
あるいは、いったん外界で暮らしていながら、ここに引き戻されてしまった者たち。
ぼくは一つのカプセルの前に来ると、しばらくそこに座って、時を過ごす。そのために、椅子を置いてある。
白い肌と茶色い髪をした若い女性が、凍結保存されていた。目を閉じて、夢も見られない長い眠りについているのだ。
カプセル表面のプレートには、製造年や遺伝子型などの情報が封入されているが、〝茜〟という個人名も表示してある。
昔、初代のグリフィンが愛したという、バイオロイドの娘だ。彼は……シヴァは知らない。本物の茜が、ここにひっそり眠っていることを。
彼は自分の愛する茜が、不幸な事件のせいで自殺したと思っているが、彼女はその直前、偽者とすり替えられていた。侵入者たちに殴られ、強姦され、銃で頭を吹き飛ばして死んだのは、そうするように暗示をかけられていたクローン体の方だ。
何一つ、いいことのなかった人生。
いや、この茜がクローン元の本体だという意味ではない。茜もまた、同時にたくさん製造されたバイオロイドの一体にすぎない。
シヴァの目を惹くため、初恋のヴァイオレットさんとそっくりな顔立ちに作られた娘たち。複数の娼館に配置された姉妹たちのうち、たまたまシヴァと出会うことに成功した一体が、この茜だということだ。
麗香さんは、シヴァを突き動かす刺激を与えようとしたのだと思う。高い能力を持ちながら、ちっぽけな組織に安住していた彼を、より高い舞台に上げるため。愛する相手を与えてから、それを奪うという残酷なやり方で復讐心を持たせ、それを行動の原動力にさせるという企み。
他の同型バイオロイドたちは、予備の数体を除いて、その周辺の娼館で短い人生を終えたことだろう。自殺の芝居に使われたのは、その予備の一体だ。
麗香さんは、いざという時、シヴァを操るための道具として、この茜を確保しておきたかったのだ。
何という冷酷な真似をするのか、事情がわかった時は、言葉を失った。
シヴァがこのことを知ったら、決して麗香さんを許さないだろう。反逆に走るだけの、十分な理由になる。彼にとって、遺伝子設計者であり、育成者でもある麗香さんは、母親に等しい存在だというのに。
同じように、駒として使われたぼくにはわかる。麗香さんは、ちっぽけな感情で動く人ではない。冷酷さも残酷さも、必要があって発揮するだけだ。
あの人が見ているのは、人類の進化、究極の知性の誕生という大きな潮流。個々の人間の幸不幸など、大海に生じる小波に過ぎない。
だが、時には小さな波紋が、他の波紋と重なり、大きな影響を及ぼすこともあるだろう。
麗香さんが隠しているこの小さな秘密が、いつか表に出て、シヴァを突き動かすことになるのだろうか?
リリーさんがそれを知ったら、麗香さんから離れて、シヴァの味方をするだろうか?
今のリリーさんは、麗香さんの裏の顔を知らない。自分のハンター稼業を応援してくれる、寛大な最長老だと思って、素直に尊敬している。ぼくが麗香さんの手先になって、〝グリフィン〟の務めを果たしていることも知らない。自分でも、時々、ため息をついてしまう状況だ。
(茜、きみはこのまま眠っていた方が、幸せかもしれないよ)
今のシヴァには、ハニーという恋人がいる。とびきり聡明で優秀で、多くの部下を抱える女性だ。
茜が目覚めて会いに行っても、シヴァを困らせるだけだろう。同時に二人の女を抱えられるほど、器用な男だとは思えない。彼が茜の人生を引き受けようとすれば、彼にも恋人にも重荷になるに違いない。
だからショーティも、この事実を自分で突き止めておきながら、シヴァには何も言わないままでいる。
しかし、それでもいつか、この状態は終わるのではないか。
麗香さんがいつまでも、この体制を続けるとは思えない。
中央の市民社会と辺境の違法組織、この二つの世界が並立していることは、これまでは有効だった。市民社会では清新な人材を育成し、辺境では無制限の実験を繰り返す。
その実験の目的は、人類の進化にあった。あるいは、新たな宇宙の創造に。
麗香さん自身が超越化して人間の限界を超え、更に、自分の弟子として何体もの超越体を誕生させた今では、もう、旧人類など、どうなっても構わないのではないか。自分たちだけさっさと、次の宇宙へ行けばいいのではないか。
ぼく自身もまた、超越化を試みる時が近付いている。いつまで人間でいるべきか、自分でも考え続けているのだ。
人間の肉体を捨てたら、何が起こるのだろう。
愛する気持ちや憧れる気持ち、悲しむ気持ちまでも失くしてしまい、淡々と科学研究を続けるだけの存在になってしまうのか。
いったい、何のための研究なのだ。感情を失ってもまだ、この世に存在する意味が残るのか。
それとも、失うものなど何もないからこそ、より豊かに、永遠の生命を謳歌できるのか。
いったん超越化してしまったら、もう引き返せないだろう。だから、迷っている。茜の眠るカプセルの傍らで、今日もまた、しばらく座り込んでいた。
(茜、きみなら、何と言うだろう)
シヴァと出会って、心を通わせたのに、たった数か月で引き離されてしまった娘。悲しい思いをするとわかっていても、この世に復活したいか。それとも、何も感じないまま、眠り続けている方がいいのか。
(いや、きみならきっと、現実にぶつかることを望むだろうな。それが辛い現実でも)
何も感じないことは、死と同じだ。
ただ、喜びよりも悲しみの方がはるかに大きいとしたら、いずれ、自分で死を選ぶかもしれないが。
セイラ編2に続く
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