恋愛SF小説『レディランサー アグライア編』6
アグライア編6 11章 エディ
違法都市《アグライア》への航行中、ぼくたちはひたすら忙しかった。軍の好意で払下げにしてもらった小艦隊の、指揮艦の中である。有人なのは指揮艦のみで、後はおまけの無人艦だが、辺境ではこれで普通なのだ。指揮艦に乗っているのは、ぼくとジェイク、ルーク、エイジの四人のみ。
それぞれ、軍や司法局からもらった資料の山、それに、ジュンから送られてきた都市経営や他組織の資料と格闘していたのだ。
これからジュンの助けにならなくてはいけないのだから、知るべきことが山ほどある。先輩たちも資料を読み込み、疑問点を相談したり、司法局や《アグライア》に問い合わせをしたり。
ゆっくり料理している暇もなくて、食事は大抵、専用のアンドロイド兵に任せていた。だけど、向こうに着いたら、ジュンには好きな料理を食べさせてあげよう。煮込みハンバーグやレーズン入り人参サラダ、バナナケーキにチョコレートムース。
ジュンはきっと、ぼくの料理を恋しがっているに違いない。ぼく本人を恋しがってくれているかどうかは、疑問だが。
ぼくら《エオス》のクルーが辺境へ行くことについては、市民社会でも賛否両論あった。ジュン共々、〝連合〟に利用されて使い捨てられるだけだとか、不老処置が欲しくて誘惑に負けたのだとか。
様々な取材の申し込みもあった。しかし、それについては司法局に対応を任せ、ぼくらは何も応じていない。
何も言えないのだ。辺境へ行ってどうなるのか、誰にわかるだろう。
ぼく自身について言えば、ジュンの元へ行くのは必然だし、既に半分、市民社会からはみ出している自覚もある。ぼくの体内には、アイリスの細胞が根付いているのだ。もし、これが暴走するようなことになったら、辺境にいた方が、まだ打つ手があるだろう。
そのうち、ふと気がついたのは、ジェイクに元気がない、ということである。
エイジとルークはそれぞれ新しい冒険に夢中という様子なのだが、ジェイクはニュースを見る態勢のまま、長いことぼうっとしていたり、書類を見る姿勢で何か違うことを考えていたりする。
もちろん、軍を辞めてから何年かハンターをしていた彼が、辺境には一番詳しいのだ。その分、ぼくらには見えない何かを案じているのかもしれない。
彼はハンター時代のことをほとんど語らないので、ぼくもこれまで、自分から詮索することはしなかったけれど。
ジュンと共に《ファルシオン》から逃げた時、初めて、ジェイクの昔の相棒だった女性と出会った。あれが、彼女の最後の親切だったらしいと、後から知ったのだ。彼女はたぶん、辺境のどこかで暮らしながらも、二度とジェイクの前には現れないだろう。
「あのう、何かあるんですか?」
ジェイクに声をかけてみたら、こちらにぼんやりした顔を向けた。金茶色の目が、いつものような生気を浮かべていない気がする。
「何かって、何だ」
「いえ、そのう、何か沈んでいるように見えるので……特別な心配事かと」
ジェイクはふっと笑った。
「辺境への片道航行かもしれんのに、浮かれていたらおかしいだろ」
そうだろうか。ぼくは浮かれている。ジュンといられるなら、他のことはどうとでもなると思っているので。
出発前に、郷里の母と姉には別れの挨拶をしたし(二人とも心配はしてくれたが、ぼくを止めようとはしなかった。ぼくの気持ちをよく知っているからだ)、艦隊勤務の父にも、手紙は送っておいた。
父には勘当されたままだが、それはもう、何の心残りにもなっていない。ぼくは今、自分で決めた人生を歩んでいる。
ジュンに出会えてよかった。
先に何の保証もなくても、今の充実は幸福だ。
だから余計、ぼくの目標だったジェイクが落ち込んでいるのが気になる。彼は本当は、辺境へなど出たくないのかも。妹同然のジュンのためだから、表面的には、何の文句も言わないけれど。
「やっぱり、未練があるんじゃないですか……たとえば、シギリヤさんとか」
彼女は、ジェイクのガールフレンドの一人である。他にも十人かそこら、『継続している女性』はいると思うが、ぼくが直接知っているのは一部だけだ。《エオス》がどこかの港に着く度、出迎えに来る女性や、落ち合う女性がいることは、特に詮索しなくてもわかる。
「そろそろ結婚を考えていたとか、シギリヤさんが妊娠しているとか、そんなことじゃないんですか」
ジェイクはふっと笑って否定した。
「それはない。そんな女がいたら、とうに《エオス》を降りてる」
しかし、そこは義理堅く、親父さんとジュンへの気遣いを優先するだろうから。
本当に、私生活の悩みではないのだろうか。
もしかしたら、他の女性では、誰もネピアさんの代りにはならなかったのか……今ではジュンこそが、ネピアさんを忘れられるくらい、大きな存在なのではないかと思っていたのだが。
「それより、おまえの方だ」
「はい?」
「ジュンと約束はできてるんだろうな」
「えっ」
それは、将来の約束という意味か。ぼくの間抜け顔を見て、ジェイクは眉をしかめた。
「指をくわえていたら、ティエンに先を越されるぞ。今度からは、両方とも辺境なんだから」
そうだ、あいつがいるんだ。違法組織のボスの息子。ニュース番組を見てジュンに惚れ込み、誘拐までやってのけた迷惑野郎である。
おかげで、父親の組織を最高幹部会の使者に乗っ取られ、自分は外の荒海に放り出されることになった。
しかし、ジュンが《アグライア》に落ち着くと、すぐに彼から接触があったというのだ。どうやら、荒波の中で生き延びて、まだジュンのことを思っているらしい。ううむ、今度からは、ティエンがライバルか。
「他人のことより、自分のことを心配しろ」
とジェイクに追い払われてからは、ティエン対策に頭が向いてしまった。
ジュンの側に張り付くのはぼくだから、あいつのアタックは徹底的に妨害してやろう。彼が贈り物を届けてきても、黙ってどこかに捨ててしまうとか。
いや、だめだ。そんな真似、ジュンに知られたら、ぼくが信用を失くす。
じゃあ、よその美女をティエンにけしかけるとか。
いや、無駄だ。あんなにジュンに惚れ込んでいるのに、そう簡単に心変わりするものか。
ああ、どうしよう。今はまだぼくの方が大人だと言えるが、もう数年経って彼が経験を積めば、そんな差はすぐ埋まってしまうだろうし。
***
出迎えの護衛に囲まれた小艦隊は、とうとう違法都市《アグライア》に着いた。ジュンが途中まで、出迎えを寄越してくれたのだ。無法の辺境であっても、大組織である《キュクロプス》の紋章が付いた艦隊ならば、攻撃を受ける心配は全くない。
差し向けられた武装トレーラーでセンタービルに向かいながら、ぼくはそわそわして、何度も洗面所に立ち、鏡を見てしまう。こんな、着古したジャケット姿でよかっただろうか。元からの職員たちの手前、ぱりっとしたスーツの方がよかっただろうか。それとも違法都市の流儀は、もっと自由なのだろうか。
他の誰にどう思われてもいいが、ジュンには、ぼくを見て安堵してほしい。ジュンと知り合ってから、こんなに長く離れていたことはない!!
1G市街のビル群は緑に囲まれて美しく、人も車も賑やかに行き交っていた。中規模都市なら、こちらも隅まで目が届きやすいかもしれない。過去に事件で違法都市に上陸したことはあるが、長期滞在のつもりで訪問するのは初めてだ。
……というより、残りの人生、ここで過ごすことになるのかも。
「ようこそ、皆さん」
繁華街にそびえるセンタービルでは、事務部門の代表者のギデオンという男が出迎えてくれた。感情を見せない、のっぺりした黒髪のハンサムだ。どこかハキムを連想させるものがあって、ぼくは内心、不快感を抱いてしまう。
ぼくを餌食にした同性愛者の男は、乱戦の中でネピアさんに撃たれ、既にこの世にはいないが……
とにかく、先入観を持つのはやめよう。こちらが嫌悪を隠していると、それが向こうにも伝わってしまい、うまくいくものもこじれてしまう。
「総督閣下は視察に出ておいでですが、昼には戻られる予定です」
ということで、それまでセンタービルの中を案内してもらった。
総合司令室、総督執務室、それに付属する事務局、機械管理室、警備部隊の詰め所。ホテル区画やパーティ会場、職員用の宿泊施設などもあり、一つの町くらいの機能が詰まっている。行き来する職員たちも、違法都市らしく、油断のない顔つきだ。
ジュンはこれまで一人で、どんなに心細かったろう。ここにいて出迎えてくれなかったのは少し残念だが、前からの予定をぼくらのために変更することはできなかったのだろうから、仕方ない。
ぼくらの部屋もジュンの私室の近くにそれぞれ用意されていたので、そこに荷物を入れたり、待機しているアンドロイド侍女や兵士に何か命令して、反応を確認したりした。
もちろん、違法組織の警備システムを完全に信用できるとは思えないので、当面、ぼくらが連れてきた中央製のアンドロイド兵を護衛に使うつもりだ。気休めに過ぎないが、自分でも、銃やナイフ程度は身に付けておく。これを使う場面は、まずないと思うのだが。
昼時になると、護衛車両に囲まれたジュンの車が戻ってきた。さすが、総督の身辺警護は厳重だ。ぼくたちはVIP用の駐車場で待ち構えていて、ジュンを出迎える。
「お帰り、お疲れさま。これからは、みんなできみを助けるからね」
「わあっ、エディ、みんな!!」
甘いサーモンピンクのドレススーツを着て、耳に金のイヤリングを光らせたジュンは、見違えるほど美しくなっていた。ただでさえ、少女から大人へ変貌していく時期である。それが、プロの手で磨き上げられているのだから、なおのこと。
それでも、元のジュンと変わらない証拠に、すぐさまぼくに飛びついてくれた。ぼくの胸に顔を埋め、すりすりしてくれる。
ああ、このしなやかな弾力、果物のような甘い匂い。短い髪が、ぼくの顎をくすぐる感触。
男でよかった。好きな女性を抱く側で。これがどれほどの歓喜か、きっとジュンにはわからない。
先輩たちも交互に、ジュンの頭をぐりぐりやったり、肩を叩いたりする。
「まさか、こんなことで違法都市暮らしをするとはな」
「まあ、珍しい体験ではある。違法都市にも、美女はたくさんいるだろうし」
ジェイクはぶすっとして、
「この、怖いもの知らずめ」
と言ったきりだが。まあ、照れ隠しだろう。
それからジュンは、ぼくの両手を握ってぐるぐる踊り回った。
「よかった。嬉しい、来てくれてありがとう!!」
そして、喜びながらも心配する。
「ごめんね、あんたたちをこんなことに巻き込んで。エディの家族には、あたし本当に申し訳ない」
ジュンからぼくの母や姉へ、そしてぼくを勘当した父の元へ挨拶が行っていたことは、後日わかったことである。父にはまず手紙を送って、ぼくのことを弁護し、それから何度も通話していたというから、ずいぶん気を遣わせてしまった。
「とんでもない。来たくて来たんだよ。何でもするから、どんどん使ってくれていいよ」
「うん、そのつもり。目一杯働いてもらうから、よろしくねっ!!」
秘書のメリッサ嬢(上品だが、やや寂しげな面差しの、黒髪を結い上げた美人)と、相談役のユージン(暗色のサングラスをかけた、やや貧相な痩せ型の、褐色の髪の男)にも紹介された。
「都市内のことは、何でもメリッサに聞けばいいよ。ユージンは、あたしの教育係としてメリュジーヌに派遣されてきたの。あたしが一人前になったら、自分の組織に帰るってさ」
「それまで、何年かかるかは知らんがな」
愛想のない男だが、ジュンはなついているようだ。一応は、あてにしてもいいのだろうか。
エレベーターに乗り込んだところで、メリッサ嬢の手首の端末に連絡が入った。
「ジュンさま、通話申し込みですわ。ティエン氏です」
うわ、油断も隙もない。
「あ、それなら話すよ。上に着いてから」
とジュンは機嫌がいい。
既にもう、彼からは何度も通話があり、自分の組織をどのように育てつつあるか、苦労話を聞いているという。何でも、彼の侍女だったバイオロイドの女たちが、強い味方になってくれたのだとか。
兄弟姉妹のないジュンは、元々、ティエンのことを弟のように見ている節がある。とんでもない。あいつのおかげで、ぼくがどんな目に……いや、その後、ジュンに〝慰めてもらった〟から、収支は大幅にプラスかもしれないが。
あれから何度か、ジュンに、
『追加で記憶の〝上書き〟しようか』
とにこやかに提案されたが、必死のやせ我慢で、辞退した。清らかな乙女に、そこまで甘えるのは浅ましい。ジュンの好意にだって、限度があるだろう。
いや、ジュンにとっては、あくまでも〝生物学的実験〟なのかもしれないが……
これからは、ぼくも積極的に行動しないと、ティエンに先を越されてしまいかねない。幸い、彼の拠点が遠いので、面会ではなく、通話だけに留まっているのだが。
エレベーターを降りたフロアで、ジュンは壁の通話画面に近づいた。
「ティエン。ちょうどよかった。《エオス》のみんなが着いたところなんだ」
何が、ちょうどいいものか。そのタイミングを狙って、アピールしてきたんだろう。ぼくに釘を刺すつもりだな。
「やあ、ジュン、今日も美しいね。花を届けさせたよ」
「うん、いつもありがとう。お花は大好き」
いつもだって、この野郎。
画面のティエンは濃紺のスーツ姿で、だいぶ大人びて見える。カールした黒髪に緑の瞳、健康な赤銅色の肌。
元から体格のいいハンサムだったが、父親を失った後、自力で生き延びてきた自信のせいか、かなり屈強そうな、いい男になっている。あと五年もしたら、どれほど手強い男になるか。
……そうか。こいつはナイジェルに似ているのだ。ぼくの少年時代のライバル。
いや、向こうが勝手にぼくを敵視して、幾度も突っかかってきたのだ。だから余計、ぼくの神経がぴりぴりする。ジュンはなぜあんな奴に、チェリーの後見なんか頼んだのか。
まあ、ぼくらがこうして辺境に来てしまった以上、チェリーのためには、友人が多い方がいいのだが。
チェリーが奴の毒牙にかかったら、と心配するぼくに、ジュンは笑って言ったものだ。ナイジェルは、死んだエレインに優しくできなかった分も、チェリーに優しくするから、問題ないよ、と。
「やあ、エディ」
ジュンの後ろに立つぼくに、ティエンはわざとらしく視線を向けてくる。
「ついにきみも、辺境の住人だね」
と、薄笑い。
「辺境では、自分の方が先輩だと言いたいわけか!?」
ぼくの喧嘩腰に、背後で《エオス》の先輩たちが驚いた気配だが、仕方ない。こいつに対してだけは、強気に振る舞わないと。
「とんでもない。番犬としては、きみの方がはるかに先輩だよ。尊敬する」
何年一緒にいても、まだ番犬のままだ、という厭味だ。言い返そうとしたら、ジュンがにっこり発言した。
「そう、エディと仲良くしてね。エディはあたしの大事な騎士だから。傍に来てもらって、本当に嬉しいの」
ぼくははっとして、動きが止まる。
騎士だって。
ぼくが遠い目標にしていた地位が、他ならぬジュン自身から承認されたのか、本当に。
「ティエンも、あなたの所の女の人たちを守ってあげてね。ティエンなら、きっとそれができるはずだから」
ティエンの顔が、何ともいえない悲しみに歪んだ。つい、気の毒になったくらいだ。
ぼくの身内に歓喜がふくれ上がるのとは対照的に、ティエンから生気が薄れていく。
「ああ、そのつもりだ……そうしているよ」
と答えた言葉にも、力がない。
その後、短い会話だけで、向こうから通話を終えたのは、ジュンの態度がよほど堪えたからだろう。
ジュンは何人もの証人の前で、ぼくを自分の騎士だと宣言してくれたのだ。お義理や追従ではない。ジュンは、本気でそう思っているから、そう言っただけ。
ジュンの他に誰もいなかったら、ぼくは泣いていたかもしれない。だが、先輩たちがにやついているし、メリッサ嬢は興味ありげだし、ユージンは冷静な観察者の態度だ。ジュン本人はにこにこしている。もう、悠然と振る舞うしかない。
「ティエンは元気そうだね」
と余裕ありげに言ったら、ジュンは姉のような包容力で言う。
「頑張ってるよ。頼もしくなった。先が楽しみだね」
***
その晩は、ぼくらの歓迎会というか、側近グループの結成会というか、ユージンとメリッサも加わって賑やかな晩餐になった。
ジュンからはアレンと双子の姉妹の物語を聞いたり、辺境の大立て者メリュジーヌの印象を聞いたり。こちらは親父さんの様子を報告したり、議会や司法局の反応を話したり。
「みんな、心配半分、期待半分で見守ってる感じかな。きみが辺境でやっていけるかどうか、賭けをしている連中もいる」
ぼくが言うと、ジュンはにこやかに受ける。
「やるよ。それしかないもん。こうやって、みんなも来てくれたし」
細身の伊達男のルークは、いつも通りに明るい。
「いやあ、辺境には辺境の女性がいるからなあ。今日も早速、素晴らしい美女と知り合えたし」
と、メリッサ嬢に熱い視線を注いでいる。いつでもどこでも、人生を楽しむ主義なのだ。彼女の方は、露骨に気づかないふりをしていた。ルークは趣味ではないのか、それとも、冷たいふりで気を惹いているのかはわからない。
ずんぐりした武道家のエイジは、いつも通りに平静だった。
「自分が辺境で暮らすとは思わなかったが、天に与えられた試練だと思って、やるだけはやってみよう」
何があっても、それを自分の修業だと捉える男だ。寡黙だが、粘り強くて、頼りになる。
無精髭を生やしたジェイクは、これまでと変わらず皮肉に言う。
「最高幹部会も、よくこんなじゃじゃ馬をスカウトしたな。暴走して都市が潰れても、俺は知らんぞ」
ジュンは不敵に笑っていた。
「あんたたちには、そのじゃじゃ馬の子分になってもらうよ。明日から早速、各部門の監督を頼むからね。必要な資料は、全部渡してあるでしょ?」
これまで《エオス》では一番の下っ端だったジュンが、ぼくらのボスという形になる。最高幹部会が総督に任命したのは、ジュンだからだ。
もちろんジュンは、先輩たちの知恵や経験を頼りにしているし、忠告も聞くだろうが、最終的な決定権はジュンにある。
先輩たちも、そのことはわきまえていた。たぶん、ずっと前からわかっていたと思う。ジュンはいずれ、親父さん以上の大物になると。
だからそれぞれ、自分の持っている知識や技能を、可能な限りジュンに注ぎ込んできた。ジュンが今日あるのは、先輩たちの薫陶のおかげだろう。
とにかく明日からは、ぼくらのチームでジュンを支える。遠い違法都市を拠点にしたティエンなど、通話しかできないのだから。
***
ぼくに割り当てられた部屋は、ジュンの私室のすぐ隣だった。つまり、最高の立地。
ぼくの隣がジェイクで、同じ階にはメリッサ嬢の部屋もある。あとはエイジとルーク、それにユージンの部屋が、すぐ下の階。総督の周囲は、忠実な側近に囲まれているということだ。
もちろんビルの管理システムは、上からの命令を受けたら、すぐさまぼくらを射殺できるが。
嬉しかったのは、ジュンが当然のように、ぼくを私室へ招き入れてくれたことだ。他の皆は自分の部屋へ引き上げたので、ようやくジュンと二人きりになれて、ぼくは舞い上がった。ざまあみろ、ティエン。
「疲れたでしょ。でも、来てくれて本当にありがとう」
ジュンと向い合せに座り、改めて真正面から見つめ合った。わずかな日数のうちに、ジュンはすっかりあか抜けて、まばゆいほど美しくなり、おまけに落ち着きを増している。もう、少女というより、若い女性と呼ぶべきかもしれない。
「親父さんとバシムから、くれぐれも無理をするなって言われてきた」
「うん、でもまあ、無理をしないと改革なんてできないからね」
ジュンはさっぱりとして言い、いきなり核心に斬り込んだ。
「この部屋は一応、盗聴されていないと思う。されているとしても、メリュジーヌに対しては仕方ない。彼女は、あたしたちのことを調べ尽くしている。《タリス》のこともね。その上で、あたしを使えると判断しているんだ……エディのことも一緒にしてね」
ぼくは数秒、理解に時間がかかった。《タリス》だって。中央の外れに位置する、遺棄された植民惑星。
「まさか?」
シドのこと。アイリスのこと。ぼくの心臓のこと。
「そうなんだ。あたしも驚いた。でも大組織は、配下の系列組織の動きは、だいたい把握しているみたい。でなかったら、下剋上でひっくり返される」
そうなのか。
それも知った上で、最高幹部会はジュンをずっと監視していた。いずれ、大きな役目を与えるために。
逆説的だが、むしろ安心した。そこまで知られているのなら……目先の抵抗なんか無駄だ。腹をくくって、ここに錨を下ろすしかない。もちろん、最初からそのつもりだったけれど。
「あたしが総督として広く認められるようになれば、エディの身も安全になる。あたし、本気でやるよ。あんたも、ここまで来てくれたのなら、腰を据えてかかってくれる?」
それもあって、ジュンはぼくを騎士だと公言したのだろう。アイリスの万能細胞を植えられたぼくは、どのみち、市民社会では安心して過ごせなかったのだ。
「大丈夫、そのつもりだよ。きみがいる所が、ぼくの生きる場所だから」
するとジュンは、嬉しいのか悲しいのかわからないような、微妙な笑顔になった。
「あたしのせいで、エディの人生を狂わせたね」
それに関しては、ぼくは迷いなく断言できる。
「きみに会った時から、ぼくの人生の本番が始まったんだよ。ぼくは一生、きみの……騎士だからね」
本当はこの後、感動したジュンが、ぼくの腕に飛び込んできてくれたら最高だったのだが……ジュンは苦笑して、平静なままぼくに言った。
「ありがとう。頼りにしてる。それじゃ、また明日ね。おやすみ。あたしとメリッサは七時に朝食だけど、エディたちは寝坊してくれて構わないから」
誰が、寝坊などするものか。ティエンがどんなに悔しがっても届かないくらい、完璧な騎士になってみせるのだから。
***
翌日から、みんなで一室に集まって朝食を摂り、その席で一日の仕事の割り振りをしたり、あれこれ相談したりするようになった。
「俺がこっちの工場見てくるから、おまえはそっちな」
「護衛兵はちゃんと連れてけよ」
「この会合は、俺とジュンで行こう」
「ジュンさま、向こうとの時間調整できました」
「エディ、晩ごはんは一緒に食べようね!!」
朝食後にはそれぞれの方角へ散り、会議に出たり、視察をしたりして、夕食時にはまた集まって、互いに報告したり相談したり。
最初は慣れないことも多く、無駄にうろうろしたが、一週間もすると大体の様子が掴めてきた。
身の安全に関する不安は、ほとんどないということもわかった。ぼくらが最高幹部会の威光に守られている限り、辺境においては、大多数の者が道を譲るのだ。
危険があるとしたら、〝リリス〟がジュンを獲物と定めた時くらいだろう。そんなこと、まず有り得ない。軍も司法局も、半信半疑ながら、ジュンの改革を見守っているところなのだ。
先輩たちもそれぞれ担当部署が決まり、現場を歩いて、元からの職員たちを掌握しようとしている。
ぼくは大体ジュンに付いて回って、秘書兼護衛役を務めていたが、必要に応じてあちらを手伝い、こちらを手伝いしているので、広く浅く全体に目配りしている感じだ。メリッサ嬢に次ぐ、第二秘書という位置だろうか。
もちろん、いずれそのうち、第一秘書に昇格してやるつもりだ。何といっても、〝女王陛下の騎士〟なのだから。
その噂がどう都市内に流れたのか知らないが、行く先々で、ぼくは総督閣下の第一の忠臣として、丁重に遇されたと思う。ジュンもまた、ぼくにぽんぽん仕事を投げてくる。
「あ、それはエディに言っておいて」
「これからは、エディが仕切るから」
「それは、エディが確認してくれればいい」
おかげでぼくはたちまち、膨大な業務の結節点になった。大変だが、働き甲斐はある。都市の管理業務を背負うということは、大きな権力を持つことなのだ。軍の新米士官なんかとは、比較にならない地位である。千人以上の部下と、五十万の住民がいるのだから。
同時に驚いたのは、ジュンが既に、総督として迷いなく振る舞っていることだった。ギデオンやメリッサに報告や説明を求め、疑問点を明確にし、決断して指示を下す。
他組織の幹部たちとも会い、堂々と渡り合う。
ジュンを馬鹿にする態度の者も、いないではないが、彼らも表面上は、一応の礼儀を保っている。それは、背後にいるメリュジーヌを怖れているからだ。
大半の者は、既にジュン自身の権威を認めている。最高幹部会の後ろ盾があることは周知の事実だが、操られるだけの子供ではなく、ジュン自身に戦う意志があることが知られているのだ。
優秀なのは知っていたが、これほど易々と、都市の最高指揮官の地位に馴染むとは。
辺境の柔軟さや、効率の良さにも驚いた。法律の制限がないため、面倒な手続きもなく、ジュンが命じたことが即座に実現する。
「週に二回、外来者との面談の時間を確保することにした。申請者には順番に会うから、エディがメリッサと一緒に、申請者の身元調査をしておいて。どんな困りごとを抱えているのか、組織の運営状況はどうか、背景があたしにわかるようにね」
「週に一回、各部の責任者との会議を開くことにする。あたしへの業務報告とは別だ。お互いの情報共有をして、幹部同士が親しくなるのが目的だから、お茶と軽食を用意して、気軽な集まりのようにして」
「ルークとエイジで、繁華街の店を、悪質度に応じて区分けして。最悪レベルの店を淘汰したら、収入がどれだけ落ちるか試算して」
「《アグライア》の全職員との面談を開始する。人間もバイオロイドもひっくるめてね。小惑星工場の方も、防衛艦隊の方もだ。経歴や教育レベルを一覧表にしておいて。これはジェイクとメリッサに立ち会ってもらう」
「メリッサ、今度から週末のパーティは、二十人以下の少人数にして。お披露目は大体終わったから、あとは個々の客と話せる時間がほしいんだ」
猛烈な忙しさだ。こちらとしては、せめて週に一日は、何も予定を入れない休養日を取ってくれるよう、頼むしかない。
都市運営そのものも、思っていたより厳正に行われていた。報告や連絡や調整は、きっちりシステム化されている。
階級制度が明確で、軍隊に近い点、かつて技術士官だったぼくには馴染みやすかった。
考えてみれば、当然である。客は好き放題してもいいが、ホスト側がきっちりしていなければ、都市や店は維持できない。
公園や街路樹の手入れ、ビルや道路や水道などの維持管理、必要物資の流通、資源リサイクル、電力供給、警備部隊の巡回による治安維持など、必要な業務は定まった手順で遅滞なく行われている。
最大の問題は、ジュンが、前例のない大きな目標を掲げていることだった。
総督就任時に宣言した通り、この《アグライア》から、娼館や人身売買を追放するというのだ。
そして、都市に出入りするどの組織に対しても、そこで使われているバイオロイドの人権尊重を大原則として要求していくと。
***
ある日の夕食時、『娼館廃止』を改めてジュンの口から聞いたぼくらは、しばらく言葉を失った。
「ジュン、それは……」
もっと時間が経って、住民たちがジュンに慣れてからでもいいだろうに。
しかしジュンは、ぼくらが反対しても、聞く耳を持たない顔つきだ。
「娼館の売り上げそのものは、絶対値でいえば、たいしたことないとわかった。それがなくても、他にいい店があれば、都市としての集客はできる。誘拐されてきた市民を売り飛ばす公開市場についても、何らかの規制はかけたい。たとえば、十八歳以下は中央に帰すとか」
確かに、子供が売られて人体実験の材料にされたり、違法ポルノに使われたりするのは、あまりにも惨い。
大人ならば、たとえ違法組織に買われても、そこから自分の才覚で生き延びていくことが期待できる。あくまでも、期待だが。
「これからは評判を上げて、この都市に人間の女性を集めていきたいんだ。そうすれば、女目当ての男たちも集まってくるもの」
ジュンはいま、勢いがあるうちに改革の端緒をつけたいらしい。
「だいたい、そんな店があるから、そんな店目当ての男がうろうろするんだよ。ガラが悪いから、まともな市民が来てくれない。あたしはね、普通の市民が遊びに来られる違法都市を目指したいの」
それは、辺境の常識を飛び越えた発言だ。惑星連邦政府としても、市民がこれ以上、違法都市に向かうことは望まないだろう。現状は、違法都市から流れてくる違法ポルノさえ、取り締まれていないのだが。
「そんなの、違法都市と言えるか」
ルークが虚しく文句をつけたが、ジュンは平気だ。
「これまでの常識を変えるんだよ。それが、小娘を総督に据える意味ってものでしょ。あたしにそれをさせたくなかったら、最高幹部会があたしを選ぶはずがない」
治安の守られる違法都市。
市民が気軽に探険に来られる魔都。
もしも実現したら、それは、かなりの革命ではないだろうか。
これまで辺境には、任務で短期間やってくる軍人や司法局員、勇敢な学者やジャーナリストなどを除けば、ほとんど片道の人口流入しかなかった。二度と市民社会に戻らない覚悟で、不老不死を求めてやってくる者ばかりだ。
たまには、極秘の買春ツアーもあるというが、それに参加する市民はかなり限られている。発覚したら、一生が台無しになるリスクがあるからだ。それに、そういう弱みを持つと、違法組織に脅迫されやすい。
だが、ごく普通の市民が、軽い好奇心で遊びに来られ、無事に帰れるようになったら。
それは、劇的な変化のきっかけになりうる。最高幹部会が、そこまで望んでいるかどうかはわからないが。
「物理的には、十分可能なんだよ。専用のツアー船を仕立てて、護衛艦隊を差し向けて、往復の安全の保証をすればいいんだから」
ジュンは既に、あれこれ検討してきたようだ。
「辺境に来ること自体は、現在の法律の範囲内でも、違法でも何でもない。連邦市民には、行動の自由があるんだから」
異質な文明圏の存在を公式に認めていないものだから、そういう法律上の弱点が生まれるのだ。
「ツアーについてはいずれ、軍や司法局と交渉するつもり。その準備として、まず、人身売買や強制売春に関わる店は追放しておく」
夢を語るのは簡単だ。総督命令なら、そういう店を営業停止にすることもできるだろう。
しかし、辺境の〝人間人口〟の大半は男だ。男たちが遊べる店を閉鎖してしまったら、都市の魅力がなくなり、人口が減ってしまうのではないか。
人間の女性を集めるといっても、そもそも、辺境で暮らす本物の女性は数少ない。おまけに、それぞれの組織が貴重品としてがっちり抱えている。そこから抜け出すのは大変だろう。
《ヴィーナス・タウン》のような女性向け娯楽施設に、短期滞在で遊びに行くことはあっても、この《アグライア》に永住となると……組織を裏切って逃亡するしかない、ということになるのでは。
こちらでよほど受け入れ態勢を整えておかないと、いや、それにしても、あちこちの組織から恨みを買うだろう。それが、どんな風に祟ってくるかわからない。複数の組織が共謀して、ジュンを陥れる罠を張るのではないか。
「ジュン、きみの気持ちはわかるけど、違法都市というのは、そのう、そういう部分があるから人を集めているわけで……いきなり全廃というのは……」
おずおず言いかけたら、黒い瞳に厳しく見据えられた。
「エディは反対なの?」
ジュンにこの目を向けられたら、ぼくは勝てない。
「いや、反対はしないけど、まだ時期が早いんじゃないかと……もう少しリサーチしてから……」
「したよ。した上で、やろうと思ったの。あたしがやらなかったら、誰もしないでしょ、そういう改革は。失敗したところで、今より悪くなるわけじゃない」
ジュンの身が危なくなる、という一点を除けば。
「いいんじゃないか」
さらりとそう言ったのは、末席にいたユージンである。夜でもサングラスをかけたまま、目許の表情を隠している。
「やってみて駄目なら、軌道修正すればいい。試験的な実施なら、別に構わないだろう。何でもありというのが、辺境の売りなんだから」
彼は淡々とした事務的態度を通し、ぼくらと個人的な話をすることもしないが、ジュンに対しては、いい相談役になっているらしい。ジュンが彼に接する時の態度から、それがわかる。
ジュンは勇気百倍という感じで、にっこりした。
「よし。じゃあ明日、告示を発表するよ」
唖然とするぼくらに向かって、人差し指を振る。
「文面はもうできてるから、訂正したい部分があったら、今夜中に言ってよ。ストリップ・バーとかポルノショップとか、そういう店は営業オーケイだから。ただ、生身の女性や子供を撮影に使った映像作品は、いずれ販売禁止にするつもり。それも布告に入れておくから」
そんな、年頃の乙女が、大きな声でそんな言葉を。ああ、親父さんがここにいくなてよかった。
「とにかく、強制売春をなくしたいの。最終的には辺境全体でのバイオロイドの人権向上が目的だけど、それにはまだ遠いとわかってるよ。とにかく、できることから一つずつやっていくつもり」
まあ、それでこそジュンと、誇らしい気持ちになったのは確かだ。ジュンが簡単に辺境に染まるようなら、それこそ一大事なのだから。
***
夕食の後、ぼくはいつものように、ジュンの部屋で過ごした。
仕事を終えた時間に、こうして私室に入れてもらえるのは、女性であるメリッサを除けば、ぼくくらいのものだ。ジュンは華麗なスーツを脱いで気楽な部屋着姿になり、素足をさらしてソファに寝そべっている。
「そろそろ、空手の稽古も再開しなきゃ。ずっとさぼってたから、すっかり鈍ってる」
軽い運動しかする余裕がなかった、とジュンは嘆く。
「無理しない方がいいよ。ろくに休みも取ってないんだろ。いくら若くても、休息はしないと」
「でも、エディたちが来てくれたから、大幅に気楽になった」
エディたち。先輩たちとワンセットの扱いなのはいささか傷つくが、将来的には、三人は中央に帰るのだ。先輩たちがここでジュンの手助けをするのは、おそらく数年のこと。あとは結婚したり、正業に戻ったりしなければならない。
本当はもう少し個人的な話もしたいけれど、ジュンはとにかく理想の実現に燃えている。だからぼくも、仕事の上で助けになるしかない。
「ジュン、そのう、娼館廃止の件なんだけどね」
何度もためらった挙句、ようやく口に出せた。
「きみの理想は立派だよ。正しいことだと思う。だけど、世の中には、できることとできないことがあると思うんだ」
ぼくの意見で、ジュンが止まるとは思わない。しかし、困難の度合いだけは理解してもらわないと。
「人類の歴史を見れば、女性の商品化は、少なく見積もっても数千年は続いてきたわけだから……それは、男の側の絶対的な需要があるからだろう?」
ぼくも男だから、身に染みて感じることがある。おおかたの男にとって『金で買える女』というのは(ぼくはもちろん、買ったことなどないが)、とても有り難い存在だ。
そういう立場に閉じ込められているバイオロイド女性の悲哀は……頭で考えても、自分の苦い経験から類推しても……ある程度、わかるつもりだ。それこそ、地獄の日々だろう。
しかし、男がそういう気になった時、自由な女性を口説くところから始めるのは、本当に大変だ。
決まった女性がいる男はいいが、そうでない男は、慢性的に飢えた状態にある。
世界に女性はたくさんいるのに、その中の何人が、喜んでこちらと交際してくれるというのだろう。
多くの女性の要求水準は、きわめて高い。
ジェイクやルークたちのように、相手に困らない男なんて、そうはいない。
中央でモテていた男だって、辺境に出てくる時は大抵、単身だ。まともな女性は、そう簡単に辺境行きを決意したりしない。
アレン・ジェンセンのように、恋人連れで来られる男なんて(彼の場合は、アンヌ・マリーに引きずられた形だが)、例外中の例外と言っていい。
辺境に出てくる男のほとんどが、有り難く、バイオロイド美女を利用していることだろう。
彼女たちを五年で殺すなどという非道は、もちろん言語道断だが、しかし、長く生かしておくのが難しい事情もわかる。
ずっと奴隷の立場では、彼女たちだって耐えきれない。自殺か発狂か、さもなければ命がけの反撃ということになる。だから、危険にならないうちに始末してしまうのだ。
長く生かしておけば、バイオロイドにも知恵がついて、人権を要求するようになる……かつて地球本星で、二級市民として虐げられていた女性たちが、手を取り合って立ち上がり、男の身勝手を糾弾したように。
だからこそ、それに不満がある男たちは地球を捨て、『男の天国』を作るために、辺境の宇宙を目指したのではないか……
そういうことを、冷や汗たらたら訴えたら(むろん、ぼくの個人的事情は除外して)、ジュンは無邪気そうに言う。
「でもエディは、娼館なんかに行かないでしょ。このビルのバイオロイドたちにも、手出ししないよね。それなら、他の男にもエディを見習ってほしいな」
信頼しきった顔でにっこりされたら、頭の中で下劣な妄想をふくらませていることなど、おくびにも出せないではないか。
「そりゃ、ぼくは行かないけど……だからといって、他の男にもそれを要求するのは、かなり無理が……」
ぼく自身、ジュンを愛していても、他の女性に誘惑されると、ぐらりと揺れてしまう。危うく、理性が吹っ飛びそうになったこともある。
このセンタービル内にも、女性は何百人もいるのだ。
大多数は下級職のバイオロイド女性だが(彼女たちは事務部門にいるので、個人的に人間の男から誘われることはあっても、業務としてそれを要求されることはない。したがって、五年という命の制限はないと聞いて安堵した)、専門職の人間の女性もいる。
都市内のライフライン担当エンジニア。造園デザイナー。医療室の医師。警備部隊の小隊長。ホテル部門の管理職。
他には、仕事で出入りする他組織の幹部女性たちもいる。
意味ありげな視線やウィンク、職務外の個人的なお誘いなどは……ぼくの勘違いでなければ、ほぼ毎日のように、ある。
彼女たちは『まともな男性との交際』に不自由しているから、ぼくたち《エオス》の男は、絶好の誘惑対象になるらしいのだ……ぼくが受ける誘いは、先輩たちが受ける誘いの十分の一くらいだと思うが。
「エディなら、ちょっとにっこりすれば、どこのお姉さんでも喜んでデートしてくれるものね。いい相手がいたら、交際して構わないよ。対等な人間の女性なら、誰を口説いたっていいんだから」
ジュンに寛大な微笑みで言われてしまい、内心で更に冷や汗を流した。
「いや、それは、そんな余裕はないから」
まさか、知られていないだろうな。スタイリストのナディーンに、壁に押し付けられ、脚の間に脚を差し込まれて、思わずくらくらしたこと。もっとも彼女は、先輩たちのことも熱心に誘惑していたけれど。
「その、つまり、ぼくはきみの……」
騎士という言葉を、自分で何度も口に出すのは面はゆい。
「きみの側近だから、身辺は清潔でなければならないと思うんだ」
ジュンは半ば、気の毒そうな顔だった。
「まあ、エディの好きにすればいいけど」
薄々わかってはいたが、やはり騎士というのは、恋人とイコールではないのだ。ジュンはただ、番犬では気の毒だからと、ぼくの地位を対外的に引き上げてくれただけ。自惚れ厳禁だ。
「モテない男が、易きに流れるのはわかるよ。バイオロイドは抵抗しないし、人間を恐れているからね。奉仕してもらって、偉そうなふりができて、いい気分になれるんだろうね」
確かに。
辺境に出てくるのはそれなりに覇気がある連中だとは思うが、奴隷状態のバイオロイドしか相手にできない、哀れな男も多くいるだろう。
そもそも、人間の女性には相手にされない男たちが、あるいは、人間の女性には飽き足りない男たちが、バイオロイドの製造を始めたのだ。
男たちが危険を承知で辺境に出てくる理由の半分は、それだろう。
『従順な美女たちのハレムに君臨したい』
あとの半分は、不老不死だ。それも、永遠に快楽を楽しむために。
「ねえ、ジュン」
怖々尋ねてみた。
「そういう男は、どうすればいいんだい。つまり、いくら努力しても、恋人のできない男は……」
それこそが、人類文明の根底に横たわる大問題だと思うのだが。
誇り高い美少女……いや美女は、平然として言う。
「人形でも相手にしていれば。バイオロイドじゃなくて、本物の、命のない人形をね」
がんと頭を殴られた気分だ。
何という冷血。
「今は、精巧なラブドールがあるんだよ。あたし、お店で見たもん。心はないけど、命令通りに動いてくれるし、適当な受け答えもしてくれる」
心のない人形で、満足しろというのか。
「でなかったら、二次元の美女でも相手に、脳内恋愛していればいい。仮想現実っていう手もある。現実の女性を巻き添えにしないで、一生、幻想に浸っていればいいんだよ」
巻き添えときた。やはり、若い女の子は残酷だ。好きな女性に相手にされない男の絶望なんて、理解しようともしない。
だが、それも当然か。ジュンには、モテすぎる悩みしかないのだから。
シドは虜にするし、ティエンには崇拝されるし、ファンクラブはあるし。傲慢が服を着て歩いているようなナイジェルすら、ジュンには一目置いている。まったく、怖いものがない。
いっそ狼になって、ジュンに喰いついてみたいという、破れかぶれの空想が湧いたが、現実には無理だ。嫌われてそれきりになるより、番犬で構わないから、側に置いてもらう方がいい。
いやいや、もう騎士に昇格したんだ。自虐はやめよう。
こうして夜間に、ジュンと二人でいられるのではないか。ファンクラブの男たちにしてみたら、悔しさでのたうち回るような状況だろう。ジュンは表向き、ぼくを〝交際相手〟ということにしているのだから。
「ジュン、あのさ、たとえば辺境中から娼館をなくしたとして、バイオロイドも全て解放したとして、モテない男たちが徒党を組んで、大規模な暴動でも起こしたらどうする? いや、暴動どころか、戦争状態になるかもしれない」
女に飢えた男たちの怒りと絶望は、凄まじい脅威だと思うのだが……
しかしジュンは、そんな怨念など、簡単に蹴散らせると思っているらしい。
「艦隊でも何でも出して、鎮圧すればいい。モテないからって、暴れても無意味でしょ。努力して自分を磨いて、せっせと女を口説けば、一人くらいは付き合ってくれるはずだ」
女は〝優しい男〟が好きなのだから、振り向いてほしい女性がいたら、とことん尽して下僕になればよい、という。
それこそ、ぼくのしていることだが。
しかし、尽くすことさえ却下される男も、大勢いるだろう。視野にいるだけでうっとうしい、と。
恐る恐る、尋ねてみた。
「だけど、努力してもだめだったら……自分の好きな人に、どうしても振り向いてもらえなかったら?」
それは、自分で考えまいとしている、恐怖の未来だ。たとえば、
『ティエンを恋人にするけど、あんたは変わらず、騎士のままでいてね』
だなんて言われたら。自分は、はたして耐えられるだろうか。
先に希望があればこそ、奴隷でも番犬でもいいと思えるのであって……希望を砕かれたら、自分が変質するのではないか、ねじ曲がるのではないかと、想像するだけで恐ろしい。
「その時は、悟りを開いてもらおう」
ジュンは厳かな態度で言う。
「自分の願望が全て叶えられるなんて、期待する方が間違ってる。人生は厳しくて、不公正なものなんだから」
アグライア編7に続く