恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー ミオ編』3
ミオ編3 6章 ミオ
五日間、入院した。タケルには、郊外での泊まりの仕事だと連絡しておいて。退院する時には、一日おきの通院を約束させられた。予定の日時に来なければ、強制的に再入院だと脅かされたから、仕方ない。
わたしが発作的に自殺しないか、それが心配なんでしょう?
死なないわ。そんなことをしたら、あいつらに負けたことになるんだもの。
専門家チームの元で治療を受けているうち、段々と、事件当日の記憶が甦ってきた。お酒と薬物で記憶が封じられたとはいえ、無意識の領域に残った記憶が、心理治療によって浮上してくる場合もあるという。
ただし、その内容をこちらが選択することはできない。あれは思い出してもいいけれど、これはだめ、と選べるものではないのだ。
わたしはあの午後、年上の友人であるマレーネ・ファンフリートに呼び出されて、繁華街のカフェに出向いたのだった。
長いまっすぐな黒髪を肩に垂らしたしたマレーネは、デザイナー物の白いツーピースを着て、相変わらず完璧に美しかった。問題ありのマザコン男性でなくても、どんな相手だって選べるはず、と思ったものだ。
二時間ほどしゃべってマレーネと別れた後、わたしはそのまま街をぶらついた。収入はほとんど貯金に回しているので、決して贅沢はしていないないけれど、目の保養くらいはしなくては。
たまたま通りかかった店に、秋冬物の帽子が飾られていたので、ウィンドウに吸い寄せられた。枯れた蔓草を編んだような本体に、紫と若緑の葡萄の房がついている。いま着ている、薄紫のワンピースにぴったり。
どうしよう、と悩んだことを思い出した。既に先週、白い人工毛皮の帽子を買ってしまった後だったから。
――これを買って帰ったら、またタケルに言われてしまうわ。姉さん、頭は一つしかないんだよ。帽子ばっかり、なぜそんなに必要なのさ。
それでも、帽子を買って店から出た時。知らない男性に声をかけられた。はっきり覚えていないけれど。ワン・レイ捜査官が説明してくれた。マレーネがその男性からの希望を受けて、わたしを『見せた』のだ。この子でどうか、と。
その男性が、わたしにキーワードを言ったらしい。
『迷子の子猫ちゃん。帰っておいで。きみの家はこっちだよ』
だなんて、馬鹿げた台詞。でも、それを聞かされた途端、わたしは正常な意識を失い、ただの操り人形になってしまったのだ。
あらかじめ、マレーネが、わたしたちモデル仲間に植え込んでおいたものだという。
ワン捜査官の話では、仲良しグループのみんなでマレーネの部屋に集まって、女だけの宴会をした時のこと。わたしたちは全員、ほどよく酔ったところで薬を盛られ、そのまま雑魚寝してしまったらしい。その後で一人ずつ催眠用ヘルメットをかぶせられ、マレーネと共犯の男性医師に、深層暗示を仕込まれたのだという。
キーワードを聞かされてから、わたしは夢見心地のまま、ふらふらホテルについて行ったらしい。その男は、自分が楽しむだけでは飽き足らず、仲間を呼んで、総勢五人でわたしを玩具にしたというのだ。おまけに、一部始終を撮影して、それぞれ記念に持ち帰ったのだと。
前に三度、同じ目に遭ったことも確認された。その時、わたしを買った男たちも全員逮捕され、証拠の映像記録が押収されたのだ。
『それを見せてください。全部』
わたしはワン捜査官とベイカー捜査官に頼んだ。
『見ない方がいい、後悔するから』
と言われたけれど、他でもない、このわたしの身に起こったことだもの。知らなくては、正しく怒ることもできないでしょう。
けれど、中身は想像以上にひどいものだった。翌朝、全身がきしんでいたのも無理はない。辺境で作られる違法ポルノは、もっとひどいというけれど。
しばらく、溶岩のような怒りがおさまらなかった。世間では『立派な紳士』で通っている男たちが、よくもこんな下劣な真似を。自分の妻や恋人には絶対要求できないことを、ここぞとばかりに試したのだ。どうせ翌日になれば、記憶は消えているからと安心して。
見なければよかった、とも思った。これから一生、思い出しては頭をかきむしるだろう。
でも、見ないでは済ませられなかったのも事実。
病院で精神安定剤を処方され、それをずっと飲んでいる。心に一枚、膜がかかったようになって、怒りや悲しみが和らぐのだという。そうしてしのいでいるうちに、時間が経ち、自然に落ち着いてくるそうだ。
それでも、心の底に、苦い澱のようなものが沈んでいく。その沈殿が、毎日、深くなっていく。
結局、いくら自分で自分の誇りを守ろうとしていても、男たちは、わたしを人形のようにしか見ないのよ。
自分で鏡を見てもわかる通り、わたしは可愛い。少女時代から、ラブレター、交際の申し込みが山のように舞い込んだ。学校の帰り、しばしば待ち伏せされて、プレゼントを渡されたり、パーティや音楽会やドライブに誘われたり。
だからこそ、母や祖母、伯母や年上の従姉妹たちからは、繰り返し戒められてきた。外見でちやほやするような男たちに、付け込まれてはいけませんよ。
その警告は正しかった。思春期に入ると、わたしはすぐさま思い知った。男というのは、目立つ女を連れ歩いて自慢したがる、幼稚で愚劣な生き物だということを。
彼らは仲間内で、誰がわたしを『モノにするか』競争しあっているのだ。わたしはモノではないというのに!!
大学時代に付き合った何人かとも、わたしは、本当の恋人同士にはなれなかったと思う。こちらから別れを告げて、彼らの空威張り、独占欲、そういうものから解放されるとほっとした。
わたしはもう、男なんか要らない。それよりも、もっと他に欲しいものがある。
小さい頃、毎年のように夏を過ごした祖父母の地所が、わたしの桃源郷だった。野菜畑の向こうに広い牧草地があり、山地の雪解け水を集めた美しい小川が流れ、牛や豚、羊や鶏が放し飼いになっている。
必要な時は、賢い牧羊犬が動物たちを集めて回る。丸っこい作業ロボットが何体も、柵や飼料小屋の修理をしている。
毎朝、草むらの中から、生みたての卵を拾い集めて歩いた。自家製のベーコンと合わせて、本物のベーコンエッグを作る。
パンくずは庭に撒く。小鳥たちが舞い降りてくる。明るいテラスから、それを見るのが楽しみ。
ただ、衣料品会社が本業の祖父母にとっては、趣味的な農園にすぎなかった。事業でまとまった資金が必要になって、その土地を若い夫婦に売ってしまった時は、どれほど悲しかったか。
農園は続けるから、遊びに来ていいと彼らに言われたけれど、もう、わたしの天下ではないのだもの。
いつか、あの桃源郷を取り戻したい。いったん売られた土地を買い戻すのは無理でも、他の土地はたくさんあるのだから。わたしは、わたしの夢の農場を作ればいい……
モデル稼業は、そのための資金作りだった。長く続けるのは難しい仕事だけれど、売れるうちに、うんと稼いでおけばいいのだから。
でも、こんなことになっては、二度とカメラの前で微笑んだりできない。自分の容姿を売り物にするような仕事をしていたから、目をつけられたのよ。
だけど、まさかマレーネが、売春組織の中心人物だったなんて。
わかっているわ。どうせ、不老不死が欲しかったんでしょう。短期間に荒稼ぎして、捕まらないうちに高飛びすれば、辺境の違法都市で不老の技術が買えるから。
でも、そんなの馬鹿げている。たとえ不老の肉体を手に入れたとしても、違法組織同士の抗争の中、生き残れるのは、ほんの一握りというじゃないの。
マレーネに誘惑されて、共犯になったという医師も馬鹿だわ。そんな誘いを受けて、代償を払う男たちも大馬鹿よ。それぞれ、家庭があったり、恋人がいたりする男たちだというのだから。
離婚されて当然だわ。仕事を失い、子供に軽蔑されて、生涯苦しむといいのよ……
***
わたしは自宅の庭で、木陰のテーブルに座り、インテリア雑誌を眺めていた。いえ、眺めるふりをしていた。
秋の明るい日差しが、緑の濃い庭一杯に差している。風は涼しいけれど、紅葉や落葉にはまだ早くて、外出には最適の季節。
でも、病院以外、どこへ出掛けるつもりもなかった。モデルクラブにも、体調が悪いのでしばらく休むという、表向きの連絡を入れてある。どのみち、社長も事件のショックで倒れたらしい。
事件はまだ公表されていず、何も知らないモデルや職員たちは仕事を続けているけれど、わたし同様、売り物にされていたモデルたちは、別個に内密の治療を受けているとか。
首都の外れにある司法局の付属病院には、深層暗示や洗脳に対応する専門家たちがいる。患者が他の患者と出くわさないよう、受付にも工夫がこらされている。これまで、そんな施設があることさえ、わたしは知らなかった。
両親が他星の祖父母の元へ旅行中だったのが、不幸中の幸い。
精神安定剤にも、それほどの効果があるとは思えない。思い出す度に、怒りと悔しさで、胸の中がぐちゃぐちゃになる。
というより、忘れようとしても、ほとんど一日中、彼らにされたことが、頭の中から消えてくれないのだ。
なまじ治療を受け、記録映像を見たおかげ。
撮影された映像は、彼らのコレクションになるだけでなく、〝本物〟というお墨付きで、マニアの間に高値で流れていたという。
それももちろん、当局に把握される口座を経由するのではなく、希覯本や骨董品のコレクション、古い金貨などで支払われるとか。この宇宙時代に、再び物々交換に戻るなんて、おかしな話。
マレーネの逮捕で、客たちのリストが押収され、便乗して楽しんだ者たちも、映像を買った者たちも、全て逮捕されたというけれど、あまり慰めにはならない。あれを見た者を、全て殺してくれるのでなければ。
いったん見てしまった映像の印象は、もう消えないのだ。記憶を封じるような治療もないではないけれど、それをすると、どうしても家族や友人に異変を知られてしまい、かえってこじれるから、耐えて時間が過ぎるのを待つのが一番だという。
でも、何年、何十年、黙って我慢すればいいの? いつか、平気で思い出せるようになるの?
そんなこと、ありえないわ。
マレーネもまた誰かに利用され、操られていた被害者なのだというけれど、それは元々、不老不死を望む野心がくすぶっていたからだわ。真犯人は、その心の隙に付け込んだのよ。
マレーネには、二度と会いたくない。モデルクラブも、ほとぼりが冷めたら辞める。あちこちに愛想笑いを振り撒くような仕事、金輪際する気になれない。ミニスカートになるのも、水着姿になるのもいや。
他星系の類似事件でも、モデルクラブが舞台になったという。容姿を売り物にする仕事は、やはり、いかがわしいことに結びつきやすいのだ。
こんな事件がなくても、下劣な誘いはいやというほど受けてきた。うちの製品のイメージモデルとして売り出してやるから、愛人になれというオーナー社長。ヌードになれば、破格のギャラを出すというカメラマン。絶対に他人には見せないから、個人的に特殊な写真を撮影させてくれないか、という話もあった。
全部断ってきたのに、もっとひどい目に遭うなんて。あんな奴ら、全員死刑になればいいのよ。惑星連邦には、どうして死刑の制度がないの。一番重い刑でも、永久隔離だなんて。そんなの、気楽な別荘暮らしのようなものじゃないの。
わたしに銃があったら、一人一人、射殺して回るのに。
暗示はもう解いたから、キーワードを聞かされても、二度と正常な意識を失うことはないと、医師たちには保証された。でも、マレーネを操っていた真犯人は、まだ捕まっていない。
おそらくは、辺境の違法組織が黒幕だろうというけれど、わからないわ。もしかしたら、そいつは普通の市民に紛れて、そこらを歩いているかもしれない。
わたしの中にも、まだ知らない暗示が埋め込まれているかもしれない。絶対安全だなんて、誰にも保証はできないはずよ。
それに、あいつらが刑期を終えて出てきて、そこらでばったり、わたしに会ったら……
ああ、だめ。どこか遠くに行きたい。誰もいない山の中とか。絶海の孤島とか。
でも、この先ずっと、隠れ暮らすわけにもいかないし。何より、家族に知られないようにしなくては。こんなことを知ったら、パパもママもどんなに悲しむか……
「姉さん」
背後から声をかけられて、はっとした。
「なあに」
わたしは笑顔を作り、五つ年下の弟を振り向いた。わたしと同じ、天然のウェーブがかかった黒い髪。黒い瞳。わたしより少し濃い色の肌。タケルは子供の頃から、近所でも有名な美少年だった。それがようやく、美青年になりかけたところ。この子はモデルなんかに興味がなくて、幸いよ。
「いい天気だから、ドライブに行かないかって、パーシスが。海辺を走ったら、きっと気持ちいいよ」
パーシス・ウェインは近所に住む幼なじみで、わたしより三つ年上。大学の博士課程で、生体工学を専攻している。褐色の肌に金茶色の髪をした、背の高い理知的なハンサム。
タケルの恋人でもあった。少年時代からの仲で、いずれ結婚するものと、周囲にも広く認められている。
わたし自身は、二人を祝福しながらも、なぜわざわざ男同士で、といくらか納得しきれない面もあった。大学生になったばかりのタケルは、まだ少年のような頼りなさを残しているけれど、素直で明るい子。その気になれば、いくらでも女性と交際できるはず。
でも、当人がきっぱり、女性は恋愛対象にならないと言うのだ。
ただパーシスの方は、女性とも付き合っていたことがある。どうやら、どちらでもいける、らしい。
姉としては、二人の味方になってやり、応援するしかなかった。この現代でもまだ、同性同士の組み合わせに、顔をしかめる市民はいるのだから。
その彼らが、
『姉さん、最近、元気ないんだ』
『失恋でもしたかな。それとも、仕事の悩みか』
とひそひそささやき、心配しているのはわかっていた。仕事を休んでいるのだから、言い訳できない。
「わたしはいいわ。二人で行ってらっしゃい」
「でも、そうやって暇にしてるんなら……外に出たら、気分も変わるよ」
タケルの心遣いは嬉しい。でも、人と一緒にいて、元気なふりをする気力がない。笑うにも、しゃべるにも、相当なエネルギーが要るのだと初めてわかった。
「生理痛なの。お腹痛いのよ」
と眉をひそめて言うと、さすがにひるんだようで、
「あ、ごめん。それじゃ、ぼくたちだけで行くね」
とそそくさ、庭先の木戸から外へ出ていく。植え込みが邪魔をして姿は見えないけれど、どうやらパーシスが、すぐ前の歩道に車を寄せていたらしい。
「ミオは行かないって?」
と尋ねる声が聞こえた。タケルが低い声で説明すると、納得したようだ。やがてパーシスの車は、住宅街の静かな道路を走り去る。
いいわね、あなたたちは幸せで。
一人になると、また重いため息をついてしまう。モデルクラブの一割ほどが、わたしと同じ被害に遭っているらしい。でも、誰がそうなのかは教えてもらえなかった。
ソルハやルーシェン、ミランダやネルは無事だったかしら。それとも今頃、部屋に閉じ籠もって泣いているかしら。
どうしよう。通話して、様子をうかがった方がいいのかしら。被害者の会でも結成する?
だめ、そんなことできない。どんな目に遭ったかなんて、担当の医師グループと、ごく少数の司法関係者以外、誰にも知られたくない。
しばらく、旅行にでも行こうか。パパやママには、失恋だとでも思わせておいて……
ところが、青空からオレンジが降ってきた。まるで狙いすましたように、わたしの飲みかけのグラスを倒し、テーブルから落ちて芝生の上を転がる。わたしが驚いて椅子から上体を起こした時、
「きゃー、ごめんなさぁい」
背の高い生け垣の外から、陽気な声がした。聞き覚えのある、深いアルトの声。
「手が滑っちゃって。誰か怪我しませんでしたか」
木戸に廻って、気軽く覗きこんできた顔に見覚えがあった。暗色のサングラスをかけた、背の高い女性。
たくましい肩に、高く盛り上がった胸を見て、階段で助けてもらったことを思い出した。長い金褐色の髪を肩に垂らし、青と紫の横縞のシャツに、カーキ色のパンツを合わせている。古代のアマゾネスの扮装をさせ、槍と弓矢を持たせたらたら、ぴったりだろう。
でも、こんな偶然てあるのかしら。この首都には、五十万人もの市民がいるというのに。
「大丈夫ですけど、あの、あなたはもしかして……」
向こうも、わたしを覚えていたらしい。サングラスを外して、親しげな笑顔になった。
「おや、いつかの貧血の子か」
瞳は深いサファイア・ブルーで、正統派の美人顔である。
「もう元気になった? 無理なダイエットなんか、しない方がいいよ」
榊原先生は守秘義務を守ってくれ、差し障りのない説明で彼女たちを帰らせてくれたのだ。
「あの時は、お世話をかけてすみませんでした」
と頭を下げて挨拶した。
「貧血と寝不足が重なっていたもので。きちんとお礼も言わず、そのままになってしまって……」
「元気になったんなら、それで十分。ところで、地元の人ならちょうどいい。道を聞きたいんだけど」
「はい? どちらへ?」
「どこでもいいの。ぱーっと遊べるとこ。どこへ遊びに行こうか、迷ってたんだ」
「あの、それでしたら、観光ガイドをご覧になった方が……」
そこで彼女は、あっと叫んだ。わたしはびくりとする。
「ごめん! 飲み物を台無しにしたらしいね」
グラスは芝生に落ちて、ジュースは地面に吸い込まれている。
「あ、いえ、別に……」
「よし、お詫びに何かおごるわ、一緒においで」
「ええっ!?」
ジュースくらい、台所にいくらでもあるのに。気がついた時には手をとられ、外の道路に連れ出され、自動運転のタクシーに押し込められていた。病院へ連れていかれた時と同じ、有無をいわさぬ早業。
「あの、困ります。わたし、外出の支度もしてないのに」
と抗議しても、
「ああ、そのままで十分可愛いよ」
といなされてしまう。確かに、お気に入りのピンクのワンピースだったけれど、ただの普段着。家は管理システムが留守番をするから、無人で問題はないけれど。
「自己紹介しようか。あたしはサンドラ。サンドラ・グレイ。あなたは確か、えーと、えーと……名前は、聞いてなかったかな」
濃いサファイア色の瞳でじっとみつめられると、逃げ場がない。
「ミオ‥‥‥ミオ・バーンズです」
「そうだったね、よろしく、ミオ」
いきなり、ファーストネームで呼ばれてしまった。それでは、こちらもサンドラと呼ぶべきなのかしら。ミス・グレイなどと言ったら、気取っていると言われて、背中をばしばし叩かれそうな気がする。
「あの、いま、どこへ向かっているんですか……」
「ちょい待ち。地図を見るから。ふうん、遊園地があるのか。よし、まずはそこ」
とサンドラは車に命じる。交通管制システムとリンクした無人タクシーは、最適の道路を選んで静かに走る。
「あの、飲み物なら、そこらの喫茶店でも……」
遊園地は郊外だわ。車で三十分はかかる。そんな遠出はしたくない。でも、遠回しの拒絶など、このサンドラには通用しなかった。
「どうせなら、お昼をおごるよ。でも、食事にはまだ早いから、その前に、遊んでお腹を空かせておこう」
と勝手に決められてしまう。どうやら、いつもこうして、人を巻き込む人らしい。
でも、この人と連れの女性が、わたしを強引に医療機関へ連れていってくれたから、全てが明らかになったのだ。それを思うと、余計なお世話……とは言えない。きっとこの人は、この調子で、あちこちの人に〝好意の世話焼き〟をしているのだわ。
他にすることもないので、まじまじ、隣の座席のサンドラをみつめた。長い金褐色の髪は、光を受けると、黄金を溶かしたような色に輝く。耳にはサファイアらしき、宝石のイヤリングをきらめかせている。瞳と同じ、美しい海の色。
よく見ると、モデルクラブにも滅多にいないような、端正な美人である。それなのに、バンカラな印象が強いのは、態度があまりにも強引だからだろう。
わたしが脱力している間に、彼女はすらすらしゃべった。この星へは従姉妹と二人、旅行で来ているという。
「あの時、一緒だった方ですか」
わたしの帽子やバッグを拾ってくれた人だ。サンドラとは対照的に、小柄で物静かな人だった気がする。
「そうなんだけど、ヴァイオレットは美術館巡りに行っててね。あたしはそういうの、興味ないからパスしたの」
そうでしょうね。
「今日は久々に、パーッといきたいわ。何日も骨董屋巡りに付き合わされて、頭の中にカビが生えそう」
従姉妹のヴァイオレットという女性は、渋い好みらしい。骨董屋巡りなんて、素敵だと思うけれど。
「さあ着いた。まずはあれに乗ろ」
遊園地の前で車から降りたと思ったら、真っ先にジェットコースター乗り場に連れていかれた。怖いのは苦手だと言っても、聞いてもらえない。三百六十度回転の連続に、池への突入、コースの逆進。さんざん悲鳴をあげてしまい、ぐったりしてしまった。こんなものに乗るの、何年ぶりかしら。
それなのに、次はお化け屋敷へ連れ込まれた。屋敷というよりは小型の城館で、窓が塞がれているので中は薄暗く、照明は点々とある松明だけ。
通路は迷路のようになっていて、あちこちで隠し扉をくぐり、武器を探し(聖水や十字架、数珠や榊の枝、小型のハープ。適切なメロディで、幽霊が成仏してくれる)、立体映像の幽霊や、ロボットの吸血鬼を退治しないと脱出できない。
またしても悲鳴。闇から延びる手。上から垂れる血。鏡の奥の怪物。心臓がどきどき、ばくばく。
ふらふらになって出てくると、次は自由落下タワー。きゃあきゃあと叫び続けて、すっかり疲れ果て、喉が渇いた。わたしはどうして、こんな目に遭っているのかしら。
「あはは、遊園地じゃ死にやしないって」
サンドラはけらけら笑って言う。この世に、怖いものは何もないみたい。
「あの、もうそろそろ……」
「ああ、お昼だよね。レストランへ行こう」
違うのに。
けれど、サンドラが連れていってくれたのは、遊園地からしばらくドライブコースを走った場所にある、かなり豪華な店だった。ランチだから平服でいいけれど、夜だったら、正装でないと入れないはず。
「あの、こんないいお店でなくても……」
「いいから、好きなものを注文おし」
「でも、わたしは……」
「ダイエット中なんて言ったら、怒るよ。女の子は、ちょっとふっくらしているくらいでいいの。ミオは、もう数キロ太っても大丈夫」
そういう自分は、引き締まった筋肉質のくせに。
でも、さんざん悲鳴をあげたせいか、わたしもお腹が空いていて、お箸で食べるフランス料理がとても美味しかった。塗りのお椀で出てくるグリーンピースのスープ、帆立とキウイのサラダ、蟹のクリームコロッケ、鹿肉のステーキ。小さな焼き立てのパンも、しっとりして弾力があって、ついお代わりしてしまうほど。
ここしばらく、食欲がなくて、適当なもので済ませていた反動かもしれない。久しぶりで、満腹するまで食べた。デザートには、洋梨のコンポートとミルクティ。
驚いたのはサンドラの食欲で、わたしの三倍近い量を注文して、わたしと同じ早さで食べ終えている。男性に負けない体格なので、食欲も男性並みで無理はないけれど。
「ごちそうさま。美味しかったです」
と心から言うと、サンドラは、紅茶のカップを持って微笑んだ。
「それはよかった。いま初めて、普通の笑顔になったね」
「えっ。そうですか」
「うん、今朝は能面みたいだった」
つい頬を押さえてしまったら、笑われた。
「その顔を見たら、連れ出した値打ちがある。さて、腹ごなしの散歩に行こうか」
店の周りの散歩なら、と軽く考えたのが間違いだった。近くの川へ連れていかれ、救命胴衣を着せられ、川下りのボートに乗せられたのである。
「あの、わたし、ボートなんて……」
「いいから、座っておいで」
二人で一隻に乗り、サンドラがオールを握る。舟の分類はよく知らないけれど、観光ボートというよりは、カヌーに近い軽量タイプだった。
「ベルトで固定してもいいんだけど、まあ、ひっくり返ってもミオは泳げるでしょ」
「あの、できれば、転覆しない方が……」
「大丈夫、川に落ちるのも楽しいよ」
わたしには、そうは思えない。桟橋付近では静かだった水面が、たちまちかなりの流れになった。軽いボートは流れに乗って、どんどん川を下っていく。
でも、サンドラのオールさばきにはためらいがなく、的確だった。浅瀬だろうが、岩の隙間だろうが、ちょっとした滝だろうが、巧みにすり抜けてくれる。これなら、任せておいて心配なさそう。
天気がいいので、水しぶきを浴びるのも楽しかった。小さい頃に両親とタケルとで、湖でボート漕ぎをしたことを思い出す。
見渡すと、水面がきらきら光り、川の周囲の緑が美しかった。日差しが熱いと思ったら、川の水をすくって顔や頭にかければいい。
他のボートの漕ぎ手たちが、岸辺で休んでいる横を手を振って通り過ぎたり、難所でひっくり返ってずぶ濡れになった人たちが、インストラクターに車で迎えに来てもらっていたり。
でも、わたしはサンドラに任せきりで、安心だった。このままずうっと、海まで下っていきたいくらい。
しばらく忘れていた。こんな風に、大自然の中で過ごすこと。自分の農園が欲しくて働いていたのに、いつの間にか、お金を貯めることばかりに夢中になって……マレーネのことも見抜けなくて……わたし、いったい、何をしていたんだろう。
暗くなりかけた気持ちを、サンドラが引き戻してくれた。
「どう、気に入った?」
「はい」
と心から答えられたのは、サンドラ自身が楽しんでいることが、よくわかったから。サンドラの人生は、きっと毎日、こんな風に楽しいことばかりなのだろう。多少、厭なことがあっても、きっと気合で吹き飛ばすのではないかしら。
「それはよかった」
とにっこりされて、少し不思議な気分になる。サンドラは、わたしが能面みたいな顔をしていたから、気分転換に連れ出してくれたのかしら?
やがてボートを降りた所は、観光牧場の入り口だった。ボートと救命胴衣は、そこで係員が引き取ってくれる。ここから車で帰るのね、と思っていたら、とんでもない。
「さ、次行こうか」
と肩を押され、更衣室へ入れられて、フレアースカートのワンピースから、レンタルの乗馬服に着替えさせられた。そして、黒馬の背に追い上げられ、薮あり川あり斜面ありの難関コースを走らされることになる。
「あのう、でも、わたし」
「ちゃんと乗れてるじゃないの。経験あるんでしょ」
と茶色い馬にまたがるサンドラ。彼女は自分の服のまま。
「ありますけど、でも」
「ほら、ちゃんとあたしについてこないと、迷子になるよ」
サンドラは、馬にも慣れていた。わたしだって子供の頃、祖父母の農場でさんざん馬に乗っていたのに、わたしが苦労する斜面や悪路も、サンドラは軽々と越えていく。
「待って、とても無理」
と叫ぶと戻ってきてくれて、笑いながら助けてくれる。
一度など、急斜面で馬からずり落ちそうになったわたしを、片手で軽々と抱きとめてくれ、元の位置に押し上げてくれた。
おまけに、高い枝に咲く白い花を見ると、
「何の花だろ」
と言いながら、ひょいと馬の背に立ち上がり、そこから枝に登って摘んできてくれる。猿のように身軽、と言ったら悪いかしら。
「どうぞ、お姫さま」
と、うやうやしく差し出されたので、つい顔がほころんでしまった。乗馬服のボタンホールに差した花は、ほんのり甘い香りがする。
「あなたって、ターザンみたい」
わたしが言うと、サンドラはあははと笑った。
「それはまあ、お誉めの言葉と受け取っておくかな」
「あ、ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
女性に向ける言葉ではなかった、と反省する。
「いいよ、いつも言われてるんだ。色気のないオトコ女って」
「そんなこと……」
強く否定できないのが、やや申し訳ないけれど。でも、サンドラはさばさばと言う。
「まあ、モテない大女にも、いい点はあるよ。何をするにも、男に邪魔されなくて済む」
そうかもしれない、と思ってしまった。大学時代、キャンパスの端から端へ歩く間に、どれほどの男性に声をかけられ、デートを断る手間をとらされたか。冷たく断れば、お高く止まっていると言われるし、優しく断ろうとすれば、脈があると思うのか、しつこく食い下がられる。
この人ならいいかも、と思ってデートを承諾すると、たちまち恋人気取りになる。うっかり気を許そうものなら、肩に腕を回されたり、キスされたりしてしまう。
そしてまた、男たちは、それを仲間に吹聴するのだ。まるで、高山に登ったことを誇る登山家のように。彼らの征服ごっこには、とても付き合いきれない。
馬を進めながら、サンドラは言う。
「うちのヴァイオレットなんか、あっちでもこっちでも男に口説かれて、半分、男性恐怖症だもの。だからいつも、あたしの背中に隠れたがるんだ」
「あの人が、男性恐怖症なんて」
よく覚えていないけれど、品のある理知的な女性だったように思う。
「いや、恐怖というより、嫌悪、軽蔑かな。何度か、しつこい男に怖い目に遭わされたものだから。もちろん、そいつらはあたしが撃退したけど」
そうか、わたしだけではないのね、と馬上で思った。わたしだって、できるものなら誰かの背中に隠れたい。もう二度と、あんな目には……
心に広がりかけた鉛色の雲を、慌てて打ち消した。せっかく、遊びに連れ出してもらったのよ。余計なことは考えない。この時間を、目一杯楽しむこと。きっと、いい治療になるわ。
元の観光牧場に戻って馬を係員に返し、更衣室で着替えてから、わたしはサンドラの腕のひっかき傷に気がついた。乗馬用の手袋ははめていたけれど、サンドラは暑がりらしく、シャツの袖を大きくまくっていたから。もしかしたら、木に登った時かもしれない。
「ね、怪我してるわ。消毒しなきゃ。待ってて」
「えっ、いいよ、このくらい」
嬉しい。初めてサンドラがたじろいだ。
「だめ、黴菌が入るかもしれないわ」
わたしは係員から薬箱を借りてきて、なめらかな蜂蜜色の皮膚についた、細長い傷の消毒をした。自分が人に何かできる、というのが嬉しい。確かに、たいした傷ではなかったけれど、念のため、保護シールを貼っておく。
「どうも」
と言いながら、サンドラは照れるような顔だった。何だか可愛い。女の人というよりも、どこか少年のようで。
男性から見れば、それが色気のなさ、なのかもしれないけれど。
でも、色気というのは何なのだろう。もしもそれが、男性に付け込まれる隙のことなら、わたしはそんなもの要らない。ない方が幸せだと思う。
そもそも、こんな甘ったるいピンクのワンピースを着るのも、心根として間違っているのかもしれない。サンドラのように活動的な格好で、しかも青や緑という寒色を選ぶべきなのでは。
「あら、サンドラって、両方の腕に端末はめているの」
気がついて、わたしは尋ねた。普通はみんな、利き腕でない方に通話端末をはめるのに。
「ああ、左はそうだけど、右は訓練用の重りだよ」
サンドラは、金色の腕輪をはめた左右の手を挙げてみせた。
「左右で同じ重さになるよう、左にも鉛を入れてあるけどね」
「ええっ、鉛?」
「空手をやってるんだけど、やっぱり男の腕力には及ばないからね。まあ、気休めだけど、少しでも強くなろうとしてるわけ」
「ふうん、そうなの」
わたしも今度から、そういう心掛けを持つべきかもしれない。せめて、女性向けの護身術講座に通うくらいは。
「ねえ、わたしにもできるかしら、空手って」
「そりゃ、みんな自分のペースで稽古すればいいんだから、誰だってできるよ。ただ、強くなるには、それなりの素質が要るけど」
わたしにそれがないことは、人に聞かなくてもわかる。
「サンドラには、素質があるのね」
「ま、多少は」
その言い方は、かなり自信がある人のもの。
「どのくらい強いの?」
「うーん、どのくらいと言われても……」
「煉瓦とか瓦とか、割れるの?」
「ああ、そういうものでいいのか。どこかで見かけたら、割ってあげるよ」
「ほんと? 楽しみ。約束ね」
すると、サンドラは優しく微笑む。まるで、小さな子供でも見るかのように。
「そんなことが楽しいなら、いくらでも見せてあげるんだけど」
一瞬、何かが心に触れた。わたし、いたわられている。ただの行きずりの優しさで、ここまでしてくれるものではない。
わたしは牧場の出口で立ち止まり、サンドラをじっとみつめてしまう。するとサンドラも、不審そうに立ち止まる。こうなったら、聞かないわけにはいかない。
「あの、サンドラが今日わたしの家に来たのは、本当に偶然なの?」
するとサンドラは、濃い金褐色の眉を曇らせ、ややためらう様子。でも、結局は、正直に話すことに決めたらしい。
「えー、つまり、ドクターからミオの名前を聞いていたものだから……つい、気になって。あの時、あんまり辛そうだったから。ただの貧血じゃなくて……何か悩みがあるのかと」
わざわざ、わたしを心配して来てくれたのだ。名前がわかれば、特に隠していない限り、住所は検索できる。わたしの場合、モデルとしても、そこそこ知られていることだし。
「余計なことだったら、ごめんね。無理に連れ出して、悪かったかな」
「ううん、そんなこと……」
わたしは少し、感動していた。当たり前だけれど、世の中は、悪いことばかりではない。
「ありがとう。わたし一人だったら、どこへも出なかったはずだから。今日はずいぶん、気晴らしをさせてもらったわ」
サンドラは、ほっとした様子である。
「それならよかった。次はどこへ行きたい? ミオの好きな所へ連れていくよ」
何だか、お姫さま扱いされているようで、むずむずする。でも、悪い気分ではなかった。わたしが喜ぶとサンドラ自身も嬉しい、ということが伝わってきたから。
「それじゃ、動物園、いい? もう何年も行ってないから」
「よし、お安い御用」
再び車に乗った時には(自動走行できるタクシーでも、サンドラは運転が好きだからと運転席についた)、だいぶ気持ちがほぐれて、助手席で楽しくおしゃべりできるようになっていた。医師や捜査官以外の誰かと話したい気持ちが、たまっていたのだと思う。
「わたし、弟がいるから、よく弟の手当てをしたのよ。男の子って、自転車でもローラースケートでも、無茶をするのよね。あの子、大学でも、人力飛行機を作るクラブに入っているの。テスト飛行をやっては、何度も墜落して。いくら防御服を着ていても、怖いでしょ。よく懲りないものだと思うわ」
すると、ハンドルを握るサンドラは俄然、興味ありそうな顔になる。
「ミオの弟は、大学生か。恋人いる? あたしみたいなタイプは嫌いかな?」
つい、笑ってしまう。
「まさか、サンドラには釣り合わないわ。まだ十七だもの」
けれど、サンドラは餌を嗅ぎつけた狼のように、熱心に言う。
「あたしは年下でも全然、構わないよ。紹介してくれない?」
申し訳ないと思ったけれど、わたしは苦笑してしまう。
「実は、恋人がいるのよ、あの子。幼なじみと将来を誓い合ってるの」
すると精悍な長身の美女が、傍目にもわかるほど落胆する。わたしは可笑しいのが半分、気の毒なのが半分。
「じゃあ今度、わたしの友達で、よさそうな誰かを紹介するわ」
と約束した。パーシスの知り合いなら、サンドラに釣り合う人がいるのではないかしら。
「まだしばらく、この星にいるんでしょ。サンドラの好みのタイプは?」
すると青い瞳の美人は、真剣に考える様子である。
「うーん、基本的にはハンサムが好きだけど、中身がよければ、外側はどうでもよくなるからなあ。でも、中身が気に入るかどうかは、しばらく付き合ってみないとわからないし。あたしって、一体、どういう男が好きなんだろ。芸術家かな。スポーツマンかな。それとも学者……軍人タイプ……」
と運転しながら悩んでいる。
「これまで好きになった人は、どんなタイプなの」
「それが、色々なんだよね。気弱な美青年とか。マッチョのマザコン男とか。でも、一度もうまくいったことがないの」
と、深刻なため息をつく。
「まあ、一度も?」
つい問い返してしまったら、サンドラは傷ついた子供のような顔になる。
「あたしって、ほら、がさつだから……気をつけてはいるんだけど、つい……可愛くないし、色気もないし……大食らいも悪いのかも……冬眠明けのヒグマとか言われてさ。いや、言うのは主にヴァイオレットなんだけど」
「まあ」
あの食欲を形容するには、確かにふさわしいかも。
「いいよね、ミオみたいに可愛い子は。あたしなんか、この身長だけで敬遠されるもん。いい歳して、一遍も恋人ができたことがないなんて、笑い話だよね」
自嘲のように言うので、こちらが慌ててしまい、懸命に慰めることになる。
「そんな、悪い方に考えないで。サンドラはすてきよ。たまたま、相性のいい人に会わなかっただけよ。これから、いくらでもチャンスがあるわ。まだ若いんですもの」
わたしだって、最後のボーイフレンドと別れてから、男っ気なしだし。
そこで、またしても鈍い痛みが広がった。相手を恋人と思い込む暗示なんて。キーワード一つで操られてしまうなんて。
だめ、考えない。忘れるのよ。事件はもう、捜査官たちに任せておけばいいの。わたしは、自分の生活を立て直さなくちゃ。
動物園は楽しかった。強化ガラスのトンネルの中を歩いて、外の草地で寝そべるライオンや、木の上でくつろぐゴリラの親子を間近に見られる。
木々の間を、小型の猿が運動会のように飛び渡っていく。大きな池では、象やカバが水浴びしている。優雅なフラミンゴも舞い降りる。
他の客は恋人同士や、家族連れが多かったけれど、わたしも何だかデートのような気分になってしまった。サンドラがまるで男の人のように、あれこれ気を遣ってくれるから。
ゆったり構えているように見えて、実はとても細心なのだ。
「爬虫類のエリアは飛ばして、他へ回ろうか」
「何か買ってくるけど、アイスがいいかジュースがいいか」
「ミオはここの木陰で座っておいで」
わたしはつい、騎士に守られるお姫さまの気分になってしまう。サンドラが、本当に男の人だったらいいのにな。ああ、でも、そうしたら、女性に取り巻かれてしまって、わたしの元へなんか来てくれないわ。
日暮れには、サンドラはわたしを家の前まで送り届けてくれた。いつもの一年分くらい、一気に遊んだ感じ。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
最初は竜巻に巻かれたような気がしたけれど、実際には、とても優しい竜巻だった。
「煉瓦が見当たらなくて、残念だったけど」
にやりとするのは、腕自慢の証拠。
「それは、別の機会にとっておくわ。まだしばらく、バカンスなんでしょ。また、今日みたいに遊んでくれる?」
「いいよ、いつでも。ミオが遊びたくなった時に、声をかけてくれれば」
タクシーは走り去り、わたしは夕闇の歩道に立ったまま見送った。できれば、夕食も一緒にしたかったけれど、そこまでは甘えすぎよね。
いいわ。ホテルを聞いておいたもの。遊びに行ってもいいわよね。もう、友達になったんだもの。
ミオ編4に続く