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源氏物語より~『紫の姫の物語』2章-4
2章-4 弘徽殿の女御
もちろん、あの方に悪気はない。ただ、他の女の存在など、忘れ果てているだけ。じっと待ち続けている女たちの部屋の前を素通りして、桐壺の更衣の元へ通う。毎日、毎日。
夜には、あの女がお召しを受けて、いそいそと清涼殿に向かう。
何よりも、あの女の賜った場所が悪かった。淑景舎、すなわち桐壺というのは、主上さまのおられる清涼殿からは、最も遠い場所。行き来するには、必ず、他の女たちの局の前を通らねばならない。
自分の殿舎の前を、唯一無二の殿御に素通りされ、また、あの女がいそいそとお召しを受ける姿を毎晩のように見せつけられて、他の女御、更衣たちも、どんなにか悔しかっただろう。いかに優しい女でも、慎ましい女でも、心の底では、
(あの女さえいなければ)
と思っていたはずだ。
人間というのは、弱いもの。妬んでも無駄とわかっていても、なお、自分の心が止められない。やがて内裏全体に、
(桐壺の更衣、憎し)
という空気が燃え広がった。そして、その気持ちを形にしたのが、忠義者の女房たちである。自分たちの仕える女主人が忘れ去られ、苦い涙に明け暮れているのは、いったい誰のせいなのか。
雪の降る寒い日に、通らねばならぬ廊下の両端で、示し合わせて扉を閉めてしまい、あの女の一行を立ち往生させる。彼女たちが人を呼び、戸を叩いて助けを求めても、聞こえぬふりで閉じ込めておく。
またある時は、一行の通り道に汚物を撒き、大掃除しなければ通行できないようにする。彼女たちが遠回りして清涼殿に向かおうとすれば、そこにも汚物が撒かれているという寸法。
あるいは、あの女の局に、夜中、蛇や蛙を放り投げる。簀子縁の下に、猫や犬の死骸を押し込んでおく。必要な炭や油を届けるのを、後回し、後回しにする。
そのつもりになれば、有能な女房たちはどれほどでも、意地悪の手管を考えつくものだった。みんながぐるになれば、証拠など何も残らない。
(えげつないやり方……)
とは思ったけれど、わたくしは知らん顔していた。あちこちの局の女房たちが、それぞれ勝手にしていること。女たちの筆頭の地位にあるとはいえ、このわたくしが何か命じたわけではない。
(早く気付くといいわ。自分が、他の女たちを踏み付けにしていること。非を悟って、主上さまにおっしゃい。せめて、お召しは一日おきにして、他の晩は他の女たちを順番に呼んで下さるように)
けれど、桐壺の更衣は理解しなかった。自分がなぜ、繰り返し意地悪をされるのか。
(怖いわ。みんなどうして、わたくしを嫌うのかしら。わたくしは誰にも、何の悪いこともしていないのに)
呆然として、そう思っていただけらしい。
人の悪意が理解できないというのは、善良というよりも、馬鹿なのだ。世の中、悪気がなければ何でも許される、というものではない。
そのうち、あの女の飼っていた猫が死んだ。噂では、まだ若い猫なのに、血を吐いてのたうち回ったとか。それが毒殺だと言う者もあり、あの女はようやく震え上がった。
(もうだめ。怖い。家に帰りたい)
お付きの女房たちにも、しっかりした者がいなかったのが不運だった。知恵のある者がいれば、まだわたくしに頭を下げ、庇護を頼むという道もあったのに。
それでも、あの女は、主上さまに優しく慰められ、
「猫は病気だったのだよ。わたしが付いているのに、何の怖いことがあるものか」
と保証され、涙ぐみながら、いつまでもすがりついて甘えていたとか。
美しく愛らしいが、愚かな女。自分が他の女の幸せを全て奪っていると、なぜ、間に合ううちに悟らないのか。
この世を支配しているのが男たちであるならば、女にはなおさら、身近な男を操る器量が必要なのに。
そうでなければ、結局のところ、男たちも不幸になる。彼らは、女よりもなお愚かなのだから。
そうしてついに、あの女は懐妊した。月が満ちて産まれたのは、玉のような皇子。あの方は心底喜ばれ、毎日のように、自らお抱きになってあやされるという。
わたくしはもう、女として愛されることも、次の子供を授かることもあきらめていたけれど、新たな不安が頭をもたげた。
もしや、あの女の息子を、次の帝になさるおつもりでは。
わたくしの息子は、既に東宮としての教育を受けているけれど、主上さまのあの様子では、どう変心なさるかわからない。たとえば、人望の厚い左大臣を、あの女の皇子の後見に据えれば、相当な無理も通せるというもの。事実、左大臣を幾度も呼んでは、皇子の将来について、あれこれ相談なさっているという。
それだけは、それだけは許せない。一度は約束した帝位を、わたくしの息子から取り上げるなんて。
『紫の姫の物語』2章-5に続く