やっちゃば一代記 実録(22)大木健二伝
やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
セロリ
健二は房州や相模にはバイクで、ほかは深夜便の列車を利用してやま周りに励んだ。おみやげ用の最中の箱を十数個風呂敷に包んで、たびたび出向いたのは長野県の原村と玉川村(現在は茅野市)である。この地域は今でこそセロリの大産地だが、当時は数戸の農家が栽培しているだけだった。
もっぱら八丈島から週一回の定期便で入荷するセロリは、海の天候で価格が乱高下した。投機対象になりやすく、それがまた仲買業者の商売気を刺激していたのは確かだが、供給が不安定だけに需要も伸びなかった。
事実、セロリは一部のホテルやレストランの専用野菜にすぎなかったのである。セロリに代表されるように、戦前の西洋野菜は希少で珍しい特権的商品と見られがちで、健二はそんな状況が不満だった。洋食が広まっていく中で西洋野菜の需要も伸びていくと見られているのに、存外、市場や農家の関心が薄かったのである。
新しい野菜を日本に紹介し、普及させたいーー野菜問屋に奉公して三年足らずだけれど、健二の新野菜への想いは強まりこそすれ萎むことはなかった
「セロリは水で作れ!。」と言われ、セロリ栽培では水をどう配分するかで収量、品質に大きな差が出るという。玉川村では丘陵地の段差を利用した水の管理が優れて、セロリ栽培には強い自信と意欲を持っていた。大木は彼らの生産意欲をさらに煽った。
「八丈島のセロリは大きく、肉厚で香りがあり、根の一部は山藻(やまも)という水を含んだ雑草で包まれ、木箱に一本一本立てて出荷されます。大変、品質の良いものが多い!でも一週間に一度の入荷ですから、シケがあると突然品切れになります!。」
玉川村と原村の農民たちは健二の説明に聞き入った。
「なあ大木さん、おらほーの村は夏涼しいで、こばやに起きて、セロリをこげーたま出荷するど!。すれば夏場の出荷高は日本一だど!。」
信州行は新宿駅を午前零時に出る松本行きを利用していた。深夜の甲府駅でビールを飲めたくらいだから、だいぶ陽気の緩んだ頃のことだが、午前三時過ぎに着いた玉川村は案外にも一面雪景色だった。遠来の客のもてなしは早朝にかけて宴会となり、酔いつぶれた健二が目を覚ましたのは昼をとうに過ぎ、雪解けのセロリ畑を往来するうちに履いてきた革靴はぐしょぐしょになった。その後、春先のやま周りにはゴム長を用意し、後年に至って海外にまでゴム長を持参、仲間からからかわれたものだ。
大木の熱意は信州を全国有数のセロリ産地に押し上げる先駆けとなるが、戦前のセロリ栽培は本格的な生産出荷にはほど遠く、それには敗戦という試練を経た後の食生活の洋風化、なかんずく米軍駐留の時代まで待たなければならなかった。
そんなセロリを一般消費者に初めて紹介したのが和泉屋だった。
ダットサンを無断んで乗り回された和泉屋がセロリの産地詣でを続ける健二の熱意を買ってくれたのだ。戦後この和泉屋は廃業、中国から復員後それを知った健二は肩を落としたことである。