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「推し・先生・恋人」あらゆる依存は我々を明確にする 【簡単】

 高校の時に得た経験として、唯一絶対的な答えを確信して問題を設定するというものがあります。これは答えの妨げになるものを次々と考えの埒外に置くことで、あるはずもない答えが出てくるという至極単純な原理で、我々が日常的に使っているものでもあります。
 分かりやすい例として、タイトルにあるように推し、先生、恋人への依存が挙げられます。推しとはまず○○がやっているからということが根拠となりうる、先生とは○○が言っているからということが根拠となりうる、恋人とは○○が好きだからということが根拠となりうる。
 依存という名の盲信は我々に快楽とも言える答えを導き出してくれるでしょう。それはあらゆる要素を撤廃して単一の答えを探す作業に他ならないのです。同時にそれは我々個人の存在を確定します。本来我々の存在は不定なものです。それは依存先の出現によって、世界に揺るぎない我々が照射されることです。
 これは具体的なものだけに言えることではなく、とある思想にも言えることです。何年か前に警察官が被疑者に対して自白を強要する事件がありました。この事件では実際の音声も公開されています。私はこの事件を知ったとき、心のどこかにある道徳心に準拠して猛烈な違和感と不安を感じました。これがもし当たり前だったとしたら、と考えたのです。自分が持っている道徳を参照すると明らかに道理に反している行為がまかり通っている。人によっては怒りを持ちます。だから事件化されたのですが、もし自分以外の大多数はこれを常識と捉える世界があったら私は耐えられそうにないと思いました。
 この自分が侵される感覚が、揺るぎない私が壊されようとしている瞬間だろうと思います。私も子供の頃から心に培った道徳心に依存しているわけです。私は依存状態から抜け出すか抜け出さないかの状態にあったわけです。私が揺るぎないままでいられたのは、事件として世間的に間違ったことだと認定されたからです。しかし、もし私個人がこの事件に巻き込まれたら、私は自分が正しいと主張できるでしょうか。私を大多数と考えることが確信を持ってできるでしょうか。
 推しも先生も恋人も同じです。正義という正解以外の答えも与えてくれる。問いと揺るぎない返答という系が全体として安心というものを与えてくれるわけです。ある種の洗脳状態に近い。先ほども述べたように、これは具体的でなくてもいい。集団に置き換えてもいい。家族やある地域コミュニティなどが世界全体と置き換わって、絶対的な問いと返答の依存関係を成すこともある。大なり小なり存在するものなのです。
 以前に「何かに依存して苦しんだ時、別の何かに依存するのではなく、何にも依存しない」と述べたことがありますが、全ての階位で何にも依存しないことは原理的に不可能です。しかし、私が自白強要事件で感じたあの不安感。絶対的な私が不定なものに感じられるあの感じが我々が依存先を変えようとしている状態なのではないでしょうか。依存が強いからこそそこを脱出する時には不安も強い。この不安である状態こそが何にも依存しない状態ではないでしょうか。私はそう思います。
 


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