【エッセイ①】イマジナリー東京
大学2年の春休み、一人旅で東京へ行ってきた。
メインの目的は好きな芸人さんの東京ドームライブ。頼りにしていた友人が就活で予定が読めないとのことで、人生初めての一人旅となった。日曜の午後から二十一時までライブがある。春休みだしどうせならと、火曜日までの2泊3日で東京に滞在することにした。旅行の数週間前、グーグルマップでカフェやら観光スポットやらを探してみる。あっちこっちに美味しそうなお店やお洒落なショップは見つかる。でも、情報量が多過ぎて逆にどこへ行ったら正解なのか分からない。皆はどうやって行く先を決めているのだろう?とりあえず東京についてから考えよう。それにお金もあまりかけたくない。それなら、電車と足で東京を見て回るぶらり散歩旅もありかもしれない、などと考えてみる。
ここで一言断りを入れておくと、僕の東京に対する執着度合いは並みの人間と一線を画す。
僕は東京から遠く離れた地方出身で、それも片田舎である。初めて自分が田舎者であると気づいたのは、進学を機に県庁所在地の高校に通い出したとき。カラオケに来たのは人生で何回目だとかマクドナルドに来たのは人生で何回目だとか、いちいちカウントしてるのが自分だけだと知ったあの恐怖。学校の近くにラーメン屋がある、映画館がある。学校の敷地内に出前やデリバリーのバイクが走っているのを気にも留めない文化。というかデリバリーって存在するんだ、都市伝説だと思っていた。
そんな感覚で生きてきたから、東京都民以外の全国民は皆が一様に東京に恋焦がれているものだとばかり思い込んでいた。だから「就職は地元で良いかな」と言ってしまえるシティボーイ大学生にどう頑張っても理解が追い付かない。そうした、東京に憧れる熱量の差を知れば知るほど、田舎コンプレックスがどす黒いぼたもちと化して己の腹の奥底に沈殿していく。大学受験で東京へ進学を試みるも失敗、高校からの6年分もの東京への憧憬が、今もなお鈍い光を放ちながら肥大し続けている。
説明が長くなってしまったが、そんな折についに念願の東京へたどり着けたわけで、別におしゃカフェなぞに入らずともそれはもう格別の幸せを得た心地だった。「これ以上写真の容量がありません」と、写真フォルダが許しを請うてくるまで、問答無用でカメラでバシャバシャ撮り続けた。
東京に着いて、まずは大手町を攻めた。いかにも日本の中心地といった風体で、ビルが異常に高く、人もごった返していた。もしかしたら縁日だったのかもしれない。皇居までの道中、東京駅の正面玄関の方を振り返り、フォトウエディングでよく見る構図だ!と興奮。丸の内の高層ビルを見て、こんなところで働いた日には笑いが止まんないだろうな、東京駅と皇居は意外と近いんだなと思ってみたり。洒落たモードファッションの女性二人がテラス席でコーヒー片手に足を汲みながら談笑しているのを見てモデルみたいで絵になるなとか、オーダースーツの初老の夫婦が腕を組んで歩くのを見てデート洒落てんなと思ってみたり。東京に着いてからまだ一度も電柱や送電線を見かけてないなとか、もろもろ含めて「やっと念願の東京に来れたのだな」と、感動した。
次に浅草を攻めた。六区ブロードウェイの通りに場外馬券売り場があると、東京出身のパーソナリティがラジオで言っていた。ウイングス浅草のおっちゃんがワンカップ片手に競馬の帽子をかぶっているのが風物詩であると、だいぶ話が盛り上がっていた記憶がある。実際にその姿を見ると、ただのおっさんの姿なのにだいぶ興奮してほお、と息を漏らした。その後、隅田川にかかる勝鬨橋を渡りながら左右の東京スカイツリーと東京タワーを交互に見つつ、その真ん中でヘッドホンでクリーピーナッツの「のびしろ」を流した。ふぉっ!ヤバい、楽しい…。
二日目は渋谷から攻め入った。展望台で有名な渋谷スクランブルスクエアに昇って入場料2,500円にドン引きしてすぐ引き返してみたり、「タワレコすげえな」って勘違いながら渋谷モディに入り、どこにでも売っている岡本太郎の「自分の中に毒を持て」を買ってみたり。オードリー春日さんが以前住んでいたむつみ荘を見に阿佐ヶ谷へ行き、ファンの方たちと遭遇したり。ファンの片が皆して若くて、それがとても意外だった。
三日目は、まずは六本木の駅チカサウナに攻め入った。サウナのロビーでくつろいだ後、表参道から明治神宮、代々木公園まで歩き、外国人観光客に写真を頼まれて小声で「セイチーズ」とごにょごにょ言ってみたり。下北沢をぶらついて店員さんに委縮して、結局駅前の無印で値引き後のズボンを買ってみたり。
結局、初日はライブが始まるまでの間、東京駅付近の大手町から始まり、皇居、浅草へ。二日目は丸一日使って、渋谷、阿佐ヶ谷、新宿、六本木へ。三日目は夕方までの間、麻布台ヒルズ、表参道、明治神宮、代々木公園、最後は下北沢へ。当初想定していたよりも、かなり多くのエリアに足を運ぶことができた。電車賃だけで十分すぎるほど東京散歩を満喫できた。妄想を膨らませていた頃のイメージと変わらず、東京は相変わらずキラキラ輝いて見えた。
けれど、歩いて見て回る前と後とでかなり東京に対する印象が変わったようにも思えた。キラキラした側面もありつつ、その分リアルな側面も垣間見てしまったのだ。
浅草は、観光地から外れた道を歩けば日本のどこにでもある住宅街が広がっている。下町だからそう感じたのかもしれないが、一本通りに入った道で何度もママチャリに乗った主婦とすれ違う。六本木、といっても大通りから一本路地へ入ればおんぼろのアパートがあって、そこへドレスで着飾ったモデルみたいな若い女性や仕立ての良いスーツを着こなした髪がパリパリのイケメンサラリーマンが帰っていく。下北沢、といっても地元住民らしき人達は服装に特に頓着している様子はない。考えてみればそりゃそうだ。流行の街や若者の街だったとしてもそこに人がいる限り、当然ながら普通に暮らして生活する人もいるはずなんだ。日本の中心地東京は、競争による競争で無駄がばんばんそぎ落とされ、何から何まで洗練されてお洒落なんです!なんてことはなかった。ようやく、当たり前のことを当たり前として認識した。朝一で熱湯シャワーを浴びて、寝ぼけた目がパッチリ開いたような感覚に近い。
テレビを通して思い描いていたゆるふわイマジナリー東京は、現地に赴き自分の足で歩いて街の細部を目に焼きつけるたびに輪郭が徐々にはっきりしていき、ギュイーンと音を立てて東京にピントが当たっていく。
この状況、あれに似ているかもしれない。小学生から見た高校生がめちゃくちゃ大人びて見えてしまう、あの現象。小学生の頃は高校生が全知全能で体格も大人同然に見えたのだが、いざ高校生になってみると全然子供じゃん!みたいな。放課後、スリッパとテニスボールで野球をして、しょうもないことでケラケラ笑えている高校生は誰がどう見ても子供だった。
今回のことも何ら変わりない。勝手に東京に幻を見て、勝手に虚構を作り出し、勝手に見誤ってがっかりした。今は落ち着いていられるけれど、数年妄信し続けてみたものが蓋を開けてみれば、はいっ幻でしたーと言われた衝撃だった。東京(本物)からしてみても、誰だよそいつ(イマジナリー東京)!って、びっくりしてるんじゃないかな。
「さすが東京、何から何まで一味違うんだよな~」そう、妄信していた当時の自分を思い出して今更ながらに恥ずかしい。田舎モン根性丸出しじゃないか。
とは言いつつも、以前より東京に住んでみたい欲が強くなった気がしなくもない。もっと色々歩いて回りたかったし、お金があればどんどんイベントに参加してみたい。キラキラした虚構エリアと住居エリアもひっくるめて住んでみたいと思える。
幻を幻のまま夢見て片田舎で生涯を終えるのも悪くないが、リアルを食らいに自分からがっかりしにいく被虐スタイルを大事にすることもまた、一興かもしれない。