野良犬の思索日記(2024/11/17)

はじめに

まだ飼われていないM男は野良犬である。
このノートシリーズは野良犬の思索日記として、記事が溜まればマガジン化する予定。
このノートのタイトルは、ハンナ・アーレントの『思索日記』という書名から拝借したものである。大哲学者の書名から拝借するなどおこがましいが、そういうおこがましさがなければ、思索を公開するなどという行為はできない。

「思索」

拝借する上で「思索」について考えた。
まずそもそも、ハンナ・アーレントの『思索日記』は本人がその書名をつけたわけではない。
訳者がつけた書名だ。
『思索日記』と名づけられて出版もされているアーレントのノートは、訳者によれば

彼女の「思索」は孤独裡の思惟や自己内対話とは縁遠い。本書の核心は西洋政治哲学の伝統との対決であり、至る所で独自の解釈が試みられる。

ハンナ・アーレント著 U・ルッツ I・ノルトマン編 青木隆嘉訳『思索日記Ⅰ』1950-1953 法政大学出版局 2006年 2p


という日記であり、それは彼女自身がそれをどの程度意図していたかわからないが、西洋政治哲学の伝統に挑戦するノートに必然的になっていたのであろう。
しかし、このノートは本来であれば、名前のないノートであった。
それが『思索日記』という名を与えられ、「西洋政治哲学の伝統との対決」と評されるものになった。

このノートは本来公開されるはずのないものだったと思うが、『思索』をする上で公開されない前提というのは、どれだけ重要なことなのだろうか?

おそらくこのノートの魅力は、本来公開されるはずのなかった『思索』が公開されたことにあると思う。
だからこそこの『思索』は魅力を持つ。

となると私が今からやろうとしていることは、『思索』の魅力を失わせることなのかもしれない。(そもそも無名の『思索』などに魅力があると思うことがお門違い)

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