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はじめまして。たいさんと申します。

「誰やねーん!」と突っ込みつつ、ページをのぞいていただきありがとうございます。こちらの記事では、僕の自己紹介を兼ね、誇張も自虐もない、ありのままの来歴をつづらせていただいております。「フォレスト・ガンプほどのドラマはないけれど、街録chよりは共感できる」こと折紙付きです。ぜひ、サックリお付き合いいただけると嬉しいです。

訳アリ家庭でも、明るく楽しかった子供時代

3人兄妹の真ん中として生まれた僕は、3つ上の兄にいじめられて泣いてばかりいる気の弱い男の子でした。
我が家では父が若くから癌を患い働けなかったため、母が保険の営業をして生計を立てていましたが、今思えばやはり切り詰めた生活をしていました。
プライドの高かった父は、そんな状況に負い目を感じ、「ストレスから深酒をしては大暴れ→翌朝母と3人の子どもに申し訳なさそうに謝る」という、典型的な酒乱サイクルを2~3か月に1回繰り返していました。それでも、酒さえ飲まなければ、ユーモラスで子煩悩の優しい父は、僕にとっては大切な存在でした。
母は典型的な「肝っ玉母ちゃん」で、よくのんべえの父と激しいバトルを繰り広げていましたが、いざとなると父に頼るなど、心の奥底では父を深く愛する一途な女性でした。
そんなエッジの効いた両親にのびのびと育てられた僕は、アニメ「シティーハンター」の冴羽獠とジャッキー・チェンに夢中な少年として、明るく楽しい子供時代を送りました。

アマチュアボクシングに打ち込んだ大学時代

気弱さの裏返しで、「強くなること」に強くあこがれた僕は、小学校では空手を、中学では剣道に打ち込み、高校では「将来はボクシングの世界チャンピオンになりたい」という思い切りすぎた夢を胸に、プロのボクシングジムに通うようになりました。
勉強は得意だったため、高校卒業後は一年間の浪人生活を挟み地方の国立大学に進学し、そこで本格的にアマチュアボクシング競技にのめり込みました。
よい指導者と仲間に恵まれ、大学3年時には国体関東フェザー級で準優勝するなど、短期間でまずまずの実績を残すことができました。(なお当時、国体神奈川県代表選手として、井上尚弥選手のチームメンバーでした!)
ただ県内では無敗を貫くも、全国では勝つことができないというハートの弱さが課題でした。2度目の国体出場時には、オリンピック選手相手にビビりちらかして何もできずにRSC負けチームメンバーに失望される、という苦い経験もしました。その試合後、「技術の前に、気持ちで負けるな」と、真っすぐに怒ってくれた井上慎吾トレーナー(井上尚弥選手の親父さん)の厳しくも暖かい言葉は、今でも懐かしく思い出します。

あこがれの商社マンになるも、失意の連続の20代

その試合を最後に、プロボクサーへの道を断念した僕は、グローブを吊るす選択をしました。今振り返ると、6年間のボクシングで本当に追い求めていた「心の強さ」をついに得ることができなかったのものの、それに気が付かないほど調子ノリノリのりへえとなっていた僕は、今度はビジネスの世界で一旗揚げようと思い立ちました。
リクルートスーツを1着買いこみ、きらびやかなイメージだけで商社にターゲットに絞り、面接で「世界中を股にかけて大きなビジネスがしたいんです!」とだけ言い続けて、内定をいただいた商社に入社することになりました。
商社マンという新たな肩書きと、ボクシングで培った(と思い込んでいた)自信をひっさげ、意気揚々と入社したのも1社目でしたが、初配属先の名古屋で待っていたのは、控え目にいっても富山ブラックな毎日でした。
「トヨタの生産ラインを死守せよ」が合言葉のその職場では、トヨタグループ向けに鋼材のデリバリー業務を行っていましたが、細かい事務業務が苦手だった僕は、先輩や女性スタッフに愛情に満ち溢れたOJT指導を受けました。しかし、あまりの物覚えの悪さに、当時の上司には「パンチドランカーちゃうか?」と心配される始末。ストレスと過労で半年間で体重が5キロやせるという、ボクサー顔負けの暗黒期を経験。理想と現実のギャップを突き付けられて、あまりにダサすぎる自分を受け止め切れず、社宅のワンルームで玉置浩二の「MR.LONELY」を聞きながら悔し涙を流したのは笑い話のような笑い話です。それでも、消え入りそうなプライドだけで毎日食らいつくようにしてがむしゃらに働き、3年後には1人で月5億円を売る商社マンになることができました。(※商社って規模のビジネスだから、すごいことではないことに注意)
その間、プライベートでは大好きな父の他界や、妻との結婚と長男の誕生など、人生の一大イベントがこれでもかというほど立て続けに起こり、公私ともに濃密な3年間を過ごしました。

31歳で大学時代の友人との新たなチャレンジ

そんな風にして新人時代を乗り越えた僕は、上司・先輩にも恵まれた会社への居心地の良さを感じる一方で、「自分がやりたかったビジネスとは、本当にこの仕事なのだろうか?」「一回きりの自分の人生を、この会社に捧げていいのだろうか?」という、一丁前の悩みを抱くようになりました。大学時代の友人から起業の話を持ち掛けられたのは、そんなキャリア迷子の沼に片足を沈めていた時期だったこともあり、入社6年半務めた商社を辞めて彼と人材紹介会社を立ち上げました。
商社は安定業界で待遇も良かったため、初めての転職にはぶっちゃけ勇気が要りましたが、最後は「やらない後悔より、やる後悔」という座右の銘をマントラのように唱え続けて退職を決断をしました。
新たに立ち上げた会社は友人の社長と僕を含めて3人のメンバーだけの小さな会社だったため、オフィス探しから就業規則探しまで、手探りで何でもやりました。大手企業から零細ベンチャーに降臨した(と思い込んでいた)僕にとっては、刺激的な仕事の連続で、気の合う仲間と自由で情熱あふれる日々を謳歌していました。とはいえ、私生活では貯金を切り崩しながら生活していた中で第3子も生まれ、経済面ではうす暗い不安と焦りが伴うチャレンジでもありました。

コロナの中で経営難に陥り、2021年に人材育成会社に転職

それでも一歩一歩着実に会社の基盤を作り、ようやく光が見え始めた起業2年目の冬、コロナによるパンデミックが発生。それまで好調だった採用市場が一気に冷え込み、会社のメイン事業がオワコン化しました。立ちどころに会社の資金が底をついたため、自ら社長に申し出て月給を6万円に下げて、会社の立て直しに努めました。私生活では売れる所持品はメルカリで全て生活費に換え、ボクシングのパーソナルトレーナーも副業で始めました。しかしコロナの影響は収まるどころが大きくなるばかりで、出口の見えない悪戦苦闘が続きました。
転機になったのは、打開策を探るために新たに始めた企業向けの研修事業の経験でした。研修の中で、受講生に学習が起こった瞬間の目の輝きと、受講者アンケートに書かれた感謝の言葉に、大げさですが、感動すら覚えました。「自分が本当にやりたいことは人材育成だ」と確信し、新たなチャレンジを決意。友人である社長とも相談し、2021年に現職へ転職をしました。

人材育成オタクの今とこれから

3社目となった今は研修会社の人材育成コンサルタントとして、大手企業の人材育成全般の課題解決に取り組んでいます。具体的には企業の人事担当者とあーでもない、こーでもないと議論をしながら、主に管理職研修などの階層別研修の企画・運営を行っています。
35歳での異業種への転職だったため、入社当初はオールドルーキーとして適応に苦労しましたが、学べば学ぶほど人材育成の面白さにハマり、コソ勉を続けて少しづつお客様のお役に立てている手ごたえを感じています。
またライフワークとして、「たいさんのキャリアカフェ」を運営し、個人のキャリア支援を細々と行っています。具体的には、相談者の仕事や人間関係についての悩みに耳を傾けながら、ご本人のよりよいキャリアの方向をキャリアコンサルタントとして一緒に考えています。

なぜこのような活動をしているかについては別の機会に語りたいと思いますが、社会貢献で行っているのでご興味があればお気軽にお声掛けください。

以上、勘違いと失敗を繰り返した懲りない男の37年間の半生でした。
家族という守るべき者もあるいい年の男ですが、子どもたちのためにも日本を1ミリでも住みやすい世界にするためのチャレンジを続けます。

よろしければTwitterでも絡んでくれると喜びます。
お付き合いいただき大変ありがとうございました。
たいさん@育成オタク (@DJ73012493) https://twitter.com/DJ73012493?t=eydLnN32Wlk9SP5nQUolAQ&s=06





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