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面舵いっぱい、取舵いっぱい

かつて恋心を抱くような若い頃は
たぶん1番「自分の眼の前にいる相手の顔」を、熱心に見ていたと思います

「好きだなぁ…」と思って見ていたと言うよりは
相手の思う処を、少しも逃さずにキャッチしようと思って
「何を、どう、考えているのかしら…」と
好奇心と興味心で、はち切れそうになりながらです

そのうち結婚して「夫と妻」になり、瞬く間に子供2人が誕生すると
「私の目」は、大半が守らなければならない子供達へと
全力で注がれる事になって行きます

朝から晩まで、風邪でもひけば夜中まで
見守る目になったり、見とどける目になったり…

必然的に残りの力で、夫を見るようになり
「体調は悪くないか、機嫌は悪くないか…」
後は信じるしか無い…余裕が無い…そんなところでしょうか

よく夫婦が平和に暮らすには、あまり相手を見ないのもアリ…と言われます
相手の嫌なところが直視されると、仲違いの原因になると聞きました

結婚して同じ船に乗り合わせたら
各自の持ち場を守りながら
同じ方向を目指して行く…これが理想なのかも知れません

ただこれは「思い込み」が強いと、上手く行かない気がします
折に触れ「相手の気持ち」を、考えることを忘れてしまうと
船の行き先も、船の順路も、波を乗り越える方法も
全て片方の意思になってしまいます

時折り「話し合う」という行為は、夫婦でも現場の渡航でも
不可欠な事ではないかと思うのです。

相手が自分と同じように考えて、感じている…そんなものだと思い込むと
本当は、それぞれに違う方を見ていた…
そんな思い違う場面も、出で来るかも知れません
重ねて来た時間に、油断してしまうと
相手の思考は、計り知れないほど遠くを見ていたりもします

相手を信じる…という事は
相手の存在と自分とを、完全に重ね合わせてしまうことではなくて
私にとっては、自分の誠意と相手のそれは接点があるよね…
くらいのニュアンスなのです

だから「話す」ことの大切さを感じます
そもそも違う人間なのだからですね


そんなふうに夫婦だって、必ずしもイコールにはなり得ない気がしますし
私にとっては、時に違う考えや感じ方を持っているからこそ
相手への興味も絶えない気がするのです

時々「相手を信じてるから」と言う言葉を使う時
何処か相手の気持ちを慮る事を、少し面倒だと
無意識に考えている事は無いでしょうか

相手の気持ちを「よくよく考えて見ること」は
とても手間のいる事ですね
特に会社に時間をとられている時代では
そんな事がよく繰り返されていた気がします
本当は「相手の気持ち」が、優先順位の上位に来てもおかしくないのに
「自分の持ち場」という物理的な忙しさは
あらゆる事を跳ねのける、盾になってしまう事もあります
いつも形にならないものは、後回しになりやすいものですね

🌿🌿🌿🌿🌿

ところで、我が家では月に一度「歩いて行ける居酒屋さん」で
夫婦飲み会を開きます
都内から引越した先には、そんな「少し飲める近場のお店」は、希少価値で
大寒波の来ている夜も、テクテク15分ほど歩いて目指します

歳を重ねて食べる量も、呑む量も、とても減りました
それでも月イチのお楽しみなので、いつもより長く、多く食べて楽しみます

家で食事をする時は、いつの頃からかテレビをつけて
ふたり並んで食べています
なので外食のランチや、居酒屋さんの時にだけ
相手の前に座る事になります

ずっと若い頃から見てきた顔なのに、少し違って見えるのは
もしかしたら私だけなのかも知れませんが
他愛もない話をしながら
「これまでご苦労さま」と言う、そんな気持ちは
居酒屋さんのテーブルを囲んでいる時も、私の中で時おり浮かんで来ます

子供たちが巣立って自立して
仕事時間もセーブされ
少し自分の事を考える時間が増えた時
いつも横顔や、後ろ姿ばかりだった相手の顔を
ストレートに見てみるのも、良い機会かも知れません

これまでの生き方が、間違いなく顔つきに出てしまう年齢です
一番近くにいる人を
真正面から見られる生き方を、これからもしていけたらと思います


ギャラリーからお借りしたのは
大好きな「hohoさん」の作品です🌸ありがとうございました



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