連休という言葉の錯覚
大学を卒業して就職してから、連休という経験が非常に少なくなりました。
病院で医療事務をしていると、月初めにレセプトという請求書を作成しなくてはなりません。所謂保険請求と呼ばれるやつです。
なので、「正月」「ゴールデンウィーク」は基本的に出勤して請求業務をします。
また、うちの病院の夏休みは3日間しかくれない(連休である必要はない)ので、1年通しても1週間連続して休むということがほとんどありませんでした。
ニュースで「大型連休」と言うたびに、どこの世界の話だという感じで、ほぼ30年間産休と病休以外に連休をしてきませんでした。
そのためなのか「3日間も休み」と言われると、ものすごくたくさんの自由時間を与えられた気になります。
で、あれもして、これもして、と脳内でぼんやりと希望を並べます。
計画ではないのです。
ぼんやりと希望を並べるだけなのです。
「あれも出来る〜」
「これも出来る〜」
って感じ。
計画も立ててないのでは出来るわけありませんよね〜。
連休になったからと言って、食事の時間も必要ですし、掃除洗濯などの日常の仕事が無くなるわけでもありません。
自由時間だ〜と言っても家族と時間もあるし、普段休みが無いからこれ幸いにとばかり、色々と要望も与えられます。
今回、職場異動があって保険請求からは解放される職場に行って、赤い日(日祭日)はお休みをいただけるようになりました。
で、土曜日もお休みがいただけて、土日月曜の3日間お休みと相成りました。
そうしたらまぁ夢見る、夢見る。
連休あるからあれもこれもと、すごーくたくさんやりたいことがやれる気がしていました。
連休の実際は寝てました(笑)。
普段、4時間くらいしか睡眠時間取れてないせいもありますが、朝は普段通りに勝手に目が覚めても、昼食後にものすごい睡魔が襲ってきて。
仕事している時は眠くなるから、昼食の量をすごく控えているのですが、休みになるとお腹いっぱい食べてしまうので、眠くなるのです。
連休の3日目の朝は起床時間すら1時間遅くなりました。普段は4時半には勝手に目が覚めるのですが、気がついたら6時近くになってました。
いっぱい寝るって気持ちいい〜(笑)。
のんびり洗濯物を干して、コーヒー豆をミルを使って手で引きながら、ゆっくりコーヒーを淹れて飲むって素晴らしい。
仕事の朝も、子どもたちを保育園に預けていた頃に比べれば、今はすごく余裕があります。インスタントだけどバターコーヒーをゆっくり淹れて、のんびり飲みながら手帳を記入したり、本を読んでから出勤する余裕があります。
それでも、休日の心のゆとりとはやっぱり別です。
本当は別じゃないのかもしれませんけど。
休みの日でも仕事の日でも、本当は自分がやっている事に変わりはないのかもしれません。能動的か受動的なのか、楽しんでいるかやらされている気がしているのか。本当はどちらも自分で選べるのかもしれません。
いつだって。
休みのダラダラを無駄な時間だった、と思ってしまうのか、休めて良かったと思えるのかすら、自分で選ぶ事です。
仕事にしてもやりたいことにしても、本気で取り組むのなら、計画は必要だろうと思います。
私の厄介なところは、計画に組み込まれた時点で、やりたかったことですら義務感を伴ってしまうことですが。
ならば、計画的に行う仕事も義務感からではなく、楽しんで行うことが出来れば、休日ももっと楽しくなるのかもしれません。
仕事している時間も、休日でのんびりしている時間も、自分の時間であることに変わりはないのだな、と振り返って思う、連休でした。
それでも、仕事は面倒なのよ〜。o(T^T)o