
命みちる「全信頼」が飢餓と不食を分かつ
昨日初めてあかすりを体験した。今日は誕生日(あ、日をまたいでしまったが)。大きな変換機には、爪が大きく剥離するとか、流産とか、いろんな物理的な脱皮現象がおきるけれど、今年は意識的に「脱皮」したくなった。
担当してくださったのは、オンマという音がしっくりくる、おおらかな韓国のおばさまだった。まさにあけっぴろげになされるがまま!!笑「まな板の上の鯉」のごとく、まるで鱗おとしをされているような、あるいは愛犬の全く無防備にお腹を投げ出して全身くまなくなで回されるという、そんな経験で、施術中何度もにやにやと笑ってしまった。
自然と会話もあけっぴろげに、からだやお金のことなども話しながら、受け答えしながら、顔にシャワーバシャ―!アッハッハッハ!みたいな超アットホームなリラックスタイムだった。
それは、全信頼。という感覚。
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今朝きっかけがあり、私にとっての「食べる」とは?を改めて考えることになった。
私とおそらく似た性質を持っていた(疲れやすさ、集中力が続かない、段取りが難しい、目に入るものが雑多な台所仕事の苦手意識など)祖母の影響で、ほとんど食卓に重点を置かない、曜日ごとにメニューが決まっている(さしみとか、とろろとか、手のかからない一品)ような家庭で育った父のもとへ、
いわゆる当時(今はもっと自由になったな~よかったよかった。)「昭和の母」的な堅実な嫁=母が、毎日手作りで主菜副菜をきちんとそろえるようになったところに私は生まれ育った。そのころすでに白米好きの祖父は糖尿病にかかっており、透析いらずの元気な祖父の姿を私は知らない。
自営で経済的には浮き沈みが大きく、物心ついたころには不自由はないけど「ぎりぎり」みたいな家計状況の中、母は「食べることが一番大事」とエンゲル係数の高さをキープし、父はいつも食卓につき「幸せだ。」と言う。育ち盛りの当時はおかげで手をかけたおいしいもののありがたさと、家庭の安心を身に刻んでいたと思う。
一方で、私のおなかが「グウ」となったのは、高校生になってからである。はじめて「おなかがすく」という感覚を得た。それまでは小食で、幼稚園では配達のお弁当を残し、先生にみせては廃棄し、小学校にあがると給食をあらかじめ減らせるようにはなったものの、それも嫌で1日休み。朝ごはんは当たり前に残し「なんで食べるのかわからない。」といった感じだった。
もう一つ、最近自分に嘘がますますつけなくなって気づいたのは、「孤食」がいい。ということだ。それはガチで味わいたいときほどそうなのだ。大勢で食べるのはうれしい。一人では作らないようなものも一緒に食べられたり、おいしいね。といいあいながら食べる幸せもわかる。でも味わえていないのだ。食べた気がしない。人や自分の食べる姿や配慮とか、話してることとか、交換して食べあうとか分け合うとかも、集中を妨げる。情報量が多すぎてすごく疲れるのだ。
焼き肉屋も嫌い。飲み会の意味が分からない。家族のだんらんすら夫不在では子どもたちとテーブルにつけない。最近になって、どうしてこんなにいらいらするのか。単純に情報過多、刺激過多なんだ。ってわかった。うるさいし。煙出るし、火は好きだけど、焼いたり取ったり、とくに子どもと一緒というのはいつでもどこでも落ち着けるわけがない。「本気で食べる」なら、一人がいい。
だからこそ、今年キャンプデビューしたのは画期的だった。同じ炭火焼きでも、外なら広くて多少汚したり落としたりしても気にならない。うるさくもないし、ゆったりしたペースで時間も気にせずに食べられる。やっと味わえた。何より、食べるもの担当は all 旦那 なのも安心。家でも一日一食は自分のためにも一品つくるけど、ほかの食事は子どもやだんな、給食頼みである。
長々このように思い返すと、私は残念ながら食べることにあまり関心がない。それよりも言葉を読んだり、書いて出したり、舞台や美術館や映画館のような「しん」とした場所、一つのことに集中できるところに身を置いてる方がよっぽど満たされる。展覧会や公演のために遠出したりするときも、下手すると水さえ一滴も飲まずに帰宅することもある。
今日豊田市美術館のクリムト展へ行ってきたが、やはりお昼は抜きだ。ひたすら見て、感じて、浮かんだ何かを反復したり、書き留めて帰ってくる。
以前子ども向けのアスペルガー症候群の理解のための本を借りたとき、「体調に気づきにくい」というような特徴も書かれていて、なるほどと思った。おなかがすいてるとか、眠たいとかは、幼いころは家庭に守られていた欲求だったのだと思う。が、のどの渇きに疎いのはずっとだと思う。乾いているのが普通で、長年旦那にも指摘されていたし、妊娠や授乳もありだいぶ改善してきた。一度、たくさん水を飲むことに対して「だっておしっこがいっぱいでるもん。」と反論したら「アイドルか!笑」と旦那に返されて「あーそう言う感覚あるのか、自分?」みたいにどぎまぎしたこともある。しかし単純に優先順位が下なんだな。
Eテレ「ダイアモンド博士のヒトの知恵」でも狩猟採集のくらし、伝統社会でのくらしでは、一日一食はごく当たり前のことだと紹介されていた。お産でお世話になった吉村医院の故吉村正先生も、少食粗食が体本来の野生の力を引き出す。ということを言われていた。「たべすぎてかんよ。」と。
ヴィ―ガンや不食の暮らしをしている人たちとも出会って、生活によって体がかわっていくことも知った。腸内環境が変化して、なんら生存に問題のないようにしてくれるのだと。
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重要なのは、もはや食べるとか食べないとかそういう次元でない。
その人の命が満たされているかどうかだ。
飽食の地で不食の暮らしをしている人がある一方、明日の命も知れない生活を余儀なくされて飢える人たちもいる。あるいは同じ状況に置かれていても、心の持ちよう一つで生存率が変わったりもするらしい。
それは、不安を抱えているかどうか、という要素が大きいのだろうと思う。
成長期の子どもたちの飢えや、拒食過食など一概にするのは乱暴だが、例えば「食べなくて」も大丈夫でいられるためには、
その人の心を魂をよろこびで満たし、安心させてあげることが重要なのではないだろうか。
何で満たされるかはそれぞれで多様なはず。
その多様性が守られ、信頼に足る社会を築いていく。
帰省するとたくさんの品を並べてくれる母に、一品派の我が家について「これからは食料難の時代だから」と返したことがある。
少食に臆病になりすぎないように、整える環境があるはずだ。
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