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②撃たれた私が、人を撃った理由。

私は私を大切に思う人と友達になりたいのですが、もう無理なのかもしれないと感じています。私は長年の鬱により、命や感性の旬が過ぎているからです。

それでも私は、私に興味を持っていない人に度々私を売り込みに行きます。寂しいからです。

「友達になってくれませんか」と。そして、数々の厳しい面接に合格して、ようやく「知り合って数日だし興味もないけど、使えるなら使ってやってもいい古臭い消耗品のひとつ」という立ち位置を得るのですが、じぶんでやっておいて、悲しくなり、蒸発するという繰り返しをしています。

寂しさや感性を理解してくれるのは、リスクを考えずに他人のために全力で行動できるような、安定した生活を誰かがまかなってくれてリスクも誰かが背負ってくれていると意識もしていない無鉄砲な熱さを持つ少年少女と、安定した生活を得て他人にちょっかいを出す暇ができた主婦だけです。使える人間にさえなれば、誰かから必要とされて、私は青年から悲しみを理解してもらえるかもしれません。

ところで、無能ほど言動に質が足りないから、勤続年数など年齢の量を誇りますが、年齢とは己の価値の割引率です。年増はそれだけで価値がありません。何故って、例えば10代で自転車に乗れたなら偉いのかもしれませんが、30代や50代で自転車に乗れる「ごとき」を誇る人はあまりいません。恥だからです。歳をとるにつれて、できることの質は上がって当然だからです。浪人したり窓際だったり、成長や改善をせずに蓄えたような、質の伴わない量を誇るのは恥知らずです。

できることの質をあげる。それは、手に職をつけたり、他人から大切にされることをするということです。生きるために才能を身につけることです。才能とは魅力です。だから、才能のない人は歳をとるにつれて大切にされなくなり、必ず孤独に苦しみます。孤独は人を死に近づけます。

才能がないとは、単に得意分野がないという意味ではありません。自分に合った分野や場所や仲間を探しもせずにただ年だけとって、勉学や趣味や経験や人や場所などどんなものでもいいのに、「何か」を大切にしてこなかったから何もできない状態を指します。

たまに、「私は頑張ったのに」などといった寝言を言う人がいます。0点は0点なのです。無価値です。そして、どう足掻いても0点だったとしても、0点のキミが好きだから価値はあるよと言ってくれるような自分に合った分野や場所や仲間を探してこなかったことと、探してこなかったことに自覚をせず、自分の現状を他人に伝えることを怠ってきたのが問題なのです。

生きる才能がない人は、大抵、SNSやテレビや雑誌や動画サイトといったマスコミを批判しながら、そのマスコミの描くゴシップを見て、無関係な知らない事件に怒り、無関係な知らない人に怒り、まったく内容も知らないまま良かれと思って他人に怒りの感情や根拠のない話をお裾分けして、場合によっては何かを悪と決めつけて、頼まれもしない世直しのため、なまはげサンタに早変わりして、街角やネットに現れ、知らない人をリンチします。大抵は無関係の人を撃ってしまうし、また誰かから、わけもわからずに撃たれる場合もあります。現代のごんぎつねです。クレーマー活動だけをしていると、自分そのものがマスコミになるのです。


昔、近所の酒臭い土方のおっちゃんが語っていた「ドゥア!んめーなあ、ほんなこって悩んでんガァ!だら!オメーは、手に職つけろあ!」という言葉は、なにも「仲良く土方をやろうぜ」と言う意味ではなく、他人から大切にされるための生きる才能を身につけろという意味だと気がつくまでに、私は長い年月を要しました。

自分や仕事や趣味や身内や家庭などの自分の身の回りを大切にできない人は、自分の敷地の中に入ってきた新しい知り合いや仕事や、部下やファンを大切にできるわけがありません。大切にされないなら、人は必ず去ります。自分を大切にしない人は、必ず孤独になるのです。


自分が大切に思えることを他人からも大切に思ってもらえるように伝える力を身につければ、孤独を回避できたり、ごんぎつねになりにくいのではないでしょうか。私はそう考えます。

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