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現代の諸芸術の問題(仮説)
映画、小説、音楽、絵画、いわゆる芸術分野でなんでこんなに時代が進むにつれて作品から「緊張感」や「神秘性」がどんどんなくなっている“ようにみえる“かを4年ほど前から考えていて(学部の卒論にも少し書いたけど)結構まとまってきたので記録用に書いてみる。
まず自分もだし、たぶんみんなもなんとなく思っているだろうけど、「なんか昔の曲とか映画って重々しくて、色気とかムードがすごくあって、大袈裟なのが多いなあ」っていう感覚がある。
その感覚が最初に言った「緊張感」とか「神秘性」とも言えると思うんだけど、逆にいま流行っている曲とか作品をみると、確かに面白くて“刺激的“ではあるけど、ある種のコンテンツ感(人工的に造られた感)がかなり強くて、全体的に主題(その作品のテーマ)が似ている。
もっというと観て聴いてすぐに「あ、このパターンね」「あ、あの界隈の系列ね」というふうに簡単に振り分けれるような感じがする。
そしてなによりも世界に重さや深さがなく、どこまでも軽くてのっぺりとしている感じ。
喜びも悲しみもなにもかも価値が同じで、その種類だけが違うだけという手触りが作品に拡がっているような。(サンプリング音源みたいな人工感)
1970年代以前の時代(ここから旧時代と呼ぶ)の作品鑑賞を「神社でお参りをする」ような体験だとすれば、ここ最近数十年の作品は「資料を読んでいる」ような体験といえるかも。
そもそも「伏線回収」や「考察」が可能である時点で、その作品には意味や意図が含められているということになり、意味や意図はしょせん人間の頭で"考え出した"文章レベルにとどまるので、その映画や楽曲を文章に置き換えても観客に同じようなことが伝わるでしょう。
これには「制約との戯れによる制約以前の世界提示」っていう芸術行為の条件が抜けているという問題あると思っているのですが、これはまた別の機会で書けたら書きます🙇♂️
主題がどんどん小さくなってきている!?
現代の作品にある種の「緊張感」や「神秘性」、もう少しわかりやすくいうと「ムード・情緒」がないようにみえるのはなぜか。
最初にもう1番デカい原因を言ってしまいますが、明らかに数十年前と比較すると扱っている主題(テーマ)が小さくなってきているということです。
参考に、昔と現在の映画・小説・楽曲よく扱われる主題の例を挙げてみます。
<〜1970年代>
・神
・運命
・善悪
・死
・理想
・偶然と必然
・愛
・歴史
◎共通項:わたしを超えている大いなるものとわたしの関係
<1970年代〜>
・他者と分かり合えない“自分“
・崩壊した家族のなかにいる“自分“
・社会から疎外されている“自分“
・人と違う“自分“(マイノリティ)
◎共通項:つながり(共同体)を失った個人
西洋の作品も含めて話しているので日本人には全然ピンとこないかもしれませんが、時代が現代に進むにつれてどんどんテーマが個人的になってきています。
これが現代の作品を観て聴いたときに「へぇ〜そうなんだ、こういうひともいるのか。でもわたしとは違うな」というどこか距離感を感じてしまう要因です。
もっというと、個人が日記帳に書いている内容をそのまま作品にして誰かに見せているようなものが多い。現代の悲惨な現実を“そのまま“映し出して「こんなに悲惨な現実があるんですよ!知らなかったでしょ?」と言うだけいって終わってしまう悲惨垂れ流し系もしくは「わたし最近こんな小さいけど大きな悩みがあるんだけど、みんなもわかるよね?」という観客の共感を求める悩み暴露系…ほとんどどっちかじゃないか!!
まさにTwitterに自分の悩みを呟くように、作品自体を「投稿」として観客に「呟く」ような感じですかね。つまり多くが共感を得られるかどうか=作品の評価になってしまっている気がします。(そうなると共感されやすい作品を狙って作りはじめる人たちが現れます。マズイですね)
観客のひとりのわたしとしては、「そうか、この作家(主人公)はこういう環境でこういう悩みや葛藤があって大変だね」とは思うけれど、「この作品が何か圧倒的に越えたものを世界として丸ごと提示している」とはなかなか思わないです。
一方で60年代ごろまでの(主に映画)作品は、人間個人を超えたものを主題に扱っている場合が多く、意味や言語以前の世界(自然・混沌)をまるごと提示できるような力を持った作品がありました。
しかも、その世界が悲劇だとしても最終的には「全体的な大いなるもの」の存在が浮かび上がってくるため、悲惨だとしても祝祭的な(原始に還ってゆく)カタルシスがあった。
たとえ一人の個人的な悩みが提示されるとしても、最後には人間個人を圧倒的に越えているものの存在に包みこまれていくから、観客自身も、自我が溶けて世界(超越)とひとつになっていくような感覚がありました。
でも現代のTwitter的な作品だと、だだ現実の厳しさを見せておいて、そのまんま終わってしまう。
なぜなら人間同士の問題しか出てこないから。
登場人物がうまくいかないのは「その人の問題」もしくは「その人の環境のせい」になってしまって、教訓だけが後味として残る。モヤモヤしますね。
じゃあこの主題の個人化の原因がそもそもなにかが気になってきます。
この主題の個人化の原因として挙げられるのは、若者の信仰心がなくなったことによる孤立です。
70年代あたりを境に世界的に一気に若者の信仰心が落ちているというデータを見たことがありますが、上の「作品テーマの個人化」は人間が自分を超えているものとのつながり(信仰心)を失ったことと密接に関係しているようです。※日本は最下位でした。でも文化的に日本人は世界で1番信仰心が厚いです。
「自分を超えているもの」との繋がりがないと、単純に根っこに支えがないので不安になる。
つまり、超越したものの支えがないので身の回りの家族(家)や学校でうまくやることが唯一の自分の支えを確保する方法になってしまい、もし家でも学校でも居場所がなくなったら本当に完全に孤立して生きられなくなっちゃうことになる。
そう、人間を超えたものとの関係が結べてないので、残るのは人間同士のドロドロとした苦々しい関係だけです。
だからこそ家族ものや学校もの、あるいは他者との距離についてが、現代映画・小説・楽曲のほとんどのテーマになっているということです。
(人間の素晴らしさもしくは人間の醜さについての作品ばかり…!?いわゆるヒューマニズム・人間中心主義です)
これは本題とズレるけど、現代人のさまざまな問題(仕事依存、スマホ依存、SNS依存、ポルノ依存、陰謀論者、精神疾患者の急増、不登校の急増、ビジネスブーム、ブルシットジョブ、コスパタイパ主義、ルッキズム、過剰な美容、サウナブームなど)の根底をたどっていくと、この人間を超えたものとのつながりを失った空洞を無理やり埋め合わせるための発作なんじゃないかと思えてくる。孤立を埋め合わせる行動の多くはドーパミンが関係していて、無理やり脳を興奮させることによって一時的に孤独や不安を“しのいでいる“感じ。
つまり、流れとしてはこんな感じでしょうか。
①つながりを失う(そもそも無い)▶︎②孤立する▶︎③不安になる▶︎④埋めようとする▶︎⑤何かに依存する▶︎さらに孤立を深める という悪循環が現代人の基本設計になってしまっていて、さらに広告やビジネスがその依存を使って金を儲けるという最悪の世界観が立ち上がってくる。※TwitterやInstagramがパチンコスロットをモチーフにして作られているのは有名な話。さらに、海外では若者の外見コンプレックスを煽るような美容広告を禁止する流れも出てきているらしい。
ではこのようなTwitter的な個人作品が100年後も普通に観られ聴かれるような古典(芸術)になることは可能なのでしょうか。
確かに、その時代を象徴する「人間お悩み図鑑」として貴重な"資料"ではある思いますが、「世界そのものをまるごと浴びたい」と思って手を取る未来人がいたら、ちょっと待って!と言いたくなっちゃいます。
過去のいくつかの素晴らしい映画は、観ているとだんだん自我が溶けていって作品世界とまるごと一つになるような体験がありました。
もともと創作の意味はいまとは全然違った。意味・意図・言葉以前の原始世界への回路(扉?)をあえて文字や映像や演技を用いて創ることが創作の本来の目的だった。
ここでは現代の作品の問題点の仮説だけにしておいて、本来の芸術作品の在り方について詳しくはまた別に書けたら書きます!(めっちゃ面白いとおもう!)
打つの疲れた😅