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自分の言葉7〜正直さが自由へのカギ〜

“本当にイエスという名で表現されている存在を知っている者は神を知る。本当に神を知った者は、罪は犯さない。罪を犯す者は本当にはキリスト・神・愛・大いなる存在などで表される恵みの主体者のことを知っていないだけである。知っていれば誰も罪を犯さない。私は、救いの神・赦しの神・恵みの神、そして、見捨てない神・親友のように親のように伴侶のように共にいてくださる神を忘れない。いや、仮に忘れたとしても、神は私と共にいまし給う。私たちの生には、それほどの価値がある。そして更に、神は本当は、神を畏れない者さえも神の国に招いており、畏れない者も同様に尊い価値があると語りかける。これは当然のことであり、かつ全ての人間にとって特別なことであり、個別で気づいていくことだ。神を畏れない者、つまり神に背を向ける者は、本当は神に背など向けていない。というより、神はどこにでもいらっしゃり、前にも後ろにも右にも左にも上にも下にもいらっしゃるのだから、神に背を向けることは実際は不可能な行為なのだ。マジックミラーのように、恵みの主体者はいつでも私たちを見ることができるが、こちらからはなかなか気づくことができない。本来は五感で感じている全て、自分という存在で感じている全てが恵みの主体者そのものであるが、私たちは気付いたとしても、すぐにその存在を忘れてしまう。しかし、何度も言おう。忘れてもいいのだ。むしろ、偽って忘れてなどいないと言って執着することはとても苦しいことだ。忘れることを主体者は責めないし、忘れて思い出すの繰り返しが私たちを成長させ、いつの日か本当の意味で感じ続けることができる時が来る。それは死を通してかもしれない。瞑想を通してかもしれない。絶望を通してかもしれない。何がきっかけでその時が来るかは誰にも分からない。だからこそ私たちは、いつ目覚めるのかは分からないが、そういうことはあり得るということだけは覚えていた方がいい。”

「実際、罪の定義にもよりますが・・・」とかの定義の議論はしません。そのような罪の定義などというものは、良心という形で、それぞれの文化や国に合った形で、私たちに心の内側から語り掛けられています。

私も含め、その良心のか細い声を聞くことはとても難しいのですが、何度も何度も私たちはその良心の声を忘れて思い出しての繰り返しで生きています。

人は何か過ちを犯したら反省するのが普通だと私は思っています。この反省をせずに、理屈をこねくり回して、自分の行動が何を意味したのか意味するのかを無視して、自分を正当化していけば、自分を偽ることになり、苦しみが生まれます。

自分の行動と向き合わない苦しみは、向き合う苦しみよりも何倍も大きく、長く続くのです。向き合って苦しんだ方が早く苦しみは去ります。

( 「過ち=苦しみ」ではなく、過ちに対する私たちの偽った反応が苦しみを生みます。)

嘘をつけばつくほど、苦しみは増し、いつの日か嘘が本当のようになってしまい、自分の心の声が聞こえなくなってしまうのです。

悲しいことに、私も含め、多くの人間が「完全でなければならない」とか「誰よりも優れていなければいけない」などというような、アドラー心理学でいう所の優越コンプレックスに陥ります。

最初は、理想の自分に向かっているだけの優越性の追求だけのはずが、メディアなどの影響に支配され、自分ではない周りと比べ出して、自分はピラミッド社会の頂点にいなければいけないとか、少なくとも頂点を目指さなければいけない、と思ってしまい、複雑さが生まれ、コンプレックスになってしまうのです。

頂点を目指さなければ世界が衰退してしまうという考えの人もいると思いますが、私はその考えには同意しません。

頂点を目指したい人が目指せば良いのです。目指したくない人は目指さなくていいのです。頂点を純粋に目指したい人が目指すから本当に良いものが生まれ、世界は発展するのです。目指したくないのに目指す人がいるから苦しみの世界が生まれるのです。

話はずれますが、神を畏れない者とか神を畏れる者とか書いていますが、どちらが上でも下でもありません。畏れたい人は畏れればいいし、畏れたくない人は畏れなくていい。正直さと自由が大事なのです。

神を信じようが信じまいが、そんなことはどうでもいいのです。神はいるし、神はいません。どっちでもいい。

私たちが生きていくために必要なのは、神への信仰ではなく、自分の心の声に対する正直さと、自分への選択の自由をプレゼントです。

(心の声を神の声・聖霊の声という人もいるし、本当の自分の声という人もいるし、さまざまな表現方法があって問題ありません。)

もっと私たちは自分の良心に自由を与えて、良心の声を実行できるようにした方が苦しみの少ない人生を送れるでしょう。

好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。
したいことはしたい。したくないことはしたくない。

そういう正直さが、私たちの良心を解放するでしょう。

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補足として、はっきり言いますが、全ての人間に上も下も、前も後ろもありません。学歴によっても地位によってもお金によっても経験によっても人間の価値は変わらず、人間は全て対等な存在です。

赤ちゃんは高齢者よりも将来性があるから優れているのでしょうか。高齢者は赤ちゃんよりも経験があるから優れているのでしょうか。目に見えるものでは決して存在価値は測ることなんてできないのです。

ただ単に、そこに居たいからいる。学歴も地位もお金も経験も、目的そのものでは決してなく、何かを実現させるための道具・手段でしかありません。実現させたい何かは、良心の声が発してくる何かです。

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