自分の言葉6〜全員、神〜
“私の心(お金を礼拝することによる他人への見下しと踏みつけのエゴ)は、神の言葉が疼きながら、それを隠そうとすることで、神の言葉が粛々と唱える無償の愛に基づかない歯がゆい自己肯定「私はこれでいいはずだ」をせざるを得なかった。自己肯定などというものは本来必要ない。神による肯定さえあれば、自己肯定感を高めるための練習などは必要なくなるのだ。なぜならば、神は全てであり、その全てに包まれていることを知った者は自らで自らを掲げる必要などなくなるのだから。ただ自己肯定という作業を通じて、自分の内にいます大いなる聖霊に気づくことはもちろんあり得るので、自己肯定という作業そのものは100%間違っているわけではない。100%間違っている内的作業というものは本来存在しない。”
神による肯定と書きましたが、私たちもまた神そのものであるので、神による肯定という言葉も厳密には間違っています。
自己肯定でも神による肯定でもなく、ただの肯定です。弱い強いとかそういう相対的な価値観を超えて、ただあるがままの佇みで肯定される。
というよりもむしろ、あるがままの佇みしかないので、本来は肯定も否定もありません。そんな判断は人間が勝手に作り出した何かしらの価値観・裁きの法則によって生み出されただけです。
本当は
「ただ在る」
それだけです。
私たちは相対的な価値観しかこの世界には存在しないと思いがちで、何かが正しくて、その反対が正しくないものと考えがちですが、実際は「ただ在る」だけです。
判断は全てエゴです。
絶対的な価値観というものも存在しません。というか、絶対的な価値観という唯一絶対普遍の真理というものを作り出したらすぐに、絶対的ではない価値観が間違っているという論理が生まれます。
真理は「ただ在る」です。善いも悪いもありません。
しかし、生まれてこの方、どうしても私たちは相対的な価値観のぶつけ合わせの試行錯誤によって、真理へと昇華させようとしてしまいます。
はっきり言いますが、この作業は仕方ないのです。そして、その試行錯誤の作業が間違っているとか間違っていないとかを判断することも私たちはしないほうが良いのです。
何が間違っているか何が正しいかを考える前に、既に私たちには「やること」が一瞬一瞬与えられています。
その一瞬一瞬与えられている「やること」から逃避する癖が私たちにはどうしてもあり、その逃避したい気持ちが相対的な価値観を生み出す原動力になってしまうのです。
何度も言いますが、この作業は仕方のないことで、全ての人間に生じることなので、誰もこのことで自分を蔑むべきではありません。
兎にも角にも、私たちは全員神そのものです。イエス様もブッダ様も、私たちより上でも下でもなく、前でも後ろでもなく、右でも左でもなく、同一平面上に丸い地球の地上に存在していました。
なので、本来はイエスさんであり、ブッダさんであり、私たちと良き友人関係にあるのです。
一番悲しいのは、「無償の愛に基づかない歯がゆい自己肯定」でしか生きれない状態でしょう。承認欲求に振り回されている状態であり、常に他人軸でしか生きれない状態です。
まあ、そんなこと言っても、全振りで他人軸でしか生きれない人なんか、この世にはいないと私は思っています。だって、私の考えでは、みんな神ですから。
神は「自分の言葉1〜神の主体性〜」で書いたように、消えない主体性を持っています。私たちには絶対に無くならない神の主体性なるエンジンがあります。
そのエンジンは誰によっても、どんな出来事によっても、無くならないと私は信じていますし、気づき続けていきたいことです。
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「ただ在る」について補足すると、
「ただ在る」ことが真理なのか〜。私も常に「ただ在る」状態でありたいな〜
そういう悟りの境地に辿り着きたいな〜
とかという欲求が出てくるかもしれませんが、ありたいとか辿り着きたいとか思おうが思うまいが、既に私たちは常に「ただ在る」状態を現在進行形で実践しています。
全ての人が常に現在進行形で、「ただ在る」状態を完璧に実践しています。
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