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自分の言葉15〜愛のみが真理〜

"私は律法とはそもそも何なのかということを考える。律法をどう捉えるのか。律法は慣習的行為なのか、それとも信仰の結果としての行為なのか、ということである。律法の慣習化とは、その律法が定められた理由が忘れられてしまい、人々がただただその律法を伝統的儀式としてのみ捉えてしまっている状態を意味し、主なる神によって与えられた生ける命の律法が、人間によって受け継がれてきた死んだ伝統的行為へと変更されていることを意味する。本来律法とは、神が人間に与えた恵みの御言葉であり、御言葉とはイエスであり、イエスとは五感で認識される福音のことであるが、「人間が人間のために造り出した、慣習化される文章」ではない。本質的な意味での律法は慣習化され得ず、人間的慣れが介在するものではない。
 私たちは形式的な慣習化された律法のみに従うときはあるのか。答えは否だ。「律法のみ」に従うという表現自体が誤りである。なぜならば、律法は律法のみでは存在できず、常に律法は神と共に在るのであり、神から生じ、神が創造したものだからである。"

律法は法律のようなものですが、神が作った法律とされています。

しかし、イエスはその神が作ったはずの律法が愛の伴わないものとなっていたことをかなり指摘していました。

私たちが生きていく上で大切にするルールも、誰かが誰かのことを真剣に考えて、大切にしたいとという想いの表れとして作られていると私は思っています。全てのルールには作られた理由があると思います。

ルールがただの文字として人を縛り付けることがないように、私たちはルールの背後に隠された意図を読み解く必要があるようです。

私は生きていく上でのルール、いわゆる常識をあまりしっかりとは知らずに今まで生きてきています。今も常識と言われるものを全部知ってはいません。むしろ全然わかりません。

しかし、常識の背後に隠された意図が誰かのことを思った愛であることから逆算して考えるようにしています。

この世界の根本的なルールはきっと存在するでしょう。絶対的な真理はあるかもしれません。しかし、たとえ絶対的な真理があったとしても、愛がなければ無に等しいと私は思います。

私にとっては愛以外の真理はいりません。愛のみが真理であり、真理は愛であると思っています。

人それぞれ違う真理に辿り着くという意味での相対的な真理もあるでしょう。それでも私は愛のみを選びたいです。「自分の真理は愛だよ」と堂々と言える人生を生きたいです。

愛は言葉で表現するよりも姿勢で表現するものであり、真理の探究のために誰かを言葉で傷つけることは全くありません。愛は真理の体です。愛は表面に出てこそ愛です。

愛の光は太陽の光のように強烈で隠されることは決してなく、人々に影響を与えるでしょう。見返りはありません。ただ愛として存在するだけなので、本人は周囲に良い影響を与えていることにすら気づかないかもしれません。

もしその本人が自分の存在の大きさや愛としての影響力に気づいてしまったら、その時その本人は凄まじく変容するでしょうが、気づかなくても気づいても、どっちでも問題ないのです。

私たちはそもそも愛以外の何かになることなどできないのではないでしょうか。執着も憎しみも不安も悲しみも絶望も希死念慮も、全てが誰かのことを思うことで生まれた愛の枯葉なのですから。

私たちは愛から逃げることは決してできません。そもそも自分自身が愛そのものであるのに、どうやって逃げるのでしょうか。不可能です。

ポジティブが生まれればネガティブが次に生まれ、その逆も然りですが、肯定も否定もない愛そのものである時、愛の枯葉は肥料となり、愛の畑の耕しが始まり、何者にもなる必要がなかったことを悟り、愛の木を成長させるでしょう。

まあ、そのようなことを書いていますが、私は文字としてしかまだ表現できておらず、まだまだ愛で居続けはことはできていませんが、今日はこの辺で自分を許して、noteを作成できたことに感謝して、ゆっくり今日の残りの時間過ごせればと思います。

ありがとうございました。全ての人が幸せでありますように。

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