#42 1993年 会社丸やけ記念
花火というのは、生命のはかなさを大空に打ち上げているのです。
静かに祈るものです。 永六輔(放送作家・作詞家・エッセイスト)
花火は、人の心を掴んで離さない素晴らしい物ですね。
漆黒の夜空に展開する色とりどりの火花は、古来から「ドン!」としか言いようの無い重低音と共に、私たちの心をお腹の底から揺らしてきます。
この一瞬の美しさは、火が消えてしまった後に、もう一度暗い夜空を眺めている時間とのコントラストによって際立ちます。花火がキレイなだけでなく、その後の夜空の暗さに気が付く事にも、花火という物の良さがあるのです。
普段はそこに無い物が、特別にパッと現れてすぐに消えていく。その一瞬を見ようとして人が引き寄せられる。この儚い美しさにこそ、我々日本人の詫び錆の心があるのかも知れません。
だから花火は素晴らしい物です。
こんな素晴らしい「花火が嫌い」と言う人は珍しいかも知れません。
だから、これを口に出すと怪訝そうな顔で見られます。その人が花火大好きだったりしたら、「実際に見たら、お前だって目を輝かせて見るだろ、目の当たりにしたら、きっとそれには抗えないハズだ。それか、お前がまだ本当の花火を知らないのだ。はたまた、イキってかっこつけてんのか?」と言われてしまうかもしれません。
でも、勇気を出して言いますが、心のどこかで、花火の事がなんだか嫌いなんです。
その理由は自分でもはっきりしませんでしたが、もしかして、と思った事があったので、今ここで発表したいと思います。
是非、このコマをご覧ください。
てんとう虫コミックスドラえもん第1巻収録「未来の国からはるばると」からの1コマです。
お正月をのんびり過ごす少年のび太に、未来から押しかけるようにやってきたドラえもんと、のび太の孫の孫だという少年セワシ。彼らがのび太の未来からやってきたという事を信じさせるために見せたのが、のび太の未来を綴じた写真アルバムでした。それによると、大学に受からず就職も出来なかったのび太は、自分で会社を興します。しかしその会社で花火をしたために、社屋を丸焼けにしてしまいます。このコマはその時の写真です。尚、これがきっかけとなり、会社は潰れてしまうようです。
私が花火が嫌いな理由はこのコマのせいです。
花火そのものが悪いのではありません。花火を見る時、花火をやる時の精神状態が「浮かれすぎている」のが嫌なのです。
もちろんプロの花火師にとって花火大会などは、腕試しとか年に数回の大会であると言えるので、その人たちが浮かれているとは言いません。安全と自らの技術の結晶を打ち上げるのに、浮かれてなどいるはずがありません。
しかし、往々にして花火をやる我々一般人は、花火を見たりやったりする時に大体の場合、「へっへーい!!!いやーっほぉう!」的な精神状態になります。
ここで、はっきりと人生の心理を言いますが、
楽しすぎて浮かれる気持ち。こそが、人生とお肌の曲がり角です。
なぜなら、するべき判断をしなくなることがあるからです。
例えば、夏のキラキラ輝く海に遊びに来た時、海を見てテンションがあがってしまうと、早く海に浸かりたいがために走り出してしまいます。すると、日焼け止めを塗るのを忘れてしまう事がありますよね。そうなると、数日間は日焼けがヒリヒリして痛いだけではなく、将来的にお肌にシミを作る事にも成り兼ねません。
のび太の人生は、決して楽しすぎて浮かれている訳ではありません。しかし、会社で花火をする時というのは、どう考えても浮かれすぎています。
ドラえもんとセワシが持ってきたこのアルバムによると、本当にのび太は辛い人生を送る事がわかります。のび太本人もこの後、ジャイ子と結婚する事などを知らされ、「ぼくはもう生きているのがいやになった」というくらい落ち込みます。
小学四年生の子供に「お前のこの先の人生は、お先真っ暗だぞ。何やってもうまく行かないぞ。」と言うのはあまりにも酷な話です。
私たちが生きる今の時代、フェイクニュースやフェイク写真、動画や音声でさえもフェイクを作る事が出来るようになってきました。だから、私たちがこのような形で写真を見せられても、すぐに「合成じゃないの?」と疑う事が出来るかもしれませんが、この物語の時代背景は1970年代なので、そういう発想はまず出てこないと考えていいでしょう。
純粋な少年であるのび太は、真に受けてしまいショックを隠し切れないのです。10歳とか11歳の子が、自分の人生に絶望してサメザメと泣き崩れている訳ですから、かなり内容としては過激であると言えますね。
そんな悲惨な未来を回避するために、ドラえもんとセワシはやってきた訳ですが、非常に巧みなやり方をしていた訳です。突然現れた彼らの話をのび太に信用させるためのテクニックがあると考えます。
人のモチベーションをあげるためにできる事はいくつかありますが、ここで行われているのは、不安感を引き起こさせて行動を促すタイプの物です。仮にここではこれを不安解消型のモチベーションアップと呼びます。
逆に、目の前に人参をぶら下げる。つまり、頑張れば先に良いコトがありますよ。というやり方の事は、期待達成型のモチベーションアップと言えるでしょう。
甘やかされているのび太にとって必要なのは、不安解消型のモチベーションアップです。
お前、このままではダメになるぞ。という訳ですね。
この「未来の国からはるばると」を読むとわかるのですが、のび太のパパとママはとにかくのび太を甘やかしています。
その証拠に、机の引き出しから変な奴が出て来た!と訴える息子を、想像力が豊かであると褒めたりします。
さらにこのコマをご覧ください。
右上のコマには、「大学入試らくだい・なぐさめパーティー」とあります。学生服を着ているのび太をパパとママが挟んでいます。壁にはパパが書いたであろう「なぐさめの言葉」が並んでいます。
・来年があるぞ
・くじけるな
・七転八倒(おそらく)
なんだか泣けてきますね。この会が、「励ましパーティー」ではなく、「なぐさめパーティー」であるところも甘やかしのような気がしてきます。
ママが背中に手を置いてのび太を慰める描写も、彼がこの年齢になってもとても甘やかされているという事の表れだと言えます。この時の、のび太の年齢は20歳かそれ以上なのではないかと考えられます。その理由は、パパがのび太にビールを注いでいる描写がヒントになっています(もっともおおらかな時代なのでわかりませんが)
もしこれが2浪目に入ろうとしているとなれば、19歳という事になりますが、大学入試に失敗し落ち込んだ我が子をなぐさめる会なのですから「もうすぐ20歳なんだからもう飲んだっていいだろ」的な事で、御酌してあげているとしてもなんら不思議ではないのです。もしそうなら、少なくとも先に1浪しているという事になりますね。2浪を許すとなるとかなり甘やかしであると言えます。
その後大学に受かったかどうかは、この時点でははっきりしませんが、仮に受かったとすると、左上のコマである1988年の時、のび太は24〜25歳という事になります。この時に起業に必要な出資金を払ったのは、肩を組んでいるパパ以外にはいないと言えるでしょう。これも、パパがどうしようもないのび太を甘やかしていると言えるかも知れません。もしくは、パーティーに参加している人たちは、パパの伝手で集めた出資者たちなのかもしれません。(※連載当時はパパの会社を継いだという設定だったので、本来はパパの会社の人たち。という事になるのでしょう。)
ダメな子ほど、可愛い。というのを地で行くのび太。そのせいで、彼はダメなまま大人になるのです。
続く1993年に具体的に何があったのかを知れるエピソードはありません。社屋もうっすらとしかわかりませんが、ビルか、戸建て的な建物かと考えられます。当初はパパの会社を継いだという設定だったので、パパの自社ビルだったのかもしれません。これがテナントだったにせよ(その方が迷惑がかかる)、この火事によってのび太の人生は本当に落ち始めるのです。
おそらくですが、この時にはジャイ子と結婚するところだったか、したばっかりだったと思われます。仕事も少しはうまく行っていたのかもしれません。そこに、会社で花火をやるような浮かれ具合と、天性のおっちょこちょいが入り混じった結果である。と考えるのは自然な事ではないでしょうか。
火事によって職無しになったのび太をジャイ子が拾ってあげたという事も考えれます。しかし、借金があるとわかっているダメ男を救ってあげるという程、聖母的な存在ではないような気がしますね。だから、結婚してから火事を起こした。と見るのがいいような気がします。
2年後の1995年にはジャイ子との間に第一子も生まれています。そして、そこに借金取りが押しかけて来ています。この時の借金が、セワシくんたちの代まで続いている訳です。
ここまで整理すると、
・大学入試に失敗して、浪人する。
・就職できなくて、自分で会社を作る(父親の会社に入社する)
という事になりますが、この辺は特に珍しくもなんともないです。現実にもあり得る事でしょう。
しかし、
会社で花火をして火事を起こし、それが原因で倒産・莫大な借金を背負う。
というのは、やはりギャグマンガです。
トンデモ理論というか、トンデモ論法というか。むちゃくちゃです。
その原因になったのは花火ではないのは承知しております。それは、のび太のパーソナリティーが原因であると考えますが、もし1993年の時点でのび太の手元に花火さえ無ければここまで悲惨な状況にはならなかったのではないか。と考えてしまう訳ですね。
のび太がジャイ子と結婚したけど、失敗しなかった世界線があれば、ジャイ子の尻に敷かれて大変な人生でも、子だくさんでそれなりに幸せな人生だったのではないかと妄想してしまうのです。
とはいえ、もしそこに花火が無くても、のび太はこういう事を起こすような奴ですから、別の問題で借金を背負うのかも知れません。
セワシくんがどういう理屈で、このタイミングののび太にドラえもんを連れて来たかは、明確にはわかりません。が、おそらくは部分的に未来を替えてもダメだったのでしょう。1993年に花火を隠しても未来は変わらなかったのではないでしょうか。
だから、人格形成の分かれ目とも言える子供の時ののび太の元に、ドラえもんがどうしても来る必要があったのではないかと考えます。
今、自粛の影響で、花火師さんたちは大変な状況なんだそうです。イベントが無くなってしまったからです。花火をあげる場所と機会が無い。そうなると、生計が成り立たない、生業が成り立たないという状況なんだそうです。
そんな理由で、あちこちでゲリラ的に花火が上がったりしているようです。それを告知したり、しなかったりしています。
ちょっと冷たいようですが、僕にはこの状況下にとってその花火が何らかの役に立つとは考えていません。まだまだ浮かれてもいいような状況ではないからです。正直、一時の紛らわしではなく、明日への対策を考えたいからです。
しかしその花火を見て、のび太の様にちょっとした事で人生が大きく変わる事もあるのだ。と思い直せば、もしかしたらそこに希望を見出す事も出来るのかも知れません。
もしかしたら僕が花火を嫌いなのは、きっと浮かれてしまう程に素晴らしいからかもしれません。はしゃぎたくなってしまうのです。
今はまだ、
キラキラ光る海を見ても走り出さない。
花火を見て浮かれたくなってしまっても、静かに希望を祈る。
慰めてもらってばかりではなく、自分で自分を励ます。
この先に辛い事があるかも知れないけれど、
それも変える事が出来るかもしれないと思って生きる。
それもこれも、あんなにならないように、ね。
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