『アート鑑賞、超入門! 7つの視点』藤田令伊著
アートライターが美術鑑賞の「視点」と「ヒント」を提示する新書。
仏像の展覧会で「老女」が仏像に手を合わせ泣いていたのを目撃し、その姿に打ちのめされたと語る(p. 93~)。なぜなら、老女が仏像と向き合い、深い鑑賞をしているのではないかと思ったからだという。
感動的なくだりだが、老女は仏像に関する知識を大学教授や評論家、著者よりもおそらく知らなかったであろうと推測している点と、対象が「仏像」だったのが興味深い。
前者については、老女の身なりからそう判断したのか(仏像研究者には見えなかった?)、それとも、「知識があるなら、そのようには仏像に向かえなかっただろう」と判断したのか?知識があるゆえ入り込めない、という作者の実感による推測だったのかもしれない。
後者は、仏像がもともと「アート作品」ではなく「宗教、信仰の対象」だったという点に注意したい。キリスト教の宗教画(や彫刻)も同じだが、特に展示場所が美術館や博物館だと、信仰を持たない現代人は仏像もアートと見なす。しかし、老女は本来の宗教性を帯びたものとしての仏像を拝んでいた可能性が高いのではないか。必ずしも仏教に帰依する者というわけではなく、何か崇高なものとして心打たれていたのかもしれない。
私は宗教の表現として作られたものではない美術作品に涙したことが何度かあるので、宗教的な意味合いを抜きにして、泣くほど作品と深く関わることも可能だと思う。だが、ここでは、「両手を合わせ」(p. 93)という描写から、「美術鑑賞」という範疇で捉えようとしていることにはやや違和感も覚える。いやそれともそれを踏まえた上で、「老女は『鑑賞』の一つの究極のあり方を見せていた」(p. 94)と書いているのかな。「鑑賞」がかっこ書きだし。
作者の意図とは異なる見方も許容されることは、社会のダイバーシティ(多様性)の担保につながります。そして、さまざまな見方が存在することによって、意見が異なる者同士でも共生できることになります。(p. 106)
作者に唯一の正解者としての立場を与えないことは、民主主義につながる。正解を求めるのは危険な行為で、各自が考えてそれを言い合った方がいい。
ミレーの《落穂拾い》について「仮定鑑賞法」を提唱するところで、「『女三人寄ればかしましい』といいますが、二人では『かしましい』とまではいきません」(pp. 112-113)と書いている。ジェンダー意識が希薄な方なのかなと思った。
それまで自分が認められなかったことを認めるのは、自分の可能性が広がることです。決してブレではありません。自分の変化に柔軟であることが大事です。(p. 170)
アート鑑賞でさまざまな見方に自分を開いていき、それを実生活で物事や人に対しても行っていけるとよい。
他者の気持ちを自分のこととして理解、実感しようとすることは、時に苦しく葛藤をもたらし、心的エネルギーを要することがあります。(p. 185)
だから多くの人はたいていの場合そうした姿勢を避けてしまう。でも時には、アートに対しても、人や状況に対しても、試みることが大事なのではないか。