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人を馬鹿にしたい ~『凍りのくじら』を読んで~

 2,3年前から辻村深月さんの本にハマっていて、今までにそれなりの冊数を読んできた。辻村深月さんは人物像や心理描写を書くのが本当に上手で、登場人物を見て「こういう人、いるいる!」とたびたび思う程リアルに人物が表現されている。人間のズルいところ、醜いところ、恥ずかしいところ、弱いところをとてもよく熟知し分析されているのだろうなと思う。(ネガティブ要素しか挙げなかったが、ポジティブ要素ももちろんある)

 生きていると色んな人に出会うが、「この人嫌だな」と思うことがあっても、それを大っぴらに口にするのは人の悪口を言っているようで憚られるし、聞き手に愚痴を聞かせてしまっているという申し訳なさもある。たとえそれが、身近な人に私のことを特定されることがないはずのネット上の場所であっても。そこで思いついたのが、読書感想文という体で、登場人物に誰かを重ねてディスるという手法だ。今回ちょっとお試しでそれを実践してみようと思う。

 辻村深月さんの作品の中で私がとても気に入っているものの一つに「凍りのくじら」という本がある。
 主人公は理帆子(りほこ)という女子高生で、少し賢くて周りに調子を合わせながらも、どこか壁をつくって人を観察して少し馬鹿にしているようなところがある子だ。そんな理帆子は、弁護士の夢を語る顔立ちの整った大学生の若尾(わかお)と付き合う。若尾は裕福な家庭で何不自由なく育ったが故に、ある意味世間知らずで、自分の弱さや無知に対する自己認知が甘く、変にプライドだけが高くなってしまっているいわゆるイタいヤツだ。メンタルも忍耐力も脆弱な若尾は、試験に落ちて司法浪人生になってしまうが、それでも自らを省みることをしない。

“当時の私は若尾の弱さと、それと表裏一体である彼の傲慢さ、プライドの高さを愛していた。馬鹿らしいことに、それをかっこいいと思っていたし、私が彼に求めるのはその弱さと、それにより彼が私を求めてくれる気持ちそれ自体だった。”

“俺、そんな誰にでもできるような仕事に就くのなんか、絶対嫌なんだ。そんな冴えない場所、まっぴらだ”

 若尾は、社会人としてのスキルや経験も無く、今のままでは弁護士になれる保障もないのに、夢を追っている自分のポジションに優越感を感じていて、平凡な職業の人たちを馬鹿にしている。アルバイトも経験したことがなく、社会で生きていく耐性のない若尾に対し、理帆子は『世の中で働くサラリーマンや公務員。そのどこの位置に若尾を放り込んでも、彼はきっと働けないだろう』と客観的に判断する。しかし、理帆子は若尾の容姿に魅了されてしまっていたため、若尾の弱さにさえも魅力を見出し、若尾が自分に依存することで成り立つ不健全な関係をはじめは都合良く思っていた。

 理帆子の不純な動機はさておき、若尾ほどひどくはないが似た性質を持つ人をちらほら見かける気がする。若尾は本当に弁護士になりたいと思っているというよりかは、自分が肩書を持った何者かになれるという希望にすがりつきたいだけのように見える。社会人デビューをする前というのは、まだ何も始まっていない真っ白なキャンバスのようなものだから、自分が何にでもなれるというような期待をしてしまうし、まだ失敗や挫折を経験していないという事実が人を傲慢にするのかもしれない。社会に出てすでに色んな経験をしている人の方が本当は2歩も3歩もリードしているのかもしれないのに、まだ何も挑戦できていない人が高見の見物気分で「自分はああいうつまらない人生にはならない。もっとうまくやれる」と表面上だけを見て思ってしまう。そういう人に限って、自分の身の丈に合わない大きな目標だけ掲げて、結局いつまでも叶えられずにくすぶっていたりする。

 この自己認知の歪みはどこからくるのだろうか。甘やかされて育った人に多いのだろうか。みんなに愛され褒められ、自分がすごい人物になるのが当然かのように勘違いしてしまって、そうではない現実と向き合えないのだろうか。お馬鹿さんな上に、心もガラスのハートなのか。自分が大した人間ではないことを当の本人だけが気づいていないとは、なんて恥ずかしいことなんだろう。何不自由ない幼少期というのも、いきすぎると人格形成において弊害になることがあるのかもしれない。

 自分のことしか考えず2人の関係に責任を取りたくない若尾は、司法試験を言い訳に理帆子に別れを告げ、理帆子もそれを承諾することになる。しかし、その後も若尾の腐敗はエスカレートし、タバコ、ギャンブル、精神安定剤に手を出したり、理帆子と都合の良い関係になろうとして執拗に連絡をしてくるようになる。プライドだけは高いくせに自分で何かをする勇気など持ち合わせていない若尾だったが、徐々に常軌を逸していき終盤では理帆子にとんでもないことをしてしまう。

 理帆子と若尾は違う意味で人を馬鹿にしているというところが、それぞれのキャラクターを際立たせている。理帆子は「人間は頭が悪くて自分勝手」と思っているにも関わらず、自分の身近な人達の個性を受容しつつ愛着を持っている。他人に何かを期待しないようにして一定の距離を保とうとするものの、結局は人のことが嫌いになれずに人と関わってしまう。一方で若尾は、やっぱり自分中心の世界にいて、本当の意味で人に興味を持ったり、好きになるということができず、自分が人より優位な存在であると思うことでしか自分の心を支えられない。早く挫折を経験して自分の課題と向き合って地に足つけてほしいが、こういう人はなんだかんだ理由をつけて状況が許す限りいつまでも逃げ続けるんだろう。

 だらだらと感想のような若尾ディスを述べてきたが、かくいう私もこうやって誰かを分析して馬鹿にすることで、自分が上に立っているような気持ちになっているのかもしれない。でもそれが楽しい。小説を読んでいるときに、自分が出会ってきた嫌悪感を感じる人たちの片鱗を持つようなキャラクターが登場すると、そのキャラクターたちがストーリーとして消化されてスカッとするから好きだ。自分がその人に嫌悪感を感じた理由に納得し、嫌悪感を正当化できることで、自分の気持ちが楽になる。そしてそういうキャラたちがバッドエンドを迎えてくれると、なお嬉しい。こういった変な楽しみ方が正解なのかはよくわからないが、またこういう感覚になれるような本にたくさん出会いたい。

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