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「仕事」をせずに素直に生きるトリセツ (前編: 就活をしないと決める)


会社に勤めたくない、「仕事」したくない

こう心の中で思ったのは、大学2回生のころ。その頃は大学の軽音サークルに入って、ごくありきたりな大学生活を送っていた。夢もない、彼女もいない、ただ授業になんとなく出て、なんとなく友達とつるみ、酒とタバコを嗜み、週に何回かのバイトをする。一人暮らしの友人の大人びた生活にヤキモキする実家暮らしのボンボンだった。

大学は関西の某私立大学。ルッキズム最高、と言わんばかりのハイヒールと小さなカバン。冬でもミニスカの女学生がキャンパスを賑わせる。大学というのは、テキトウに単位を取り、彼女という名のセフレを見つけ、酒を飲んで騒ぎ、きたるべき時がくれば、就活をする、という与えられた人生のコースだと感じたのは2年目の大学祭の時だ。

ギターを壁や床に叩きつけ、マイクでシャウトをして、ヘドバンをする。周りの熱気と興奮に触発されて、若さゆえにそのエネルギーを爆発されながら、先輩のライブに参戦していた。少し疲れたので、後方に下がり水を一口飲んだ・・・。

自分という人間を客席から俯瞰すると、急に怖くなった。「みんな」が入っているからサークルに入り、「みんな」がしているからヘドバンをし、「みんな」がしているから就活をする。全ての基準が自分の周りにあった。僕という人間は「みんな」によって作られていた。

「みんな」と「自分」

ケネス・J・ガーゲンの『関係からはじまる』の中では、アイデンティティに関する人々の共有された誤謬が指摘されている。それは、アイデンティティは人の内にあり、固定化されたものだという考えだ。ガーゲンいわく、アイデンティティは他者との交流の中でその都度顔を覗かせる。言い換えると、アイデンティティはカテゴリーだ。

A: 酒好き、音楽好き、バンドサークル所属、ロン毛
B: 英文学科、読書好き、映画鑑賞好き、内気

AとBはどちらも大学生の頃の僕。同じ人物でも、別のカテゴリーで表象することで、全く異なる印象を与える。アイデンティティは、内在するものではなく、流動性があり、他者・環境によって形作られる。

だから自分が違和感を抱く「みんな」から距離を置き、新たな「みんな」を模索すれば新たな「自分」が表出する。

とは当時の僕は考えてはいなかっただろう。でも漠然とした「こうではない」と言う感覚を頼りにサークルを辞めた。

「直感」と進むべき道

ちょうどその頃にスティーブ・ジョブズが死んだ。マックユーザーだったのに、ジョブズのことについては知らなかった。書店に行くと山積みの自伝書があった。どうやらスタンフォード大学でのスピーチが有名らしい。早速YouTube を開く。

And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.
(そして一番重要なこと、それは自分の心と直感に従う勇気を持つことです。それらは真に自分がなりたいものを既に知っているのです。それ以外のことは二の次です。) (筆者訳) 

Retrieved from https://news.stanford.edu/stories/2005/06/youve-got-find-love-jobs-says) 

一般的に、"stay hungry, stay foolish" が取り上げられることが多いが、僕に刺さったのは「心と直感が既に知っている」の部分だ。さて、自分は知っているのだろうか。考えた。中学生の時にアメリカに滞在したことをきっかけに英語には興味があった。その伏線で、英文科にも入った。うん、まあ今のところ英語系か。

「好きなこと」に没頭

僕の英語力はお世辞にも高いとは言えなかった。1回生の頃に受けたTOEICのスコアは550点程度。英会話もあまりできなかったが、発音だけはエセ帰国子女風に気取っていた。いわゆる二十歳前後の根拠のない自信というやつだ。でも英語が好きだった。

本を読むのは苦ではなかったので、高校生の時に何度も読んだ村上春樹の『ノルウェイの森』の英語版を読むところからスタートした。ここから僕の本格的な英語学習が始まった。

よく古典や名作を読みなさい、とか言われるが、何よりも大切なのは「好きな」作品を読み進めることだ。持続性を意識して多読に取り組んだ。

好きな読書から、文法・会話・映画 (ドラマ) 鑑賞・TOEICなどの資格勉強へと英語学習の幅を広げながら、着実に英語力の向上を目指して奮闘した。人付き合いなどを無視して、自分の好きなことに集中した。でも好きな子は、僕のことを好きになってはくれなかった。

就活とお別れする「本」との出会い

そんな中で、英語学の授業をとった。英語の教職科目の一つで、特に興味あって受講したわけではない。そこで出会った1冊の本が、就活との距離を確実に引き離した。

Deignan, A. (2005). Metaphor and corpus linguistics. John Benjamins Publishing. 

めたふぁー?こーぱす?訳もわからず授業を受ける。説明を聞いてもよくわからないが、どうやら「めたふぁー」は人の思考を考える上で必要らしい。なんか、おもろそう。

どうせ英語の勉強するなら、この分野 (認知言語学) をもう少し勉強したいと思ったので、関連書を日本語で (当時は英語が読めなかった) 読み漁るうちに、大学院進学を考えるようになった。修士課程に行けば、教員免許も専修免許になるし、企業にも英語系で就職できる可能性があると単純に考えた。ロッキーのテーマソングを聞きながら、山の中をジョギングして未来像を思い描いた。

院試の勉強と疎外感

「みんな」は就活。僕は図書館で一人で勉強。自分の異質感を嫌でも感じた。その異質感を肯定するかのように、僕は髪と髭を伸ばした。「自分」はもう「みんな」とは違う。

最初はその特異性に特権を感じている部分はあった。人と違うことをしている自分をかっこいいとさえ感じた。もちろん、そんな勘違い野郎に彼女はできない。図書館でいちゃつくカップルに死線を投げ飛ばし、股間を押し殺して孤独の中で院試の勉強をした。バイト数を減らしたため、手持ちのお金があまりなかった。実家から2つおにぎりを持っていき、朝から晩まで図書館に籠った。

一人で違う道を選択するときに一番困るのは、情報交換する友人が一人もいないことだ。共感してくれる人もいない。一瞬、「みんな」側に行こうか、という誘惑が頭によぎる。そんな時は、ジョブズの言葉を思い出して、シャーペンで点線を描いた。繋がれ、点線。

修士課程に進む

僕は関西圏の国立大学の大学院に合格した。奇跡だと思った。大学生の頃の孤独な勉強のおかげて、その頃の英語力はTOEIC800点台に達し、専門分野の文献もまずまず読める?くらいにはなっているつもりだった。

その幻想が崩壊するのに時間はかからなかった。周りが圧倒的に賢すぎた。特に内部進学組は、大学受験までに培った幅広い教養をバックボーンに議論を展開する。かたや1年ちょっと図書館に籠っただけの凡人。まあ、お前らどうせ専門バカで、英語力なんかないやろ。え、TOEIC満点、英検1級、また学会発表・・・。

英語力・研究力・教養、全てのフィールドで完敗した。プライドもズタズタになり、勉強する気力も奪われていった。軽い鬱状態になり、家族にも心配されるようになった。それでもなんとか自分の決めた道だと言い聞かせ、研究テーマに関する文献を読み、授業準備をする生活を送った。夜のバイトの後は、コンビニで酒を買いタバコを吸ってちっぽけな自分を慰めた。

院進学後の「みんな」と「自分」

1年が経とうとしていた。修士課程では、2年目に修士論文を完成させて、審査に合格するば修士号が与えられる。そろそろ本格的にデータを集めて、書き始めないといけない。焦燥感と将来の不安がどっと肩にのしかかる。修士論文を書くのはいいが、その後どうする。修士の2年目から高校の非常勤講師を始めたが、手取りで7万円。

そんな中、久々に「みんな」に会う。ボーナス、彼女、婚約。聞いたこともない、聞きたくもない嫌な語彙だ。大学生の頃「みんな」を蔑み全てを手放した僕は、惨めでださく、社会人と比較すればするほど自信を喪失していった。院の中でも劣等生だった僕は、自身の価値を見失っていった。「みんな」と「自分」を自ら切り離しておきながら、「後悔」という字が頭にチラつき始めた・・・。やばい・・・。

中編へと続く。















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