自学自習の極意 #1
「自学自習の極意(斎藤 孝 著)」を読んで
はじめに
これからは自学自習の時代である。とのこと、インターネットという広大な情報の海から好き放題に拾うことができる。ということは、誰がいつ何を勉強していてもおかしくないわけである。どれだけうまく自学自習を行うかで、あなたの人生色々変わってくるわけよ。
ネット上の情報は取捨選択が必要であり、その力をあなたが持っているとは限らない。だからこそ、読書するというのも乙なものでは?
序章
1.自学自習の時代
「勉強は学校でするもの」という感覚はもう終わったに近い。らしい。
僕はそうは思いませんけど。逆に家は勉強するべき場所ではないと思っている。家は休んだり遊んだりする場所。学校は勉強する場所。そうやって分けることで学校にいる間はモチベーションの維持ができるわけだし、やる気があれば家でもやって。これでよいではないか。
2.オンライン授業
授業がオンラインになった。これも大きい出来事である。某感染症の影響で対面で授業をすることが難しくなり、わが校も遠隔で授業を行った。
むずい。いやほんと家で勉強とか(笑)。そういう訓練は受けてねーんだ。家で勉強しないために中3のころに毎日塾に5時間くらい行ってたんだぞ。授業入ってないのに。冬になって塾の先生から「せめて週3にしてくんない?(笑)」って言われたくらいさ。
大事なのは真摯に向き合うこと。画面の向こうの先生に。
3.孔子の言葉
不憤不啓。不悱不発。不以三隅反則不復也
非常に簡単に言うと、情熱も意欲もない者には何も教え導くことはない。自分の考えを表現できずに悩まないようでは何も教え導くことはない。1つ教えて、残り3つを自分でひらめくようでなければ、もう二度と教えることはしない。
はて、現代の学校という場に意欲がある人間がどれだけ存在しているか疑問ではあるが、ここでは不問としよう。
ここで重要なのは昔の学問は学ぶ側の意欲が何より大事だったってこと。
あと挨拶は禅語だったんだって。
4.最大の原動力は興味
どこかのノートで話をしたと思うが、僕は興味を偽造して今まであらゆることを行ってきた。やはり、この偽造は意味あることだったのだ。
これに関して最近気づいたことがある。僕は去年、本物の興味というものを味わっていた。そう。創造工学だ。ロボット作りこそ僕の興味、意欲関心の矛先だったのだ。異常なまでの執着を見せた私。やったことは全部頭に入ったし、新しい情報のインプットも異常な効率だった。
これもあって、学習の最大の原動力が興味というのはよくわかる。
今も頭の中はロボットでいっぱいだ。天然の興味の前で養殖は霞むというか、他のことが手につかない。去年と一緒だ。
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