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「エドワード・ホッパーとその憂鬱」│短編

素敵な本を読むと自分でも文章が書きたくなる衝動に駆られることがある。
良い物語は焚き火のように僕の想像力を掻き立てるし、良い文章は泉のように僕の書くべき言葉を沸き立たせた。でもそれらは別々の場所で勝手に行われる事象であって、全くもって僕の中で整合の取れないそれぞれの活動として生まれては消えることが多々だった。

僕は今読んでいる本にきちんと栞を挟み、机の上にそっと置いた。そのあと、本の角度が机と平行になるように本の端と端を微調整をしてきれいに整えた。
僕はパソコンを開き文章入力ソフトを立ち上げて、間接照明の明かりだけの薄暗い部屋の中に電光する白い画面を見つめた。別々に想起された想像力と言葉を使って、僕はこれから僕の思う通りの物語をここに綴る。この瞬間はいつも少しだけ誇らしい。

小説の書きはじめには僕の中で2つのパターンがある。
1つ目は、タイトルを決めてそれを軸に文章を書きはじめるパターン。2つ目は、良いと思った文章を決めてそれを目指して書きはじめるパターン。僕はどちらかというと後者が好きだった。

強い言葉はその周りに多くの言葉を持っている。僕はそれを見える形に繋げているだけ、のようなそんな感覚が後者にはあった。
だが今回は前者を選んだ。なぜなら僕の泉から特に書きたくなるような強い言葉が湧き出てこなかったからだ。

ある程度考えを巡らせたのち、タイトルを決めた。
 タイトル:「エドワード・ホッパーとその憂鬱」

なんて陳腐なタイトルだろう。でもタイトルが情けないことと話が退屈なことはイコールじゃないはずだ。それに画家の名前が入っているタイトルなんて山ほどあるし、加えて憂鬱という言葉は過去に純文学できっと重宝されていたに違いないはずだ。

僕は先程抱いた第一印象を改め、中々ウィットの効いた柔軟性のある可用な文だという気持ちに心替えをした。

エドワード・ホッパーは1882年にニューヨーク州のナイアックという場所で生まれた。裕福な家庭で秀才が育って素晴らしい画家になった。それだけだ。きっと苦難も挫折もあったのだろうが、それだけだ。

ホッパーは憂鬱だったに違いない。
ホッパーの作品でナイトホークスという絵がある。夜中のダイナーの中には三人の客と一人の店員がいて、それをただ大きな店のガラス越しから少し離れて覗いているだけを描いた作品だ。
無機質なダイナーから漏れた明かりは外を照らしていて、なぜかその光のせいでよりダイナーの侘しさが増している。中の三人と一人が灰色な顔をしてどこか虚ろにそれぞれの場所を見ている。

なんて鬱屈な作品だろう。これを憂鬱と呼ばないで何といえばいいのだろう。この作品には理論を超えた憂鬱がある。ホッパーほどそれを知るものはいないだろう。

僕はキーボードに「エドワード・ホッパーとその憂鬱」という文字を打ち込んだ。電光の白いキャンパスには、黒いシミのような文字列が表示され滲んでいた。外に出してみるとタイトルはとても退屈そうだった。だがそれだけだ。

“外ではセミがとても騒がしく鳴いていた。まるで夏が過ぎてもわたしを忘れないでと叫んでいるみたいだった。
夏風が窓の隙間から部屋へと吹き込んで来るのを感じる。生暖かくて不愉快な温湿を含む空気が体に当たって気持ち悪かった。
椅子に座ると、その接着部が蒸れ、湿った衣服が私の体温をその部分だけ奪っていった。居心地の悪さを感じた私は立ち上がり、ひらひらと風でなびくカーテンを掴んで横に押しやった。
外には無機質なダイナーから漏れた光が街路を照らしていた。それはこの場所には似つかわしくなかったが、私にはぴったりだった。
街は灯りを落とし完全に活動を停止している。人々は静まり返り、それぞれの家でそれぞのことをしている。私は今もこれまでもこれからも途方もなく一人だった。
憂鬱は独りの一単位であり、この街と私を繋ぐ等号でもあった。そしてそれらは明瞭な形を持って一軒のひそかなダイナーとして形而上的に、あるいは幾何学的に僕の前に...…”

と、ここまで書いてやはりくだらないと思い、書くのをやめた。

僕は本の続きを開き、エドワード・ホッパーのことは忘れて途中だった物語にまた意識を集中させようとしたが、妙にさっきまで書いていた話が気になってしまう。それは頭の中にしこりができたみ僕の読書の妨げとなった。

自分で書いたとはいえ、ナイトホークスには確かな憂鬱性が感じられる。
だけどそれは言葉にするべきことではないだろうし、ましてやいち素人の感想なんて点で当てにならないはずだ。だとしたら、一体憂鬱とは何なだろうか。本当に憂鬱は独りの一単位なのだうか。

外では蝉の声が聞こえていた。窓の先には、どこからか漏れ出た明かりが外を照らしていた。僕は本を閉じ、パソコンの電源を切った。そして本に栞を挟むのを忘れて、パソコンの文章入力ソフトを保存をし忘れたことに気づく。

だが、どちらも些細なことだと思った。もう少ししたら今日は過ぎ去っていき、明日がきちんとやってくる。ホッパーの絵のように僕がここに留まることはおそらくないだろうし、明日がまた一人であっても、僕はそれを憂鬱だと思わない。

少し夜風に当たってから寝ようと思い、外に出た。幽かな夜の匂いがした。ここは一体どこなのだろうか。知っているようで、やはり知らないような景色が目の前に広がっている。
静まり返った夜がこの街を哲学に変えていた。

ここは一体どこなのだろうか?

街路を照らす一軒のダイナーの上を見上げると、看板らしきものにこう書かれていた。

“Only5¢ PHILLIES America No.1”

ただそれだけだった。

Mr.羊



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