加害者の視点からいじめを考えたい
まずはじめに。
私はいじめ被害者だ。
高校の入学式を終え、登校日初日からいじめに遭った。
お弁当の時間には私以外の女子クラスメイト全員で輪を作られ、私は一人でお弁当を食べた。
男子クラスメイトからは「〇〇(私)は死ね!」と大声で間接的に悪口を言われ続けた。
学園祭では何の役割も与えられず、クラスのステージショーの内容を知ったのは前日リハーサルの時。
そのうちに保健室登校になり、転校先の高校で完全に不登校になって2度の留年と転校を経験。
大学も休学し、25歳でようやく大学を卒業した。
……ということを講演や県内メディアで言い続けてきた。
しかしそのたびに私の中で、ある違和感がつきまとう。
「私は悲劇のヒロインなのか?聖人君子なのか?」
私だってたくさんの人を傷つけてきた。
SNSで感情的になり、自分が正しいと思うことを盲信して、心ない言葉をぶつけてしまった経験が幾度となくある。
実際、いじめや不登校についての講演を終えた後、SNSに「お前が言う資格はない」と書かれた。
知らない人の書き込みだったので、ショックは受けたが無視した。
しかし私が被害者の立場からいじめ抑止を訴えるたび、もう一人の私が問いかけてくる。
「じゃあ、あんたはどうなの?」と。
私は最近、いじめを行った側の視点からいじめ問題について考えるようになった。
いじめを受けた側の立場から当時の様子や現状を訴えることはもちろん必要だ。
しかしいじめを行った側の立場を考えればどうだろうか。
加害者からすれば、ターゲットが傷ついて人生どん底まで落ちることは願ったり叶ったりだ。
なぜならそれを目的にいじめを行っているのだから。
相手の傷つく気持ちに思いを馳せれば、そもそもいじめなどという行為には及ばない。
いじめを抑止するためには、いじめを受けた側の視点だけでは不十分なのだ。
私は転校前、いじめの主犯格の男子生徒と面談したことがある。
「なんで私をいじめたの?」
そう聞いたところ彼はうつむいたまま、しかしはっきりとした口調でこう言った。
「いじめやすそうだったから」
あまりにシンプルすぎる理由に、開いた口が塞がらなかった。
そんな単純な理由で一年間も、そして教室に行けなくなるまで私をいじめたのか、と。
しかしその単純な理由には深い闇も感じた。
いじめやすそうだったからいじめる。
どういう思考をしているのだろうか。
彼と私は同じ学習塾に通っており、私がいじめによるストレスで体調が悪化して塾を辞める際、母が塾の先生に辞める理由と私の現状を伝えた。
先生は「そうか……。△△高校でいじめが起きているって聞いたけど、それが〇〇(私)さんだったのか……」と頭を抱えたという。
先生の話によると、加害者の彼は5人兄弟の真ん中で家庭環境が良くなく、中学の頃から同じクラスの女子生徒を執拗にいじめていたという。
母からそれを聞いた時、私は「そんなの私をいじめる理由にはならないよ」と言った。
当時の私からすれば確かにそうだったかもしれないが、今になってみると彼の生まれ育った環境には興味がある。
同情はしない。
ただ何が彼をいじめという行為へ突き動かしたのか、それを知りたいのだ。
いじめ問題で真っ先にカウンセリングや治療を受けるのは、いつもいじめを受けた側と決まっている。
しかし最も治療を受けるべきなのは、いじめを行った側だ。
埋められない寂しさ。
強烈な劣等感。
歪んだ認知。
今考えると、いじめを行った加害者にはそのような側面があると感じる。
自分より弱い者をいじめることで優越感に浸り「気持ち悪い奴をクラスから追い出した」という正義感によって自分を肯定する。
クラスメイトも加担すれば仲間意識も芽生える。
そのような異常な精神状態こそ、カウンセリング等で治療すべきなのだ。
私のいじめ抑止のアプローチも見直す必要がある。
被害者の視点だけで「いじめは絶対に駄目」と言い続けるだけでは説得力に乏しい。
私は聖人君子などではなく、他人を傷つけた人間だ。
私も他の人がいじめられていたら、自分に火の粉がかからないよう見て見ぬふりをしていたかもしれない。
そう考えると、誰だって被害者にもなるし加害者にもなる。
だからこそ加害者の立場に立って考えを巡らせることも必要なのだ。
いじめ問題は対岸の火事などではなく、あなたの目の前で起こること。
またはあなたが今起こしていること。
その時、あなたはみんなといじめを行うのか。
見て見ぬふりをするのか。
信頼できる大人に伝えるのか。
この選択により被害者の、そして何より自分の未来がどのように変化するのかを伝えたい。
加えて、いじめの根本原因はいじめを行った側にある。
私は「いじめはいじめる方が100%悪い」といつも言っているが、ならばいじめる側に働きかけることが何より大切だ。
加害者の心の歪みや隙間をなくすための医療的なケアも必要だろうし、行政や教育機関も適切に動いてほしい。
私はいじめ抑止に動いているが、正直に言うといじめは絶対になくならないものだと思っている。
いじめは加害者の異常な精神状態のもと行われるため、どうしても異常な事態だと受け取られがちだ。
学校側としては面子のために隠したい気持ちもあるだろう(私のいじめも学校側によって事実上もみ消された)。
しかし何度も言うが、いじめはなくならないもの。
人間の心に歪みや隙間がある限り、いじめが起こるのは自然なことなのだ。
学校側もその意識を持ってほしい。
いじめを隠すのではなく、むしろ積極的に認知してほしい。
そして教育委員会もいじめを認知した学校には前向きに対応してほしい。
「わが校はいじめゼロ」ほど胡散臭い言葉はない。
いじめを受けた側はとかく聖人君子だと見られがちだ。
しかしいじめを受けた側も行った側も「人間」であることには変わりない。
いじめを受けた側が人を傷つけることも、いじめを行った側が人から傷つけられることもある。
被害者と加害者は表裏一体。
だからこそ被害者視点のみでいじめ問題を考えることを、私はもう終わりにしたい。
私も人から傷つけられ、人を傷つけた一人の人間であることに変わりないのだから。