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スタジアムの隣人を愛しなさい~隣の座席から始まる物語~

 観客席はTwitterの世界だ。
 近くに座った人の名前や職業、バックグラウンドはわからない。
 匿名性が高いゆえに非常識な行動もできるし、罵詈雑言も吐ける。
 善人を装ったとしても、時間の経過や咄嗟の行動で、その人の本来の姿がにじみ出てくる。

 そのようなリアルTwitter世界で、私たちはサッカーを見ている。
 正直な話、近くの人の攻撃的なリアルツイートに辟易することもある。
 しかし毎試合憂鬱な気持ちになってはいない。試合結果に関係なく、心が温かくなることもあるのだ。
 匿名性が高いからこそ良いこともしやすくなるし、お互い心を通わせることもできる。

 今回は私が近くの座席で見た人間模様や私自身の心のあり方を、3篇のエッセイとして書いた。
 どのストーリーもコロナ禍前、ヴァンフォーレ甲府のホームゲーム、メインスタンドで起きたことだ。
 隣の座席から始まる物語。楽しんでいただければ嬉しい。

ビールの滝のち晴れ

 その日はビールが美味しい日だったに違いない。
 6月下旬の梅雨の晴れ間。2席後ろの中年男性が美味しそうにビールを飲んでいる。
 私はノンアルコール梅酒で酔うほどの下戸なので、その幸せそうな様子が何とも羨ましかった。
 男性は足元にビールが入ったコップを置き、隣にいる妻らしき中年女性と話しながら、座席の下に置いてある鞄から何かを取り出そうとした。
 その瞬間、コップに男性の足が触れ、コップが倒れた。
「あー!」
 コップから流れ出たビールは座席の段差を伝い、滝のように下の座席へと落ちていく。
 男性の前の座席には幸い誰の荷物もなかったが、その前の座席にいる私や父、私たちの隣に座っていた若い男性は慌てて立ち上がり、座席の下に置いてある荷物を持ち上げる。
「すみませんー!」
 夫婦は慌てて鞄からティッシュを取り出し、私たちのもとへ駆け寄ってきた。
 私たちの足元は流れ出たビールでびしょびしょになっており、私はティッシュを何枚も取り出して足元にばらまき、父は持参していた白いタオルを自分のショルダーバッグから取り出した。
 しかし父の手を、隣にいた若い男性が止めた。
「そんな綺麗なタオル、使うことないですよ」
 父は思わず「ええ?」と聞き返す。
「こんな時のために、使う必要ないです」
 若い男性は冷静な口調で繰り返した。男性本人はティッシュをばらまきながら、ひたすら父がタオルを使うことを止める。しかし足元に溜まるビールは、たかがティッシュ数枚で吸い取れる量ではない。
 ビールを流した中年夫婦も困惑しており、私も思わず男性の顔を見る。その顔は冷静を通り越して、冷徹にすら思えた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
 父は一喝し、躊躇なく白いタオルをビールで濡れるアスファルトに押し付けた。タオルは足元の水分を一気に吸い上げ、みるみるうちに黄ばんでいく。
 父は流れ出たビールを、そのタオルですべて綺麗に拭き上げた。ビールで黄ばみ、アスファルトの砂利がついたタオルが何だか誇らしく見えた。
「これに入れてください!」
 ビールを流した男性の妻が、白いビニール袋を父に差し出す。
 父は「どうもどうも」と夫婦を咎めることもなく、それを受け取って濡れたタオルやティッシュを入れて袋の口を縛った。
 若い男性はばつが悪そうに、その場から去っていった。

「本当にすみませんでしたっ!」
 ビールを流した男性が、私と父に頭を下げて謝る。
「いやあ、大丈夫です。困った時はお互い様ですよ」
 父は笑顔でそう返し、私も「大丈夫ですよ」と言う。
 男性はぺこぺこと頭を下げつつ、安堵した表情も見せた。そして何か思い出したようにその場を離れ、コンコースへの階段を下りていった。
 しばらくすると男性が私たちの前に戻ってきた。手にはヴァンフォーレ甲府の新品のタオルマフラーを持っていた。
「あの……本当にすみませんでした。これ、受け取ってください」
 濡らした白いタオルの代わりとして、男性がわざわざタオルマフラーを購入してきたことに気づいた父は「そんなそんな、申し訳ない!」と手を横に振る。
「いやでも、本当に申し訳なくて……」
 男性が困り果てたような表情を見せると、父は受け取り「ありがとうございます。本当に申し訳ない」と頭を下げた。
 男性が安心した表情で二つ後ろの席に戻った後、父は「じゃあ、ちょっと一服行ってくるから」と言って席を立った。
 いつもなら「いい加減、煙草やめなよ」と言う私だが、この時ばかりは「行ってらっしゃい」と送り出した。頑固で理屈っぽく常に煙草臭い父が、妙にカッコ良く見えた。
「あ、あのー……」
 父が席を立った後、男性が私に話しかけてきた。
 男性は申し訳なさそうな表情で、言うか言うまいか迷っていたが、意を決してこう尋ねてきた。
「ビール……買ってきていいですか?」
 私は笑顔でこう返す。
「もちろん! 暑いですから、飲んでください!」
「ありがとうございます!」

 6月下旬の梅雨の晴れ間。手元にある新品のタオルマフラーと、幸せそうにビールを飲む男性を見て、私の心も晴れやかになった。

食べかけのじゃがバターと清流と

ここからは有料公開とさせていただきます。

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