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「そんなことをしてどうするの?」子どもにとって「遊び」とは何か
昨年は「子どもの権利条約」が国連で採択されて30年の節目でした。
その第31条では「子どもの遊ぶ権利の保障」が次のように定められています。
第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
2.締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。
子どもたちに「子どもの権利」の話をすると一番ウケるのは、間違いなくこの「遊ぶ権利」です。いっぽう、大人たちはなかなかその意義を得心できないようです。
「そんなことをしてどうするの?」
大人たちは、どうしてもそう思ってします。しかし、そう周囲に思わせてこそ「遊び」です。
「遊び」が「遊び」たるゆえんは、遊んでいる本人たちにしか分かりません。遊びのさなか、体が感じる興奮以外に、その問いに対する答えはないのです。
大人たちは生きていかなければいけません。そして遊ぶことで生きていくことはできません。遊びを「余暇のもの」、つまり生活の余剰分と位置付けたくなるのもわかります。
しかし少なくとも子どもの「遊び」は、大人が逃れられない「生産的/非生産的」という枠組みの"外"で捉えられるべきものでしょう。
経済活動の外で成長する子どもにとって、ある意味では、何ごとも「遊び」なのです。
人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と捉える人もいます。そして、そのように「遊び」を人間の本質とするならいっそう、「何ごとも遊べる」という子どもの「超能力」を貴ぶべきでしょう。
これは単なる言葉遊びではなく、少しでも子どもと遊んでもらう(遊ぶ、ではなく)経験をすれば、容易に実感されることです。
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虐待などの逆境的な生い立ちから、成人して以降、その代償を埋め合わせるように依存症(アディクション)へと至る場合があります。そして、そうした人たちに困難なことのひとつが「遊び」のようです(つまり、ギャンブルや恋愛関係であれ、嗜癖である限りそれらは「遊び」の対極です)。
自分の「楽しい」という気持ちに気付いて、その気持ちを大切にできなければ遊べない――。「遊び」が健全な発達に欠かせないという発達心理学からの示唆も、当然というべきかもしれません。
ところがそれほど大事なことでありながら、「遊びとはこれこれ」と「遊び」を定義することはできません。遊ばなければいけない遊びは、もはや「遊び」ではありえないからです。
とはいえ、子どもが一番よく知っていることですが、ルールのない遊びもまた「遊び」ではありえません。
ならば「遊び」とは、ルールに支えられた自由を、いまこの瞬間に感じる面白さを頼りに発見していくことなのでしょう。
「遊ぶ権利」とは、「自由な主体としていまを生きる権利」に他ならないのです。
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