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【番外編】創世記の「善悪の知識の木」と人の選択について

黙示録では諸々の災い――しかも「想定外!」と防災責任者の方々が口を揃えて言いそうな甚大な災禍――が描かれます。この災いに関連して、神様の裁き、人の選択と責任(必ずしも個々人に帰せられないのは確か)といったことを、しばしば考えます。もちろん、今私が初めて考え出したものではなく、聖書の記された時代にもすでに色々と示唆されている・・・ ということは、その前からもずっと思索されてきたこと! いつか私もそれらについても何か記すかもしれませんが、それに関連して(少なくとも私の中では)、標題について以下に記します。読み込みかなぁと思ったりするのですが、今一度、この場で共有させていただきます。 

結論を先にお伝えした方が良いという一般論に沿って、まず結論: 
神様は、人に、ご自身の造られた非の打ちどころのない祝福の世界に永遠にあるか、いのちを失ってもその他のあり方を志向するか、選択を委ねられた。「善悪の知識の木」はその選択を象徴する。
(何を今さら当り前のことを・・・ と思った方々も、できたらもう少しおつき合いいただければ幸いです。できれば、間を飛ばして、太字部分で記される箇所まで! それでも、今さらでしたら、ごめんなさい~ )

創世記の最初には、神様がこの世界とその中にある生き物、そして人を創造された様が記されています。

神様は、ご自身の言葉をもって、すべてを創造されました。そのすべての段階が「良し」とされるもので(1:4, 10 12, 18, 21, 25, 31)、全体として秩序、均衡、調和すべてがそろって、それこそ完全なものでした。(7日間の創造については、様々な見解があるでしょうが、ここでは保留です。ひとまず、1~3日と4~6日を対照すると、舞台に例えて言うなら、順序立てて場面設定がなされた上で、見合った配役が順番になされたという感じでしょうか。植物は場面の一部で、天体は役なのか!? というご指摘はお収めくださいませ。そこは私も??? ) 空間と時を整えられ、いよいよ生き物を創造するにあたっては、祝福を注がれます(1:22, 28; 2:3)。

その最後を飾るのが、人の創造でした(1:26-31)。
神様は、ご自身の「かたち」に人を創造されました(1:26, 27)。この「かたち」が意味するところも、深く掘り下げることもできるでしょうが、ここでは割愛させていただき、簡単に、神様との繋がり、交わり、関係を持ち、その能力に与るものだと。神様は、すべて言葉によって創造されたことから、人もまた言葉を駆使し、想像力を働かせて、被造世界に関与することができるとも言えるでしょう。(言葉は確かにすごい‼ 言葉があって初めて数を数えることもできれば、時を刻み、歴史を語ることもできるのだから。とまあ、これまた際限なく続けられる話になるので、やめ!) そして、このご自身のかたちに創造された人に、神様は、他の(それ以前に創造された)被造物、引いては被造世界の統治を委ねられました(1:26, 28)。(善悪の知識の実をとって食べた後の私たちには、この「統治」という言葉に、対象の益を顧みない高圧的な支配を連想するかもしれません。現に、私自身、他者に統治されるとなったら、良い気はしません。けれども、神様の代理として、神様がなさるように、全体の秩序、均衡、調和、そのたあらゆる良さの中で、それぞれの祝福を最適化して、対象の益のためにとすべてを采配、執行してもらえるのであれば、決して悪くない・・・ 少なくとも、どこぞの独裁者の支配、または、それぞれ自分の言い分の主張の上での多数決による統治よりは、良いように思われます。)そして、そんな人を創造され、人に統治を任された上で、被造世界と被造物のすべてをご覧になって、「極めて良かった」と宣言されました(1:31)。(それまでの「良し」に加えて、至上性を示す言葉が添えられています。)

その上で、創造の業の最後(第7日)には、すべての完成が宣言され、安息の祝福と聖別をなさいました(2:1-3)。ちょっと先取りすると、「安息日」を守るのは、善悪を見損ない、あくせく労するようになった人が(3:17-19)、神様の贖いに回復され、再び神様の定めに沿って歩む中で、与えられる週毎に、神様にある全体像、その中の自ら、また自らに託されたものごとを改めて捉え、受けとめ、神様の者として歩み続けるためでもあるのでしょう。

以上が第1の創造物語(1:1-2:3)。2:4以降、第2の創造物語(2:4-24)が続きます。(この二重性については、様々な議論が挙げられていることもあり、とりあえずここでは割愛します。)(なお、この第2の物語の冒頭の「次第」という言葉は、創世記の続きでは、5:1のアダム、6:9のノア、10:1のノアの息子、11:10のセム、11:27のテラ、25:12のイシュマエル、25:19のイサク、36:1, 9のエサウ、37:2のヤコブについて「系図」または「歴史」と訳されている言葉で、救済史を綴る鍵となるものです。)

第1の創造物語では、神様とその言葉の圧倒的な業が焦点であったのに対し、第2の創造物語では、神様が擬人的に描かれ、被造世界の中の人とその関係性に焦点が置かれます。ここで描かれる神様と人との親しい関係性(鼻に命の息を吹き込むなど)については言い尽くせないほどです。が、今回のお題に挙げた「善悪の知識の木」へと話を進めます。

まず、この木を、エデンの園の他の木々と比べた時に言えることとして:

  • 2:9 あらゆる木が「見るからに好ましく、食べるのによさそう」だった。

  • 2:9 園の中央には、この木と並んで「命の木」があった。

  • 2:16-17 神様は人に「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」と命じられた。

【余談】神様が人に命じられた時には、人は独りで、「ふさわしい助け手」はいなかった(2:18)。女が人の「ふさわしい助け手」として、人から造られるのは、この命じられた後のことなのでした(2:18-24)。あぁ、またこの女の創造についても、色々と言いたいことが・・・ ひとまず2点のみ:
(1)この「助け手」という言葉("Ezer")は、いわゆる「助手」のような補佐、補助する者という意味ではない。この言葉が他で使用されるのは、申命記33:7(主が敵からの「助け」となるようにとのユダの祈り); 詩篇89:20(or 19 で主がダビデに与えると約束された「助け」); その他ではイザヤ30:5; ダニエル11:34のみ。女が創造されたのは、人が独りでは不可能なあり様を改め、神の似姿にふさわしくあれるよう助ける者としてでした! 
(2)創世記の創造物語では、最終に向かうほどにより良いものが創造されているとしたら・・・ 結論はお任せです! 

さて、この善悪の知識の木の「善」という言葉です。実は、先の創造での「良し」「良かった」という言葉と同じ「トーブ」という言葉。「善悪」と聞くと、どうしても道徳、倫理的な良さを想定してしまうものですが、善悪の知識の木は、神様の命令を聞く聞かないに限定されるのではなく、神様に帰するすべての善きものを受け入れるかどうかの試金石でしょう。

先の創造物語の「良」を「善」と読み替えて味わっていただけると良いのかなと思います。神様が作られた世界は、善の他なし、すべて善きものが溢れんばかりに満ちていたのでした。そして、至上の「善」として創造されたのが人でした。その人は、本来であれば、神様と親しく交わり、無尽蔵の祝福を受けて、その善き世界と被造物を享受し、増え拡がり、すべての被造物と被造世界に祝福をもたらすはずでした。(閉ざされた世界で、有限の資源を争奪する必要はなかったのです。今の私たちには、想像すら難しいことでしょう・・・ 少なくとも私には。)しかし、それはあくまで神様の創造された「善」にあり、その「善き」世界にとどまってのこと。

至上の「善」として、すべての「善」を享受、共有、還元すべき人に、神様はご自身に相当する選択――被造世界/被造物を規定する「善」に拠り、「善」を際限なく、永遠に享受するか、あるいは、「善」に非ざるもの(すなわち「悪」)を取り込むか――をも委ねられたのでした。そして、後者の選択には(「善」の統合性が失われるが故に、致し方ないことでしょう)永遠の命はあり得ず、死が必然となるという警告も与えられていました。

創世記の3章には、人がどのような選択をしたのか、神様の命令と警告を無視し(忘れ?)、善悪の知識の木の実を取って食べる、つまり、善のみの世界を放棄し、善にそぐわない悪を取り込むという悲しい選択、そしてその疎外(の始まり)が記されています。

以下では、改めて、善悪の知識の木の実を取って食べてしまった経緯と結果について、私なりのポイント(と自戒、反省)をツラツラ挙げたいなと思います。この「堕落」の話をどこかですでに聞かれた方は、もう耳タコでしょうから、適当にお立ち去りください。(もはや、このノートの件名からも逸脱。トーンがかなり変わりますが、とりあえず、このまま >< )

<蛇/サタンの功名な虚偽と誘惑>

  • 蛇の女への声がけ: 蛇は、夫へではなく、女に声をかけたのでした。神様から直接命じられていた夫であれば、一顧だにしない、聞く耳をもたない、あるいは聞いたとしても、神様の命じられたことと比較するなど、別の対応となったでしょうか。(夫は、蛇にも名付けていた(2:19-20; cf. 3:1)、つまり、蛇の狡猾さも知っていたことでしょうから。)
     蛇は、夫が妻から与えられたらイチコロだと分かっていたのかもしれません。何せ、妻は夫にとって「私の骨の骨、肉の肉」と歌い上げるほどに尊く慕わしく思われた存在で、夫と妻は一体、隔てるものは何もなくお互いに羞恥も何もなかったのですから(2:23-25)。

  • 蛇の神様へのチャレンジ: 「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」(3:1): この「本当に?」という言葉には、神様とその際限のない「善さ」や祝福への疑念、チャレンジが含まれるよう。本当にそんなことあり得るのか!? と。(この言葉は「鼻」や「顔」と同じ言葉。神様が人に命の息を吹き込まれた(2:7)まさにその鼻をへし折るような言葉に聞こえてしまいます。読み込みかなぁ。) この「本当に?」に続くのは、ケチ臭い神様像。「そんなことはない!」と思わず反論したくなるようなイメージです。そんなこと言うなんて、ひどい! と動揺さえしたことでしょうか? ここでスルーすれば良かったのに、女は、夫に相談するまでもない・・・ と思ってしまったのかも? 蛇は、初めは甘~く、警戒させないよう、うまくやりとりに乗ってくるように誘うものかもしれない。

  • 女の誤解(蛇への反論): 「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない。死んではいけないからと、神は言われたのです。」(3:2-3): 蛇のケチ臭い神様のイメージに引っ張られたのでしょうか。「園の中央にある木」と限定が外れている上に(命の木は食べても大丈夫だったのに)、「触れてもいけない」なんて追加が! 動揺してしまうと、事の厳密さが揺らいで、どうでもよいことに厳しく制限をかけて、自らの首を絞めること・・・ 逆に、絶対ダメなことは、まぁ大丈夫かなと緩く思ってしまうこと・・・ ままあるなぁと思わされます。

  • 蛇の虚偽: 「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」(3:4-5): 神様の警告に真っ向から反対する言葉。でも、この「神のように善悪を知る者となること」こそが「死ぬこと」だということ! ただ、蛇がどこまで分かって、こう言ったのかなと思ったりします。ひょっとしたら、蛇もこの「善悪を知る」ということの重みを分かっていなくて、神様はご自分と並ぶことを許さないケチ臭い存在だと思ってたのかな? と思ったり。食べてもとりあえず即死するのではないとは知っていたのだろうし・・・ と、蛇の思考を追っても仕方ないのですが。 

  • 幻想: 善悪の知識の木(のみ)が、「食べるのに良く、目には美しく、また賢くなるというその木は好ましく思われた。」: 蛇とやりとりを交わしていると、誘惑に囚われ、視野がおかしくなるのかもしれません。そもそも、どの木も「食べるのによく、目には美しかった」のに、その木だけが! と思ってしまったよう。そして、「善悪を知る」=「賢くなる」というすり替え!? 本当の賢さなど、考えることもなかったみたい。確かに、私自身、誘惑の中で(と認識できていないことも多いのですが)、特定のものごとに執着してしまうことはままあり。他にもたくさんの選択肢、可能性があるのに、こうでないとダメ、これさえあれば幸せになれるとか、思い込んでしまう・・・ と分かっても、切り換えられないのが難しいところ。そのような渦中にあっては、何が賢いか、正しいかもグラグラになりがちな者です。

  • 女の選択、夫の選択: 取って食べた妻。夫は「一緒にいた」とあるけれど、いつ/どこから一緒だったのだろう? 何をどこまで分かっていた、共有していたのだろう? 夫も妻から色々聞いて、食べたくなっていたのかな? それとも、妻が言うから、特に気にせず食べたのかな? 
    いずれにしても、妻から差し出された木の実を食べてしまったのでした。食べる前に、お互いで話をしたり、何より神様に聞いてみたり、という選択肢があれば良かったのになぁ、とは思うものの、それは当事者じゃないから言えることなのでしょう。

<選択の結果>

  • 目が開かれた(3:7): 何をもって「開かれた」というのか・・・ 神様に造られた者として、神様の覆いを通して、神様の造られた世界、ものごとを見ていることができたら! そんな覆いがなくなって「開かれた」目は、すぐに、羞恥とか恐怖とか軽蔑とか嫌悪とか、別の覆いがかかったようだ。イエス様により、神様の目を通して、見直すことができたら! 

  • 最初の知識(自分たちが裸であること)といちじくの葉の覆い(3:8): そもそも互いに裸であって、互いに恥ずかしいとは思わなかった(2:25)という幸いにあったのに! 神様の覆いが取り除かれ、自分自身の(視野の狭い、限られた)目でみるようになると、自分はそれはもう不完全、足りない・・・ と恥を覚えるようになったということでしょう。もはや覆い(繕うこと)なしには、共にいれない世界! 
     そんな悪の入り込んだ世界で生きるのに、いちじくの葉の覆いで十分だと思ってしまうなんて・・・ 知らぬが仏! そんなものでは不十分で、神様は「皮の衣」を作って着せてくださることに(3:20)。ここにも、私たちが知らない、分かっていない中に、先行する恩寵を覚えます。とりあえずとその場凌ぎで何とか取り繕う私たちを、あわれみの覆いをもって、守り育んでくださることが示唆されているようです。(再びエデンに住まうようになるには、小羊の血の贖い、そして白い衣が必要で、神様はその備えも、御子イエス様を通して、備えて整えてくださいました! 今も、その招きの内にある幸いに感謝しつつ。) 

  • 神様の顔を避け、身を隠す~恐怖(3:8, 10): 何とか互いを取り繕った二人でしたが、神様を前に、疎外、また、それまでになかった恐怖が襲います。神様は、御旨に背いた人を、なお探し求めてくださいます。けれど、人は神様を恐れるようになりました。ただし、何が悪かったか、自身では認識できず、的外れな恐怖心。(裸であるから怖くなったって、いやいや、そもそも裸だったことは問題なかったでしょう!? そうじゃなくて・・・ と、他人事であれる時は、言えちゃいます。) 犯した罪を理解できず、その結果としての羞恥心から怖じ惑い、隠れてしまう。私にもよくあってしまうことだなぁと思わされます。そして、思い浮かぶイザヤ書の言葉:

見よ、主の手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて聞こえないのでもない。
ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て
あなたがたの罪が御顔を隠し、聞こえないようにしている。

イザヤ59:1-2
  • 責任転嫁: 神様から罪を指摘された人は、夫も妻も責任転嫁! しかも、夫は、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と親しみ愛おしんでいたはずの妻を、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻」と距離を置きます。そして「その妻が・・・」と言って、自身が食べたことの責任を、妻また神様にも転嫁しようとするのです(3:12)。妻は妻で「蛇が・・・」と(3:13)。いずれも、自分の罪を悪かったと認め、悔い改めようとはしません。このことも「悪」を自らに取り込んだ結果でしょうか。

  • 祝福から呪いへ: 蛇への呪い(3:14-15)に続き、女(3:16)、人(3:17-19)それぞれに罪の結果が宣言されます。まさにそれぞれが創造された特性(賜物)に、苦痛がともなうことになってしまったことが記されています。
     女は、そもそも人が独りでいるのは良くないため、人を助ける者として創造されました。神様の関係性を人が分かち合うために、交わりの相手として創造されたのでした。それが、夫を求めるのに、夫に治められるようになると。(この「求める」と「治める」は、いずれも、4:7で罪がカインを求め、カインは罪を治めなければならないのと同じ言葉。つまり、これらの文脈では、「求める」とは、神様そっちのけで自分に向かせ、自分の思うように動かそうとすることを言い、「治める」とは、対象の意図や意向はお構いなしに制御することを言う。ちなみに、この「治める」は、神様が人を創造した時に委ねられた統治とは別の言葉。) 夫との交わりこそが、女の役割/召しであったのに、それが争いとなるという悲しい現実。しかも、祝福のはずの身ごもりが、大きな苦しみをともなうものになったという。
     一方、人はというと、祝福をもって地に満ち、従わせるはずであったのに、その地が呪われた結果、ひたすら労苦し、ついには土に帰る他なくなりました。

  • エデンと命の木からの疎外(3:22-24): そんな人が永遠に生きるようになれば、すべての被造世界/被造物に当初の「善」が失われ、祝福ではなく呪いが拡がり、最終的には人自らも悪に傾き染まることでしょう。それは、ある意味では、死よりも悲しい世界かもしれません。だからでしょう、神様は命の木のあるエデンから人を追放してしまいました。人は、永遠を志向しつつ、さ迷い歩くことになったのです。

  • その後(4章~ ): エデンを追われた人は、自身と神様、またお互いに味わった疎外を、子どもたちに見ることになります。それも、殺人というかたちで(カインとアベル)。そして、呪いはその辛辣さを増幅させていくことになるのです(レメクの復讐)。さらに時代が進むと、取り返しのつかないほどの悪が蔓延るようになり、創造の御業を覆す大洪水に至りました(ノア)。その裁きを経ても、人の神様へのチャレンジは止むことはなく、自らの分を超えて天に届こう、地に祝福をもたらすよりも散らされることのないよう強大になろうと志向します(たとえ、他の人々を虐げたとしても!)(バベルの塔)。(まさに、黙示録の大バビロンの原型をここに見るのです。)

そんな悲しく、厳しい選択の結果ですが、神様の恩寵はすでに示唆されています。(1)蛇への宣告の中での女の子孫の勝利の約束(3:15)には、(「原福音」と言われる)後のイエス・キリストの蛇に対する勝利が示唆されています。また、(2)善に代わって悪が取り込まれ、祝福に代わって呪いの拡がるこの世界で生き延び、命を引き継いでいくために、必要な「皮の衣」を与えてくださるのです(3:20)。これもまた、イエス・キリストの覆いを予め示唆するものと受けとめられます。(3)命の祝福は、セツ、ノア、そしてアブラハムへと引き継がれ、最終的に神様の御子であるイエス・キリストによって死が克服され、人に贖い・救いがもたらされました。

「悪」を取り込んで命を受け継ぐ人には、到底、まったき「善」を回復することなどできません。悲しいかな、人は皆、罪をもって生を受け、罪と呪いの渦巻く世での営みを余儀なくされ、そうして死ぬ他なし。そこに逃れの道はありません。そこに、ご介入くださったのがキリスト・イエス。イエス様は、まったき「善」なる人として、人の中に宿ってくださり(まるで、民の間で神の臨在を可能とした幕屋のように!)、人の罪、人を虜にしていた「悪」を、その身に負って死んでくださいました。そして、そのご復活により、新しい創造が始まったのです。イエス様を信じる者たち、自分の命でなくイエス様の命を選択する者たちが、「悪」ではなく「善」を志向するようになるためです。(もちろん、日々の営みでは、「悪」に傾き、時には陥ることがあるとしても!) たとえ「善」と「悪」が分からずとも、イエス・キリストを第一にしていれば(生きるも死ぬもキリスト!としていれば)、必ずや、主の御霊が選択を導いてくださると! 様々な試練や苦難を通して、その選択に生きる者たちに備えられる新天新地においては、それ故、「善悪の知識の木」はもはやない、「命の木」があるのみ(しかも複数、たくさん?)! 

そして、永遠に贖いを受け、癒しを受け続け、再び神様の下で/神様と共に、「善」の世界を祝福で満たしていく・・・ まさに想定外、人知を超える世界!! と、かな~り先走りました。そんな世界に、お互いを見出せたら良いなと願います。

<最後に: 詩篇23篇の最後>
ここまでくると、さすがに読み込みが過ぎるとお叱りを受けるかもしれませんが・・・ 詩篇23編の最後は次のように締め括られます。

命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう、日の続く限り。

詩篇23:6

この「恵み」と訳される言葉は、ヘブル語では、創造物語の「善」と同じ「トーブ」。一方、「慈しみ」は「ヘセド」という神様の変わることのない契約への忠誠、真実を表す言葉。そして、この「追う」という言葉は、出エジプトで、エジプトの王がイスラエルの民をしつこく追い迫った際にも使われるもの。つまり、主を羊飼いとするならば、神様が創造の初めから描かれていた「善」をもって、しかも、神様ご自身の真実をもって、私たちを追い求めて、失われることのないようにとらえてくださるという。そんな主に応えて、日の続くかぎり、主の家、御国を仰ぎつつ、羊飼いなる主とともにある選択ができたら・・・ と祈り願います。

後半は、「善悪の知識の木」からは逸れてしまいましたが、とりあえずこのまま投稿してしまいます! 必要な「善」が、読んでくださった方々に、もたらされますようにとの祈りを込めて。




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