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【クリエBOX席】ミュージカルファンレター


本日もお疲れ様です。

「ファンレター」との出逢い


「さよなら。私の光、私の悪夢。」


初めてそのポスターを見た時、韓国発のミュージカルだということ以外に私の中に生まれた感情は複雑だった。

メインビジュアル発表前のポスター


1つは、「アナスタシア」で劇場に心を置いてきてしまうくらいの感動やときめきを教えてもらった海宝直人さん、木下晴香さんの歌をまた1つの作品で聴くことができる…!という喜びと高揚感✨


そしてもう1つは、母国の歴史を知ることに対して、作品に込められたメッセージを日本人として生きる私がどう受け取れるか、感性の未熟さへの不安。


現地からの「日本人に理解ができるのか」という批判も、「ファンレター」が日本人に訴えるメッセージの受け取り方が様々になることも理解できる。


日本には、原爆ドームや広島平和記念資料館、特攻資料館など、戦争の被害の記録が目に見える場所に多く残っている。日本が負った戦争の傷に触れる機会は多い一方で、高校までの授業内容を振り返っても、私自身も含め、日本で生活をしていると見えない加害の側面を深く理解している人々が多いとは思えないからだ。


だからこそ少しでも、創り手の意図を、想いをそのまま形崩さずに受け取りたいと思った。


米国留学をしていた際、多くの大人たちが、自分の国の歴史を自身の言葉で表現することができることに驚いた。平和を願う言葉の中には、自分の国がもたらした影響や他の国との関係性が踏まえられ、だから「戦争は反対だ」というように。


国籍やルーツが異なるため、もちろん個人の意見や内容は異なるけれど、子供たちがなぜ?と聞いた時にもきちんと答えていたのを見て私は大人になった時に自分が生きてきた日本を誰かに伝えられるだろうか?と焦りを感じた。そして本当の意味で歴史を学ぶことや、生まれ育った母国に誇りを持つ意味を教わった。その時から、私の机の上には歴史の本も増えている。


この作品をきっかけとして学んだこともたくさんある。でも、今年の春に「この世界の片隅に」を観劇した後の心が温かいあの感覚や、感動した記憶とはまた異なる戦争の姿があった。


2つの戦争を作品の中で生きている海宝直人さん。どれほどの覚悟や、ご経験、努力、ご本人のアイデンティティとは別に北条周作、チョン・セフンとしてそれぞれ生きる強さや葛藤があっただろうか…ミュージカルが好きなただの大学生の私に想像できる範囲ではもちろん足りないに決まっている。


俳優さんの「演じる」こと、「表現する」ことがいかに歴史を紡ぐ過程において素晴らしいお仕事かを考えさせられた。それと同時に、多くのストーリーに感情移入をしがちな私には、初めての重たい苦しさを味わった作品との出逢いとなった。


BOX席


チケットを購入する際、珍しい席が残っていた。BOX席という、両サイドからステージ見下ろすような、関係者しか座れないと思っていた席。俳優さんたちの表情、舞台の演出も良く見える席。シアタークリエに来場経験のある皆様、私よりも観劇歴が長い先輩方は御存じの方が多いだろう。「ファンレター」は全席指定で、S席、A席のように席の分割はなかったため、次いつ座れるかわからないこのBOX席を購入することにした。


私が座ったのはステージに向かって下手(左側)のBOX席L1-1だ。同じBOX席でも左右差や高低差は生じるかと思うが、メリットと(あえて挙げるのであれば)デメリットに分けて書こうと思う。もしBOX席での観劇を検討する方がいれば参考になれば嬉しい😌


【メリット】


・想像以上の俳優さんたちの近さ
とにかく俳優さんの表情を見たい方には特におすすめ!オペラグラスなしにも十分見える◎


・シーン移行の裏側を見れる
個人的には舞台にスクリーンが下りる演出の後ろで、次のシーンのスタンバイの様子が見えたり、舞台から俳優さんたちが出入りする様子を見ることができたりしたのは良かった。


・ストーリーに集中できる
前後に人がいないので、自分の視界に存分に集中できる(1人で座った際、左右に人がいる場合は配慮が必要になるが、2人でBOX席に座る、あるいは1人で貸し切りの場合は個室で観ているのかと思うほど周りが気にならない)


・圧倒的な特別感💐
普段とは違う観劇になるので、特にお気に入りの作品の観劇や、好きな俳優さんの出演がある時にはぜひ!


【デメリット】

あえて挙げるとするのであれば!


・斜めにステージを見ることになる
ステージ全体をまんべんなく見たい方には向かないのかもしれない。私の座った席からは下手側ぎりぎりは見えずらいところがあった。横に人が座っていなければ、少し体の向きを変えるだけで視界良好。それができるのはBOX席だけかも🤔


・安全のためにカーテンコールを含めて立つのもNG

心からのスタンディングオベーションで出演者に感動を伝えたい方には向かない席だ。


・場合によっては背中を見る回数が多い俳優さんがいる
上手から入ってくる俳優さんのお顔は良く見えるけれど、自分が座っている方から入ってくる場合は背中になるので、この人が見たい!という俳優さんがいる場合は注意が必要かもしれない⚠️

語源は定かではありませんが、「身分の高い役を向かって右に。逆に身分の低い役は左に。」というのがお芝居の約束事となり、上手・下手という言葉が出来たそうです。

シアターリーグより

確かに冒頭のシーンを思い出してみると、セフン(海宝直人さん)はユン(木内健人さん)とは学生と作家の関係。セフンが左側に、ユンが右側にいたのも納得できる気が💡


この作品は、出演者が7人のみのため、舞台を大きく7人が動いている印象だった。正面からは見えないような、次の場所に移動する途中に涙をぬぐう仕草や、舞台から見えなくなるまで姿勢を崩した役のままの俳優さん達を見ることができる。そして背中でも演技しているのが十分に伝わってくるので、物足りなさは一切感じなかった。(素晴らしいとしか言えません。)


・席の手すりと俳優さんのお顔が被ってしまうことがある
「全て」を見逃したくない!という方は気をつけた方が良いかもしれない。


セフンとヒカル


終始海宝さん演じるセフンの涙はとても美しく、切なく、その心の痛みや頬を伝う涙の理由である複雑な感情が溢れていた。ずっとと言っていいほど、泣いていたセフン。そんな彼が見せる笑顔はその時の気持ちがくみ取れるほどに種類があって、前半のコミカルな場面での「真面目でふざけたりしなさそうな人がボケる」からこそ面白いあの感じ、尊敬する先生たちと働く嬉しさがにじみ出るお辞儀の仕方や視線の送り方、これまで生きてきた彼そのものを物語る猫背やぎゅっと握りしめ続ける手、泣いても泣いても誰かの前では涙をぬぐい続ける姿。目に焼き付けるとはこういうことか、と自分で納得するほど全部覚えている。


特に好きな楽曲は「涙があふれる」という、セフンが1番好きな作家であるへジン(浦井健治さん)と出逢ってからの日々を歌うナンバー。どこかに「この世界の片隅に」の周作さんが歌う「言葉にできない」の雰囲気が見え隠れしているようにも見えた。客席からセフンと一緒に心を躍らせて、海宝さんの役の消化力、演技力の凄さに改めて圧巻👏


木下晴香さん演じるヒカルは、どこまで変貌していくのかその狂気っぷりに終始目が離せない。ヒカルは、セフンの中にあるもう1人の自分であるはずなのに、本当に同じ人かと疑ってしまうほど👀でもセフンの紡ぐ言葉を同じように口を動かしているのを見ると、確かにセフンなんだと思わされる。木下さんのあの伸びやかな歌と、どんな役を演じていても体や声に役が馴染んでいる上に、常に華麗な佇まいや、彼女から滲み出ている温かい人柄が大好きなのだ。


結核により命の炎が消えかかるへジンを前に、執筆を迫るヒカル。セフンに「気は確かか?」と聞かれて、「あなたが望んだことよ」とヒカルが答える。「ペンまで奪わないでくれ!」と言ったへジンは、自分が愛したヒカルと共にペンを握り続けた最期を幸せに思えたのだろうか。セフンは、ヒカルは、それに満足していたのだろうか。


その後に歌われる「へジンの手紙」というナンバーで、「愛さずにはいられない」という詞がある。へジンはセフンのどこかにヒカルの面影を確かに感じていたことがその手紙に書かれていることがわかる。でも、いつからなのか、本当のことを知らないままでいたかったという気持ちが本音なのかは、やっぱりへジンにしかわからない。浦井健治さんの出演作は今回が初めての観劇だったのだが、パンフレットのお写真からは想像もつかないほど、へジンの魂そのものを見た気がした。


美しさ


楽曲は、記憶に残る耳に心地よいメロディーが連なっていた。ふと浮かぶと口ずさんでしまうような。韓国語は全く分からないけれど、YouTubeで現地の俳優さん達の歌唱を検索して聞いてみると、瞼の裏にすぐにシーンがよみがえる。


最大歌唱人数が7人だけでありながら、上から下までぴったりとはまるその音の重なりが、本当に美しくて仕方がなかった。歌われるシーンごとに、使用される楽器や曲の雰囲気は異なっているが、それでいても楽曲の最中だけはその世界が美しく見えてくる。


これまでは、「レ・ミゼラブル」や「モーツァルト!」など歴史に関係する作品であっても、原作や元々の内容を良く知っているものがほとんどだったため、歌が来るタイミングもわかっていれば、その曲自体の素晴らしさも自分なりに良く知っているものばかりだった。だから今回のようにストーリーと楽曲を何も知らない状態で観た作品は初めてだった。


逆に言うと、知らない作品を観に行くことが少なかった。映画館に行くときも映画のあらすじや予告動画は見てからでないとすっきりせず、ネタバレとかも割と平気なタイプだ。本当にそうなるのか?と確かめながら見たり、結果がわかっていることでそこにどうつながっていくかを楽しんでいることが多かった。ミュージカルもそうだったけれど、今後はもっと観劇の幅を広げていけたらと思った。わからない結末に出会う良さも知ることができた。


彼らに重ねて


セフンとヒカルのように、表裏一体ではなくとも、自分の内側に「本音」や「理想の姿」を抱いている人はきっとたくさんいると思う。近くにいるほど錯覚してしまったり、思い込んでしまったりと、人の素を見ようとするのは難しくも思える。同じように誰にでも自分の素を見せることも、簡単ではない。本当の姿や、自分自身の声はやっぱり自分にしかわからない。


セフンのように、敬愛する相手にだからこそ嘘を隠す葛藤がある気持ちもわかる気がする。1番身近な家族の愛を知ることなく育ったセフンにとって、ヘジン、つまり想いを寄せる人(恋心か、忠誠心なのかはストーリーでははっきり言及されていない)に落胆されるほど辛いものは他になかったのだろう。


果たして「ヒカル」が偽りの姿か、と言われるとセフンの一部であるため断言できないし、だからこそセフンが苦しんでいたはず。その曖昧さも、物語にとっては必要なピースであり、セフンとヒカル、セフンとヘジン、ヒカルとヘジンそれぞれの関係性に適切な名前が見つからない。


全てのストーリーを理解した上でも、光と悪夢のコントラストが入り混じりすぎて、誰の何が、誰にとっての何だったのかがいまだに解釈しきれていない部分がある。作品が伝えようとしているメッセージの中核がまだ霧の中にあるような、手の届かないようなもどかしさを感じている。


そして、最初から最後まで体中に力が入っているのを感じた。戦争や日本の統治時代である背景を忘れて気を抜いてしまったら、「苦しい時代」を生き抜いた優秀な作家とそれに憧れた作家志望の青年の美しい絆の物語で終わってしまうからだ。それだけではいけない、、


知らないことが多すぎる。知らなくてはいけないことが、もっと歴史の中にある。教科書の中以外にも、もっと知るべきことが。今の日本と韓国で言うと、エンタメを中心に文化の交流が盛んな人々の互いの印象を「ファンレター」の時代の人々が見聞きしたら何を思うのだろうか。日韓に限らず、戦争の先にある今の方が明るいと表現されるかもしれない。現にこのnoteや普段のLINEやDMでも、自由に言葉を選んで届けること、共有することができているのはなんて素晴らしい「当たり前」なのだろうか。


お菓子が詰められた箱から好きなものを選ぶのに時間がかかったり、楽しかったりするように、自分の箱にある言葉の量が多い作家たちは本来、それらを自由に選び取ることができる。けれど、その箱に大きな錘を乗せられたように自由のない執筆活動は、単に好きなことができないこと以上に苦しい毎日だったに違いない。


何と言っても、「ファンレター」の世界では母国語が使えない。1番馴染みのある表現の道具を奪われた彼らの声に今になって耳を傾けても遅いけれど、彼らが紡ぎ続けた言葉を知らないふりは出来ない。


何に光を見るか、どんな「春」を望むかに答えはない。歴史は変わらない。どんなに時が経っても、誰かが無かったことにしようとしても、忘れまいとする誰かが必ずいると思う。だから、簡単に言葉でまとめると無神経のような気もしてしまうし、逆に背を向けすぎてしまうとそれはそれで無責任な気がする。


とても勝手にではあるが、この作品と現在までの時間を埋めようと、陰と陽のぎりぎりを役で生きている俳優さん達に心を寄せると、すごくすごく苦しくなる。言葉を変えれば、それほどその世界に確かに生きている本物の人物に見えていたということ。彼らの心身が心配になるほどに。だからこそ、観る側にも受け取るばかりではなく、届けていただいたものについて考える責任があるとも思うから、私は知る努力をし続けたい✍️


この心の重たさを理解し、受け取ったものを正しく言葉にできるまで。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「ファンレター」
2024年9月24日 シアタークリエ

公式ホームページより


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