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日常がだいぶ穏やかになった。
私にある問題は、ほとんどないかのように思える。

でもまだ私の心に赦しが必要である証拠がたくさん知覚される。

状況に問題があると私に話してくる人がいる。
誰かに対する不満を私に話してくる人がいる。
問題が起きる。
なにかが故障して、予定通り事が運ばない事態が起きる。

一見私には関係がないことのように思えるけれど、
全部私が信じている罪悪感の現れだ。


愛されない証拠を次々の見つけている人。
お金に苦労する証拠を次々に見つけている人。
体に次々に不調が起きる人。


私の肉体の目は分離している証拠を知覚する。
私の知覚は私が私以外のすべてから分離していることを証明しようとしている。


赦しを続け心眼で見ることを願い、
イエスに助けを請い、聖霊になんでも打ち明けてきた。

それでも心眼で見るということがどういうことか、
今もまったくわかっていない。



なんか、それでいいような気がしている。



この世界にいる以上、私は肉体にいる。
肉体を持っている以上、私は分離を知覚する。
実在ではない肉体は幻想を知覚することしかできない。

幻想を知覚するから、
私は赦しの機会に気づく。

赦しの機会に気づくけれど、そのすべてに赦しをすることができない。
時間に追われていたり、他のことを考える必要に迫られていたり、なんとなく自分で消化するまえに過ぎ去っていったり。

赦しによって私が気づいていなかった抵抗が外れていったり、
受け入れがたかったことが受け入れられたり、
赦しを信頼しているのに、
それでもまだ赦しを見過ごしてしまったりしている。

赦しすら、できない。


私にできることなんてなにもない。
私に理解できる真実などなにもない。

この肉体を持ってこの世界にいるということは、
私は間違ったことを信じ込んでいるということ。
その証拠を知覚する。



ただ私は選択をする。

ちょっとでいいから赦しをすることを選択する。
私の赦しは世界の赦し。
私の赦しはみんなの赦し。
すべてはひとつだから。
だから毎回じゃなくて数回だったとしても、
私は赦しをすることを選択する。

気づいたことを聖霊に話すことを選択する。
わからないことはわからないと話すことを選択する。

わかろうとはしない。
だってわからない。

私がわからないことを聖霊はわかっている。
だからわかってないことに気づいたよと話すことを選択する。


きっと普段、これまでの自我の思考や知覚を選択していることが多いけれど、
自我の思考や知覚を選択していたよと気づいたとき、
聖霊に話す。

聖霊が私の狂った心を修正してくれている。
私が気づいたところを修正してくれている。


だから私は安心していられる。
すべてわかっている友がいつも一緒にいる。

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