往復するベビーカーと黄色い落ち葉一枚
その日は朝に出た霧がなかなか晴れず、いつもより遅い11時すぎに落ち葉掃きを始めた。
ポッドキャストを聴きながら道路沿いの葉を集めていると、30代前半というところだろうか、近所に住む男性が通りすぎた。手には黄色い落ち葉が一枚。
「あれ?……あ、あの人か」
すぐに彼だとはわからなかったのは、ひとりで歩いていたからである。
*
2年ほど前から、彼がわが家の前を通るときはいつもベビーカーと一緒だった。
古い農家の蔵だったところを改装してできた広い庭付きの感じのいいアパートの住人らしい。
数年前にオープンしたときには若いカップルが何組か入居していたのが、いまは小さなお子さんのいる家族が中心になっている。
庭の一角に家庭菜園ができ、ピザの窯が設置され、週末には共用のテラスで皆でわいわいやっているのを好ましく思っていた。
さて、その彼、夏の朝早くにも、暗い冬の午後にも、左手に持った携帯電話をじっと見ながら、右手でベビーカーを押して歩いていく。……そして戻ってくる。
そう、家の前の道を何度も通るのだった。
毎回ずっとその様子を見ているわけではないが、長いときは30分以上、そうして行ったり来たりを繰り返していた。
「押して歩いていく」と書いたが、正確には「押して行って、引いてバックで戻ってくる」のだった。おそらく、太陽の光がベビーカーの奥に差し込むのを避けるため、向きを変えずに往復しているのだろう。
ベビーカーの大きさからするとまだ月齢の低い赤ちゃんと思われたが、不思議なことにまったく声を聞いたことがない。
表情を変えずに携帯電話をずっと見つめ、静かなベビーカーを押して(引いて)行ったり来たりする様子は、少し不思議な光景にも見えた。
家の周りの様子などにはまったく無頓着な息子でさえ、1月にドイツに帰ってきてわりとすぐに、「ねえ、あの人いつもああやって行ったり来たりしてるけど」と訝しがったぐらいだ。
*
その男性がひとりで通りすぎてから10分ほど経ったころ、今度はふたりで戻ってきた。
一緒に帰ってきたのは2歳ぐらいの男の子。保育園からの帰りのようだった。もうベビーカーなしでお出かけができるようになったのか。
「ハロー」と声をかけると、小さく高い声で「ハロー」と返す。自分の背丈の半分ほどの高さに積み上がった黄色い枯れ葉の山をおそるおそる、でも興味深そうに覗き込む姿がかわいい。
「パパ」と呼ばれる彼も、笑顔で「ハロー」と返してくれた。笑っているところを見るのは初めてで、少し安心した。
お父さんと手をつなぐもう片方の小さな手にあったのは、さっきお父さんが持っていた黄色い葉っぱだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?