旅先でスーツを仕立てる|イスタンブール
待っていたトルコからの小包が届いた。
(またイスタンブール旅ログ番外編になってしまうことをお詫びします……)
届いたのは息子のスーツ。
ちょっとした御縁(出来心ともいう)で、イスタンブール滞在中、スーツを仕立てることになったのだ。
きょうはそのときの話を。
*
朝、夫と旧市街のホテル近くを散歩する。
小さな店がひしめく市場の路地から少し離れたところに、服地を置く店が並ぶ通りがあった。
ここには観光客はおらず、雑多な感じがあまりない。
大きなウィンドウから見える店内には、巻かれた布地が整然と並んでいる。10軒ほどあっただろうか、取り揃えられている色味からして、どの店もスーツに仕立てるための生地を置いているようだ。どれもとても美しい。
じつはその時間、息子はホテルの部屋からオンライン面接を受けていた。いわゆる就活で、それは最終面接だった。邪魔にならないよう、私たちは外に出ていたというわけだ。
「うまくいったらスーツを作るなんてどうかな」と、夫と話した。
最初は冗談のつもりだったが、考えてみればこういう店は近くにはなく、改めて店を調べて出向くことを考えると、これはいい機会ではないかと思い始めた。
スーツが必須な職種ではないようだし、すでに自分で調達した一着は持っているのだが、節目としてプレゼントするのもいいかもしれない。夫も結婚するときに作ってもらったスーツを今でも折々に着ている。
一年前はこうして息子も一緒にイスタンブールに来ることになるなど予想しておらず、そしておそらく、また遠くで暮らすことになるだろう。それも気持ちの動いた理由のひとつかもしれない。
さて、面接はうまくいき、よいお返事をいただいたようだ。(まだ「おめでとう」とはなっていないのですが……)
「いらないよ」という返事も予想したが、息子はそうは言わなかった。
それでは、と夕方、そのうちの一軒、小さくも感じのよさそうな店に入ってみた。
残念ながら、ここは生地の販売のみで仕立てはしていないとのこと。布だけ買ってもしょうがない。お礼を言って出ようとすると、「ちょっと待って」と、どこかに電話している。知り合いのテーラーに打診しているようだ。
思いのほかすぐに、Tシャツに白い7分丈のカジュアルなパンツという出で立ちのおじさま(テーラー)がやってきた。
こちらはトルコ語ゼロ、あちらは英語ゼロの環境の中、少しだけ英語の通じる生地屋の店主が奮闘してくれてありがたい。正直、意思疎通ができているのか不安だったが、10分ほどわーわーしたあと、とりあえず
①スーツであれば出来上がりまで1週間ほど
②ドイツまでトラッキングつきの郵便で送ることが可能
だけはわかった。
まずは生地を見せてもらう。
店の奥のほうにも広いスペースがあり、かなりのストックがあるようだ。暑がりな息子は、どちらかといえば春夏寄りの生地がいいと言う。
「よし、任せろ」といった雰囲気で店の奥へ消える店主。
こういう場合、日本の標準的な店なら「中の上」ぐらいのものから見せてくれるような気がするが、いそいそと持ってきたのはかなりよさそうなものだった。
出てきたのはこちら。
写真では色味が伝わらないが、赤みのないグレーがかった紺といえばいいか。
なぜか3人で「これ!」と一致してしまった。
しなやかなのに張りがあり、薄く軽い。
オーストラリアの羊毛をイタリアで織り上げたものだ。
せっかくなのだからもっといろいろ見せてもらってもよかったと思うが、意外とあれこれ吟味しても、それが必ずしも納得につながるとは限らない。
まずその場でざっと計測。
これを元に裁断から簡単な仮どめまで進めてくれるということで、次の日の11時に店の近くのテーラーのアトリエに出向くことになった。
さて、翌日。
アトリエは服地屋さんのすぐ近くのビルの3階にある一室だった。
そこには前日のテーラーさんと、よく似たもう一人がいた。お兄さんだろうな。
改めて挨拶を交わすと、「チャイはいかがですか?」と勧められる。まだ仮どめが終わっていないらしい。
ここはお言葉に甘えてチャイをいただくことにする。
と、どこかに電話。5分もしないうちに丸いお盆に金属の持ち手のついた鳥籠のようにぶら下げて持つトレイにのせてチャイが運ばれてきた。
街を歩いていると、このような「チャイ運び屋さん」をあちらこちらで見かける。
若干ぶっきらぼうな運び屋さんはローテーブルに並んでいる雑誌の上にチャイを無造作に置いていった。
袖口のしつけをかけ終えたころ、白シャツにスラックス姿の男性が現れる。通訳のために電話で呼ばれた知り合いらしい。
「この人たち、腕は確かです。兄弟なんですよ。そっくりでしょう?」とテーラーさんたちをからかう。(知ってた)
いよいよ仮縫いとなったが、息子氏、長袖Tシャツで来てしまっていた。せっかくドイツから白シャツも持ってきている(面接のためスーツ一式持参していた)のだから着て行ったほうがいいと言ったのに。
やはりシャツの上からのほうがいい、ということで、ホテルに取りに行ったほうがいいかな、と考えたが、そうする前にそれは思わぬ方法で解決された。
テーラー(兄)さんが、自分の着ていた白シャツを脱いで、「これを着て」と息子の肩をぽんぽんとたたいた。銀座のテーラーでは絶対に起こり得ない貴重な体験だ。
いくつかデザインのポイントを確認し、終了。
テーラーさんおふたりと通訳さん、夫と息子5人で記念撮影をしてアトリエを後にした。
*
こちらが届いたスーツ。
内ポケットは大小計5つもついていた。すべてを使うことはないだろうが、なんだかお得感がある。笑
ズボンの丈や幅、フォルムも古臭くはなく、かといって今風の細く短いものでもなく、とてもいい感じだ。わりとアバウトな計測だったが、ぴったりに仕上がっているのはさすがプロだ。
羊毛の中でも極細の繊維を使って織られた生地ということで、軽く柔らかいのと引き換えにシワになりやすいという欠点もあるかもしれないが、それを含めてうまく付き合っていくのもまた意味のあることのように思う。
先ほどふれたように、新しい職は待遇の面でまだ折衝中でこの先どのように進むかわからないが、いずれにしても区切りとしてよいはなむけになったのではないかと思っている。