ベラルーシ語版 Wikipedia で群馬県が Гуму になっていた
発端
ある方が Twitter(現 X)で,「群馬県をベラルーシ語で Гуму という」ことについて疑問を呈されていた。
ご覧になったのはベラルーシ語版 Wikipedia で群馬県について短く記述された「Гуму」という項目。
Гуму はどう見てもグンマもしくはそれに近い発音ではないので変だと。
先に結論を書くと,どうもこの Wikipedia ページが間違っているようなのだが,そう考えるに至った経緯を書くことにする。
なお,私はベラルーシ語の学習経験は無い。近縁言語であるロシア語とウクライナ語については学習経験があり,ごくごく初歩的なことだけ分かる。
Гуму は何と読むのか
Wiktionary などの情報によると,ベラルーシ語の г は [g] や [ɣ] といった音を表すらしい。綴りと発音の関係はロシア語よりもずっと単純だ。
у は母音 [u],м は子音 [m] を表す。
Гуму 全体の発音は仮名で書けば「グム」といったところ。
グムはグンマの自然なベラルーシ語なのか
ベラルーシ語では重子音は無いらしく(?),例えば稚内は Вакканай ではなく Ваканай(ワカナイ)と綴るようだ。
したがって,グンマがグマになるだけであれば,これはベラルーシ語として自然な発音なのだろう。
しかし,なぜ語末がマでなくムなのか?
ベラルーシ語では外来固有名詞の母音が変化することもある。
アクセントの無いオはアのように発音されるので,たとえば北海道は Хакайда(ハカイダ)となる。
グンマのマもベラルーシ語の音韻規則によってムになるのだろうか?
そうではないようだ。
ベラルーシ語版 Wikipedia で日本の都道府県名がどのように綴られているかは下記のページで確認できる。
これを見ると,福島,埼玉,富山(タヤマ),和歌山,岡山(アカヤマ),徳島(タクシマ),鹿児島はすべて -ма(マ)で終わっている。
他のサイトではどうなのか
残念ながら,ベラルーシ語で群馬県について書かれたウェブ上の文書はかなり数が少ないようだ。
それでも,観光情報として言及される場合があると気づいた。
群馬県には草津(Кусацу)温泉があるじゃないか。
ベラルーシのトップレベルドメインは「by」なので,「site:by Кусацу」でウェブ検索すれば,ベラルーシ語で草津温泉について書かれたページがヒットするのではないか?
→当たり。
そうやって出てきたページを見ると,(見た範囲では)群馬は「Гумма」と綴られている。
発音はおそらくグマなのだろうが,綴り上は -мм- と м を二つ重ねている。
英語だってカマ(もしくはコマ)と発音する「,」を comma と綴るので似たようなものだ(知らんけど)。
Гум(м)а / Гуму の表記揺れがあるということなのか,あるいはひょっとして Wikipedia が間違っている可能性も? そんなことあるだろうか?
試しにベラルーシ語版 Wikipedia で検索窓に「прэфектура Гума」(群馬県)を入力すると,この「Гуму」にリダイレクトされるよう設定されている。
このことからも,単純なタイプミスとは思い難いのだ。
この Wikipedia ページの履歴を見る
そもそもこの Wikipedia ページはどうやってできたのだろうか。
ページの履歴はこの URL で確認できる:
ページが作られたのは 2013 年 9 月 27 日 09:55。
ログインせずにページを作っているので作成者のアカウント名は載っていない。ただ,IP アドレスは 178.124.25.147 と記録されている。
この方は日本語をご存知なのだろうか?
この IP アドレスの寄与はこの URL で確認できる:
これを見ると,数時間の間に十何件かの「Гу」で始まるページを新規作成していることが分かる。(「Новая старонка」は「新規ページ」の意味)
Гуму はそのうちの一つであり,他のページは日本に関係がない。
つまり,日本の地理に関心のある方が作成したページではなさそうなのだ。
そして奇妙なことに,この最初の版では,本文冒頭部では「Гума」と表記されている。
Wikipedia の仕様について私が誤解していなければ,ページ名は最初から「Гуму」だが,本文の冒頭では「Гума」と食い違っていたようだ。
これを修正したのが Maksim L. さん。2015 年 2 月 8 日に本文の「Гума」を「Гуму」に改めている。このとき Гуму という語について出典表示を付加している。
Гуму の出典
出典は
となっている。
これがどういう意味なのかはなかなか分からなかったが,ある方のツイートで直ちに解決した。
БЭ は Беларуская энцыклапедыя の略で,18 巻からなる冊子体の百科事典の名称。直訳すれば『ベラルーシ百科事典』みたいな感じ。
この事典についての Wikipedia ページ(ベラルーシ語版)はこちら:
このページには全巻の情報が載っている。
「у 18 т. Т.18」はおそらく「全 18 巻中の第 18 巻」。
т. は том(巻=volume)の略。у は前置詞。
このあと「кн.1.」とあるが,これは КНІГА I の略。第 18 巻は КНІГА I と КНІГА II の二分冊になっており,その第一分冊という意味だろうと思う。
КНІГА はふつう「本(書籍)」と訳される言葉だが。
最後の「С. 282.」は「第 282 ページ」の意。
С は старонка(ページ)の頭文字だろう。
これで出典が確定した。そこには何が書かれているのだろう?
出典を見る
さきほどのウェブページでは,各巻からリンクが張られている。どこに?
実はこの事典,中身が画像の形で公開されているのだ。
第 18 巻第一分冊 p. 282 は以下で見られる(レスポンスが遅いが気長に待とう)
上部のボタンで拡大できたりする。
ここは,「ЯПОНІЯ」(日本)という項目の中のページであった。
このページには日本地図が掲載されており,その中の左端に四角で囲んで全都道府県の名称が書かれている。
ここに,そう「8. Гуму」という表記があるのだ。
まとめると,ベラルーシ語版 Wikipedia で群馬県の表記が Гуму(グム)となっているのは,件の百科事典の記述に基づいていた,ということになる。
群馬を Гуму と書く理由はありそうにない。何らかの原因で百科事典が誤ったのだろうと思う。
再び,なぜ Гуму?
誤りだとして,なぜ百科事典は誤ったのか。
もちろん,単純な誤植+校正漏れ,という可能性もある。
しかし,もしかしたら言語特有の事情があるのかもしれない。
それは格変化だ。
ベラルーシ語を含む多くのスラヴ語は,名詞が格変化によって語形を変えるが,外来固有名詞も例外ではない(ただし,無変化の場合もある)。
ベラルーシ語はよく分からないのでウクライナ語を例にとると,大阪は Осака(オーサカ)と書くが,「大阪で」となると в Осаці(ヴォーサツィ)のように,前置詞 в が付くだけでなく単語自体が変化する。
「大阪へ」であれば в Осаку(ヴォーサク)となる。
ウクライナ語では,в のあとの名詞を「対格」と呼ばれる格にして行き先を表す。
ベラルーシ語で群馬が Гума(グマ)であったとして,これを対格にすると,おそらく Гуму(グム)になる。
だから,文章中では群馬(Гума)が「Гуму」と書かれていることがあるはず。
日本語・日本地理をよく知らないベラルーシ語話者がこれを見たときに,そのままの語形で(主格として)採用してしまう,ということはいかにもありそうではないか。
で,どうする?
おそらく誤りなので,このまま放置してよいとは思われない。
しかし,Wikipedia が誰でも編集できるとはいっても,ページの編集はかなり難度が高い。
Wikipedia ページには 「ノート」という議論のための場 があり,そこで指摘するのがよいのではないかと思う。Wikipedia のアカウントを作る必要があるが。
→ Гуму のページのノート(「ノート」はベラルーシ語で размовы というようだ)
「ノート」での使用言語について何か制限があるのかは分からなかった。ベラルーシ語がベストだが,英語も許容されるのではないかな(知らんけど)。
書くとしたら以下のようなことを書けばいいのではないかと思う。
このページで記述されている日本の県は,日本語では gumma と発音する。
したがって,ベラルーシ語が Гуму なのは不自然で,Гумма もしくは Гума が適切なのではないか。
Гуму は Беларуская энцыклапедыя 掲載の表から拾っているが,この表が誤っているように思われる。
さて,この任,私には無理です。どなたか……(他力本願寺)
群馬県には メディアプロモーション課 があるので,ここに訴えることも考えられるが,インバウンドに直接結びつかなさそうな話で動いてもらえるのかどうか……。
おわりに
この記事で書いたことは私が一人で調べたり考えたりしたことではなく,Twitter 上で何人かの方に教えていただいたことに多くを負っている。
お名前(ハンドル,アカウント名)を挙げるべきだが,ちょっと力尽きたので,割愛させてください。
以下の私のツイートからの返信や引用で辿れます。
https://twitter.com/lingvenko/status/1787335958393946222