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俺のFIRE漂流記⑤-1(お仕事小説)



工程5 奢れるもの、ひさしからず(前編)

1、点滅する信号

「係長―っ……かかりちょーうっ……どこっすかあー」
 夏川心介の間の伸びた呼び声が階上から聞こえてくる。ああ、早く戻らなきゃな。俺はスマホを尻ポケットにしまい、共用階段を駆け上がった。二階のホールで俺を探しに来た心介と鉢合わせした。
「あぁーいたー。斉木課長が呼んでます」
 心介はふうふう息をつきながら、ぴちぴちの作業ズボンではち切れそうな腰に両手を当てて俺を出迎えた。頭髪や衣服に切粉をつけたまま出てきたので、動くたびに辺りへ粉を撒き散らしている。まったく、こいつは何度注意しても直らねえな。出てくる前にはらってこいや。
「あっ、すみません…」
 なぜか急にビクッと反応して謝ってきた。何かぶつかりでもしたか?
まあいいや。とにかく2階のホールの先にある工事現場へ急いだ。

 今手掛けている工事はピアノ教室の改装工事だった。住居専門で商いをしてきたノマドランドでは異色の工事だ。というか、店舗系はほぼ経験がない。この話が俺の懇意にしている顧客の一人から紹介されて持ち上がった時、おやっさんは渋ったが俺はいい経験になると思って2つ返事で引き受け、おやっさんを説得した。部長は反対どころか、小躍りして喜んだのはいうまでもない。
 さらに、紹介の紹介という形で逆根回しをし、担当者には斉木課長を指名してもらった。だからこの大規模ピアノ教室改装工事の営業兼工事担当者はおやっさんだ。いつものように俺はその黒子として存在する。そう俺に仕向けられたと知ったおやっさんは、何ともいえない微妙な表情を浮かべていた。工事の売上額はかなりのものになる。俺はおやっさんの手柄にしてほしかったのだが、あまり嬉しそうにはみえなかった。
 出入口の既存ドアは先に撤去してあり、粉塵が共用部まで漏れるのを防ぐための、厚手で半透明の養生幕で覆ってある。その幕をめくって広間へ入っていった。奥行15mの広い空間は、間仕切り壁の造作中だ。防音対策も取らなければならないので、打ち合わせと指揮を取りながらの作業だった。取引先の大工集団が連携を取りながら、各々の持ち場で黙々と動いている。
「吾郎! どこ行っていた! 作業が止まるだろう!」
 おやっさんの大声が奥から上がった。心介がまた隣でビクッと肩を震わせている。
「すみません! 今行きます!」
 おやっさんは大工集団の親玉である末吉寅次と図面を広げて話し込んでいた。作業台や木材を避けながら来る俺を、二人は厳めしい目つきで睨み据えてきた。仕事に没頭している時のおやっさんの特徴だ。
「こわ……っ……射殺いころされる。係長ほどじゃないけど」
 背後で心介が呟いている。おまえ、丸鋸まるのこの音でかき消されて聞こえないと思っているんだろうが、俺は耳がいいんだよ。命拾いしたな。この二人を前にして、おまえにかまけている暇はないからな。呑気な心介は放っておいて、俺は素早く図面を一緒に覗き込んだ。
「今、ハシさんと話してたんだよ。吾郎ちゃんよ、俺の記憶が正しければ、最初に打ち合わせした時とパーティションの位置がずれてんだよな、この図面」
「えっ」
 慌てて指摘されたところを凝視した。……ほんとうだ。やばい、見落とした。
「すぐに確認します」
 このままだと消防法が通らず、えらいことになってしまう。
「間に合うのか?」
 端的におやっさんに問われた。俺は頷き、すぐに設計元である元請けへと電話をかけた。そんな俺をおやっさんはそれ以上追及せず、じっと注視しているようだった。
 最終図面を渡されたのは大工工事が始まる三日前だった。変更箇所がないか必ず確認をするのだが、変更があったのは設備や内装が主だったので、直前に迫った造作工事で今さら変更はあり得ないという思い込みからくる見落としだった。これまで若手三人組にあれほど言い聞かせてきたことをやってしまったという訳だ。
 設計の内容は、大空間に間仕切り壁とパーティションを組み合わせる間取りとしている。消防法により、教室やテナント、オフィスの場合、パーティションの設置形状によっては届け出が必要となる。その届け出はもう済ませてあり、この間審査が通ったばかりだった。無断の間取り変更はもちろん認められない。
 設計元の元請け担当者に確認したところ、オーナーから突如こんな風に変えてほしいと手書きのスケッチが送られてきて、言われるがままに図面を書き換えたのだという。もちろん、消防法が通る設計を考慮して。届け出と審査は完了したと報告はちゃんとしたはずなんだが……。こっそり変更になっていることに気づかずスルーしてしまった俺の落ち度ではあるし、それについては文句は言えない。
 俺は言葉選びに気を使い、粘り強く交渉と説得を重ね、間取りは当初の図面通りで行うという事で、最終的にオーナーとの約束を取り付けることに成功した。その間、1時間40分。工事変更で再度届け出をだし直し、承認をもらってからの工事再開となると、追加費用が嵩むという事実を盾に根気よく説明をし続けたのだ。その指摘を3日も経過してからしていることは、悪いがうやむやにさせてもらった。
 一連のやり取りと着地をおやっさんと大工の末吉さんに報告し、俺は内心冷や汗を拭っていた。脇にじっとりと汗も掻いている。とりあえず事なきを得て、大工の末吉さんは「さすが吾郎ちゃん、何とかしたな」と肩を叩いてくれたが、それは協力業者という間柄のよしみだ。俺は迷惑をかけたことを頭を下げて詫びた。おやっさんはひと言だけだった。
「吾郎、初心を忘れるなよ」
 静かな、いつものおやっさんの穏やかな口調。だが、その目つきは厳しい。その目を覗きこんで俺はひやりとし、姿勢を正した。何か見透かされているのではと思う何かがあった。
「ま、俺たちは今日でいったん引き上げるから、明後日から入るビルトインの奴らには、俺の方から説明しておくか? この図面を渡しちまってるからな。訂正図面来たら、すぐ送っといてくれよ」
 末吉さん方はかけ持ちで現場をこなしている。市近郊の新築現場へ、工期のスケジュール上、明日から三日間はどうしても詰めなければならくなった。そういった事情で、助っ人を頼んだのだ。一日空白ができてしまうが仕方がない。
 助っ人は大工繋がりのビルトイン工房という同業者で、二日間だけ入ってもらうことになった。末吉さんが自分自身で手配した応援だからそう言ってくれているが、ここは俺がしでかしたミスなので甘えるわけにはいかない。

「いえ、俺がきちんと届けて、渡辺さんに説明します。明日の朝までに図面がくるので、ここのも明日中に全部回収して張り替えておきますんで……。すんませんでした!」
「そうかい? じゃあ、頼んだよ。ちょうどその一画がビルトイン工房の持ち場だからな」
 もう一度頭を下げた俺の肩を、末吉さんはポンと叩いて持ち場へ戻っていった。
「あの……係長」
 切断する合板を運ぶ俺に、心介がおずおずと声をかけてきた。俺は肩越しに、見上げてくる丸い顔を見下ろした。
「あの……今の話、オレ他の奴らには絶対言いませんから」
 は? 何言ってんだ、こいつ。最初意味がよくわからなかった。ちょっと考えて、言わんとしていることを理解し、そして呆れた。
「別に話しても構わんけど」
「オレ、絶対言いませんから!」
 鼻の穴を膨らませて断言されてしまった。顔も心なしか紅潮している。
 一体どうしたんだ? 俺が口を開く前に、心介は何か頷きながら俺を追い越して、おやっさんの元へ行ってしまった。
 要するに、俺の失態を見てやる気が出たのかな。厳しくてやだなと思っていた上司も、自分と同じ血の通った人間だったのだとわかって安心したのかもしれない。たぶん、そんなところだろう。
 夏川心介を今回ここに参加させたのは、今後小さな住居だけではなく大規模工事を覚えてもらうためだ。まずは最初の一歩として、これもいい体験になってくれたのならそれでいい。ちょっと目論見とはずれてしまったけどな。
 そこでまたスマホの通知が鳴った。ああ、この売り、早く確定させなきゃならねえな。
 運んでいた合板を壁へ立てかけて、俺はまたサイトへアクセスする。時間がいくらあっても足りねえ。早くここを切り上げて、21時からの海外市場までにしておきたいことが山積みなのに。
余計なことに時間を取られている——。そんな、自分でもヒヤリとするような考えが頭をよぎり、慌てて打ち消した。

 
 その日の夜、モニターに映る為替相場の動きを見守り、もうずっと日課となっている株価や市場の動きを分析した。いつもならこの作業が楽しくて、ボロ雑巾のようにくたくたに疲れていようとも苦にならなかった。夜更けであっても、冴えわたる頭にはなんら支障もない。覚醒状態だ。
 支障があるとすれば、それは昼間の仕事だ。本末転倒の生活になってしまって3か月あまり。この日はさすがに画面の動きに集中できなかった。
 あの初心者のような失態。約二十年もこの仕事一本に従事してきた人間がするミスではない。大工の末吉さんとおやっさんの目にチラリと浮かんだ驚きと失望。あの光景を思い出すと、恥ずかしさでいたたまれなくなり、頭の中からすぐに追いやった。今はこの投資に全集中したいんだ。
 そして、また数秒も経たないうちに昼間の失態に思考が引き戻される。
仕事自体は好きだ。だが、今俺は金を増やすことが面白くて仕方がない。
完全に興味の振り子がこっち側へ振り切ってしまっている。やればやるほど、どんどん資産が膨らんでいっているのだ。ここで手を緩めれば、今乗っている流れを手放してしまいそうだった。もちろん、そんなことをするつもりは毛頭ない。誰が、全速力で駆けている馬の手綱を途中で離すというんだ? ゴールはもう目の前に見えてきているというのに。
 
 およそひと月前、俺はあの奇跡の個別銘柄で一気に2千万近くの利益を得た。2千万だぞ。こんなことってあるか? 俺は自分の勘の良さと幸運に打ち震えた。だがすぐに我に返り、冷静に考えた。急激な株価上昇はまたそう月日をおかず、みるみる下がるだろう。まだ粘れば上がるかもしれないが、俺は潮時と判断して全株を売った。売った金を更に別の投資資金とした。
 今度はFXに投資し始めたのだ。FXについては、ここ数か月間かけて加勢からじっくりと学んでいる。もっとも講義をしてもらっているというよりは、奴の武勇伝や自慢話を根掘り葉掘り聞きだして、俺が勝手に分析しているというだけだ。あとはそれとなくブックカフェのマスターに質問してみたり、本やネット情報で調べた。タダビトの会では、FXはあまり推奨されていないらしいから、俺も加勢と同じく表立って手を染めていることは伝えていない。こういう秘密主義なところは俺のよくない癖の一つだな。
 やっぱり短期トレードやFXは俺に合っているようだった。為替はドル円ペアとドルポンドペアの2種でスタートした。今のところ着々と成果を上げていっている。市場は日本時間で19時~翌4時くらいまでだから、大体21時くらいからモニターに張り付いている。だから慢性的に寝不足状態だった。
昼間の仕事に支障をきたしているというのはそういう事だ。あれほど好きだった仕事に興味を無くした上に睡眠不足となれば、さぞひどい働きぶりになっているだろう。わかっているがやめられなかった。これは完全なギャンブル中毒だ。俺は二十三の時から積み上げてきた信頼を粉々に壊そうとしていた。
 
 カタッと音がしたので反射的に振り返った。リビングの横の部屋を仕事部屋にしているのだが、戸口に柔道じゅどうが立っていた。柔道は振り返った俺の顔を見て、少し息を呑んだような表情をして、扉を閉めようとした。
「どうした?」
 引き留めるために声をかけたが、「別に。忙しそうだからいい」と呟いて再びドアを閉めてしまった。
 俺は浮遊していた意識をモニターに戻し、市場の世界に集中した。今日のニュースやSNSのチェックをし、ひと通り落ち着いたので、いったん仕事部屋を出た。0時を回っていた。
いつもこの時刻は、柔道はリビングにいる。姿が見えないのでリビングの奥にある部屋へ足を向けた。柔道はもう寝ているようっだった。そっとドアを開けて様子を確認する。もぞもぞと身動きしたので声をかけてみた。
「もう寝たのか?」
 少し待ったが返事がない。本当に寝たのか狸寝入りなのか。さっき仕事部屋に来た時、ちゃんと相手をしてやればよかった。少し後悔した。
 夏以来、柔道は落ち着いているように見える。きちんと学校も部活も、塾にも行っているし、時折ブックカフェに通い、相変わらず覇気はないが健康に過ごしている。ただ、凛々子への態度がますます反抗的になっているのが、気がかりといえば気がかりだ。
 そっとドアを閉めて、仕事部屋へ戻る。金の亡者になっているのはわかっている。俺は冷静だ。自分を見失って、今がどんな状況か客観的にみられなくなっているわけではない。
 今の会社でどんなに身を粉にして働いたところで、老後が安泰な暮らしなど望めるわけがないんだ。ますます金がかかる息子だっている。あいつが将来やりたいことを我慢させないために、金は絶対に必要なんだ。金がないから夢を諦める……やりたいと望むのに選ぶことすらできない。そんな悲しいことがあるか。柔道には絶対にそんな思いはさせたくない。そうさせてやれる力を、俺は間もなく手に入れようとしているのだ。
 金を求めて何が悪いのか。稼ぐ努力をしている自分に、俺は酔いしれている。俺は後ろめたさと自己嫌悪をすり替えて、自分の行いを正当化しだした。小さくなってしまった俺の良心が、心の片隅でたえず俺に囁き続けている。後ろめたさは何に対してだ? 吾郎。


2、信用って簡単に落ちるのな

 翌朝。社屋1階の奥にある資材庫へ、今日作業で使う工具やら消耗品を取りに向かった。廊下に話し声が少し漏れている。ドアをきちんと閉めていないので、隙間から覗かなくても、室内での会話が丸聞こえだった。会話の発信源は三羽烏だ。この資材庫がこいつらの憩いの場所になっているのは知っていたから、別に驚かなかった。フロアで話せないことをここで吐き出したいこともあるだろうさ。主に、仕事の不平・不満・文句・愚痴、そして上司の悪口だ。今日の話題はどうやら俺らしい。

「最近の係長はとにかく強引ですよ。毎日、無事現場終わらせるだけで手一杯なのに、在宅案件まで増やしてどんどん僕らに振ってくるなんて。もうえげつない量で、僕ら完全にキャパオーバーですよね」
 これは増田拓海だな。どんな状況・相手であっても、いつでもかつでも言いたいことをはっきり言うのがこいつの持ち味だ。
「俺はまだいけるけど」
 ぽつりと小声で呟いているのは、小出こいで悠也だな。とにかく営業より作業に没頭するのが好きなので、本当は職人になったほうが適性があるのだが。増田はえっと反応しながらも、
「これから年末へ向けてのプチ繁忙期に入るんですから、絶対に余しますよ! それに夏川さんだって、最近課長たちの大規模工事に駆り出されてるし。経験を積めるし、いい勉強にもなるし、業者からも教えてもらえるから一石二鳥だとか言われて、まんまとはめられたんじゃないんですか?」
 増田よ。おまえ、言葉の選び方がなんだな。ちょっとアクが強いな。話を振られて心介がビクッとしたようだ。
「え、オレは別に…。ほんとに勉強になるよ。小さなワンルームを内装するのとは違って、大工事で何が何だかさっぱりわからないけど。すごいなあって」
「その分、自分の仕事が押しちゃってるじゃないですか。以前みたいに、係長手伝ってくれてないんですよね」
 増田の文句が止まらない。
「自分の現場に来させておいて後は知らん顔って、ひどくないですか。こっちだってクソ忙しいのに、はっきり言って手を貸してやる・・・・・余分な時間なんてないですよね」
「い、いや、そんなことは…」
 心介が明らかに困っている。この所々ヒドイ言い回しでは無理もない。増田は更に畳みかける。
「本当に最近の係長はどうかしてますよ。しょっちゅういなくなるし、何か聞いてもおまえがやっとけみたいな返しだし。皆、係長のことすごいすごいって褒めるけど、ついに本性だしたって感じじゃないですか」
 ……何も言えねえな。しかし、俺は増田にものすごく信頼されていないことはわかった。
「確かに、何か変だな。最近の係長」
 小出も同調して頷く始末。部下たちからの評価を知って思うところはあるが、これから使う道具を取りたいのでこのまま入室すべきかタイミングを考えている矢先、意外にも心介が、なんと俺を擁護しだしのだ。
「忙しいんですよ、きっと。オレらよりたくさん大きな現場抱えてるんだから。係長だっていっぱいいっぱいになるときだってありますよ。人間なんだから!」
 いきなり、どもり癖のある心介が顔を赤くして饒舌に喋り出したので、俺も増田もびっくりした。
「増田さんはあまり現場で一緒に仕事してないだろうから知らないだろうけど、係長は本当にすごい人なんですよ。さすが斉木課長の愛弟子であるだけに、なんでもできて、どんな事態が起きても解決しちゃうんですよ」
 あんたは何もわかってないだろうから教えてあげる、というようなどや顔になっている。
「昨日だって、危うくチェックミスで工事ストップになるところを、元請けさんを説得して結局うちのいいようになったりとか。オーナーがこうしたいって言ってるのに、普通それを覆すことなんてできないじゃないですか。すごいっすよ。自分で自分のフォローをさっとやるなんて恰好よかったです!」
 心介、違うぞ。それは感心していいところではないんだぞ。
「え? どういうことですか? それって係長がなにかミスをしたってことですか? それを誤魔化したってことですか?」
 そう、これが正しい反応だ。しかもおまえ、昨日自分で絶対に人に言わないと宣言していたのにな。別にいいんだけどさ。あっと、心介は声に出して口を両手で塞いでいる。漫画のようなわかり易い反応だ。でもそれはやめてほしい。それこそ何か不正を働いたような雰囲気になっていくだろうが。
 案の定、増田は嬉々として心介に食いついていった。
「それ斉木課長は知っているんですか? あの人どんなミスをやらかした・・・・・んですか?」
「別にどうでもいいんじゃね」
 増田のよく通る美声に、だるそうな小出の声が重なる。これは説明をした方がいいなと思い、レバーハンドルに手をかけようとした時だった。肩を掴まれ、驚いて振り向く。すぐ後ろにおやっさんが立っていた。おやっさんは無言で顎をしゃくり、俺を外へと連れ出した。
 
 会社から少し離れたところにある自販機まで連れて行かれ、おやっさんは俺に缶コーヒーを奢ってくれた。一緒に自販機の横に座り込み、しばらく黙って缶コーヒーを飲んだ。目の前を通り過ぎるおばちゃんが、自販機の横でヤンキー座りしているオッサン二人を警戒するように恐々とけていく。作業着を着ているからなおさらなんだろうな。俺は目つきが悪いし、おやっさんは角刈りで強面だし。俺は緊張しておやっさんの言葉を待っている。無言はことさら堪えるんだ。
「吾郎よ。あいつらにあんなことを言わせるんじゃねえ」
 来た、と俺は身構えた。
「おまえの最近の写し鏡だと思えよ。今のおまえ、あいつらと同レベルだぞ」
 そんな……。それはねえよ、おやっさん。
「なんだ、不服な顔してるな」
「……いえ」
「自分の仕事にプライドがあるのかって話だ。今のおまえはてんで身が入ってねえ」
「……はい」
 何も言い返せない。
「おまえ一人で現場が回ってるんじゃねえぞ。勘違いするなよ」
 おやっさんは飲み干したスチール缶を片手で握りつぶし、立ち上がった。静かな怒りが感じられた。


3、警報機、鳴る

 午前中との約束だった図面がまだ上がってこない。設計元へ連絡を入れて催促をしたのだが、なんだかんだ言い訳をされて、送るのが午後になってしまうと告げられた。昼までには、明日現場へ入るビルトイン工房へ出向いて説明をするつもりだったのだが、大幅に予定が狂った。仕方がない。
 毎日、きっついな。働いて働いて現場を仕上げていっても、それ以上に新しい現場が増え続けていく。給料は増えないのに、仕事は生き物のようにどんどん増殖し続けていく……。
 なぜ、転職をしないのか、と今まで幾度となく周囲に不思議がられた。露骨に勧めてくる奴もいた。善意と心配で言ってくれいたのだろうが。
 そう聞かれるたびに、俺は笑ってやり過ごしていた。人に説明したって、わかるものではない。なぜ転職をしないのかって? それはな、俺の居場所はここしかないって思ってたからだよ。
 
 昨夜も、明け方近くまでモニターにへばりついていたので、ちょうどよかったのかもしれない。眠くて意識が飛びそうだったので、少し寝るとしよう。おやっさんといったん別行動を取って、自分の担当現場で作業をした帰り道、コンビニへ寄った。
 運転席のシートを倒して目を瞑った途端、気を失った。直後、携帯が鳴る。ちょっと不機嫌になるも、ディスプレイを見た。中学校からだった。慌てて出ると、担任の先生がひどくこちらを気遣うような口調で挨拶をしてきた。
柔道じゅどう君からはお父さんのお加減が悪いとはお聞きしてたんですが、お体のお具合はいかがですか?」
 第一声でぴんときた。次の言葉も聞かなくても予測がついた。
「亘さんのお宅のご事情もあるとは思いますが、明日は柔道君学校へ来られそうですか? 途中から来るということも、今は選択肢がたくさんあるので」
「先生、お気遣いありがとうございます。でも、それは柔道のサボリですね。いつから登校していないんですか?」
 担任の狼狽える声が聞こえてくる。2日前から学校へ来ていないと、しどろもどろでこの若い担任は説明しだした。2日前の朝、本人から学校へ電話があり、俺が連絡を入れることもできないほど身体を壊しているので、自分が代わりに欠席連絡をした。看病で今日は休むと。
 昨日もその前も、あいつはいつものように家にいる。俺が家に帰った時刻にはすでに帰ってきていた。あれ、そういえば塾は行っていたのか? 
 担任の先生と、最近の柔道の学校や家庭での様子などをひと通り話し合い、とりあえず家にはちゃんといるので差し当っての緊急性はないと伝えた。明日からまた登校するかどうかは、本人と話してからと伝えて電話を切ろうとすると、この若い男の担任は言いにくそうに尋ねてきた。
「あの……ちょっと気になったのでお聞きしますが、お母さんはお元気ですか?」
「え?」
「実は、お父さんの方よりお母さんへ先に連絡をしてたんです。一昨日はちょっと様子を見て、ご連絡はしませんでした。二日続いたので、念のために昨日、最初にお母さんの携帯へ掛けさせてもらったんですがお出になられなくて。今日は午前中にまたかけたんですが、やっぱり応答がなくて。いつもすぐに出るか、折り返し電話をくれる方なんで、ちょっと気になりまして。あ、余計なことだったでしょうか、すみません!」
「いえ……教えてもらってかえってよかったです」
 俺の代わりに学校と密に連絡を取り合っているのは知っている。二人で話し合ってそう決めたからだ。だから、同居している保護者だからといって俺にまでこうして連絡が回ってきたことに、訝しんでしまう。
 今週は夜入る工事があるから塾の迎えはできない。そう、先週言ってはいた。そういうことは今までも度々あったし、直接顔を合わせなくてもLINEや電話で、柔道の近況報告をしあっていた。なのに、そういえばこの3日ほど凛々子と話していない。今さらそれに気づく俺もどうかしている。
 
 電話を切った後、俺はまず塾へ電話をかけた。スケジュールを管理しているそこの室長が言うには、二日前から欠席願いが本人から提出されているという。計画的だな。柔道は俺に今週は自力で帰ると言ってきていた。いつも帰宅が遅いのに、途中で仕事を抜けて迎えに来る俺を思いやってのことだと受け止め、詫びつつも甘えてしまった。
 柔道とは、夜話そう。いつもの時間になれば帰ってくるのだから慌てることはない。
 それより、気になるのは凛々子だ。職業柄、相手からの連絡に長時間にわたって対応をしないのは明らかにおかしい。
 電話をかけると留守番電話へと繋がった。呼び出し音すらならない。胸騒ぎがする。この後、再びおやっさんと合流する予定だったのだが、予定変更だ。おやっさんへ少し遅れると連絡を入れ、先に凛々子の事務所へ寄った。

 小さいながらも、5年前に凛々子が仲間と二人で立ち上げた合同デザイン事務所。市の中心部を流れる川沿いの、まだ緑が多く残り、開発の手が入っていない、昔ながらの街並みのエリアにこじんまりと平屋のオフィスを構えている。
 幹線道路からはそれてわき道に入ると、少し敷地が開けたところに小さな平屋が現れた。木造の片流れ屋根。玄関前のアプローチは芝生と人造石タイルが敷き詰められている。一台も車が停まっていない。俺は車から降りて、インターフォンを鳴らした。応答がない。誰もいないようだ。
 裏手に回って、中庭を横切り、奥に建っているもう一つの平屋へ行ってみた。実はここが凛々子の家だ。事務所の建物よりももっと小さいが、凛々子は自分の家も二年前に建てたのだった。
 インターフォンを鳴らし、緑色の玄関ドアを叩いてみる。応答がない。庭の方へ回ってリビングの窓を覗いてみたが、人の気配がなかった。柔道もたぶんここには来ていないのだろう。
しばらく待ってみたが、諦めていったん引き上げた。とにかく部長の現場へ行かなければ。で、ピアノ教室の図面も回収しなければ。おやっさんには今日早めに上がらせてもらえるよう頼もう。


「ただいま」
 いつもより2時間早く帰宅した。玄関ドアを開けて、土間を見る。柔道の靴はない。もう家にいてもよさそうな時間なのに、と少し不安が頭をよぎる。ここでやっと柔道のスマホへ電話をかけた。呼び出し音は鳴るが、出ない。凛々子からもいまだに反応がない。もう一度電話をかけようとスマホのモニターを開こうとした瞬間、ディスプレイが光った。凛々子だ! 
「凛々子、どうしたんだ? 心配してたんだぞ」
 繋がるや否や、息せき切って尋ねる俺とは逆に、凛々子は落ち着いていた。
 ……いや、どこか沈んだ様子だった。
「ごめん、ちょっとあってね。それよりジュドーは? 家にいるの?」
「まだ帰ってない。先生から聞いたのか?」
 一緒にいるのではないかという期待はもろくも崩れ去った。
「……さっき、電話をして状況を聞いたよ。特に学校で問題があったということもないらしいけど。ジュドー、何か信号だしてなかった? 最近」
 何だか随分と凛々子の声が遠い。いつもの張りが感じられず、ガサガサとした力のない声音だ。そう思いながら、数日前の柔道の様子が頭に浮かんだ。
「何日か前、珍しく俺の部屋に来て何か言いたそうな顔をしていたな。結局何も言わずに寝てしまったけど」
「……そう。そっちへ行きたいけど、今ちょっと出張で地方へ来てるから明日家に寄るね。電波がよくないから、帰ってきたら、まずLINEで連絡ちょうだい。詳しい話は明日しよう」
 今週は夜の工事と言っていたが、急に出張案件が入ったという事か? 
売れっ子のデザイナーだからそういうこともあるか。少し引っ掛かるところもあるが、柔道から連絡が入るかもしれないので早々に通話を終わらせた。
 再び着信履歴やLINEを確認したが、連絡はない。俺が送ったLINEは見ているのかいないのか、既読がまだついていなかった。
 早く帰ってきたことだし、晩飯でも作って待っているか。
 さっき、ようやく設計元から図面が届いたことも、スマホで確認できた。送ると言って、実に8時間以上経過したわけだが、ままあることだ。後で出力をかけて、早朝までに張り出しておけば問題ない。俺も朝早く先に現場へ乗り込んでおけば、ビルトイン工房にも直に説明できる。もうこの際、これでいこう。
 頭の中でこれらのことを考えながら、慣れない手つきで料理の支度に取りかかった。

 その晩、柔道は家に帰ってこなかった。21時過ぎまで待って、いい加減これは家出かもと、ようやく思い至った。当然帰ってくると思い込んでいたので、この展開に俺は狼狽えた。そのうえ、俺は柔道の交友関係を何も知らない。どうやって探せばいいのか、何をしたらいいのかわからず、一瞬パニくりかけた。LINEで凛々子へ知らせ、柔道と交流のある友だちリストを送ってもらい、可能性がある所へは手分けをして連絡をしまくった。
ブックカフェにも連絡をした。近くの公園やコンビニ、深夜営業のファミレス、そして近郊にあるカラオケボックスにも探しに行った。だがどこにも見つからない。柔道のLINEはずっと未読のままだ。そうして、柔道を待ち続け、朝を迎えた。


4、過去からの亡霊

 インターフォンが鳴って、モニターを確認する前に玄関を解錠した。
走って玄関へ向かうと、土間にボサボサ頭の凛々子が立っていた。大判のストールを首に巻き、目だけが髪の間から覗いて見え、異様な光り方をしていた。
「凛々子、来てくれたのか」
 元妻の姿を見て、俺は心底ほっとした。珍しく身なりに気を使わない姿は、それほど気を揉んでいた証しだろう。顔色もかなりよくない。
「返事来た? 既読は?」
「……いや」
「あたしの方もよ」
 お互い黙りこくる。
「警察に捜索願出した方がいいかもね」
 そうだよな。あいつが行きそうなところがもう思いつかないのだ。
「そうだな」
「ゴロ―」
 同意してスマホを構えた俺に、冷え冷えとした声が飛んできた。
「ちゃんと見ててねって言ったよね?」
 ひやりとするほど強い怒りが孕んでいる口調だった。
「どんなに忙しくても柔道を決して放っておかないって、自分で決めたんじゃないの? 日常の細々したカバーはあたしがするけど、精神的なフォローは自分がちゃんとするんじゃなかったの? あたしはきみに忠告し続けたよ」
 滅多に感情を大きく動かさない凛々子が、本気で腹を立てていた。
「自分のやりたいことだけに夢中になって、きみ一体なにをやってんの?」
 思わずスマホの画面に視線を落とす。凛々子の顔をまともに見られなくなった。金を稼ぐことを正当化して、他すべてをないがしろにしている現実を強烈に言い当てられた。それはまさに明け方までまんじりともせず、後ろめたさに苛まれていたことだった。
「これじゃあ、安心してきみにジュドーを任せられないじゃない!」
 掠れた声で凛々子が叫び、俺はハッとして顔を上げた。目元が大きく黒ずみ、顔を歪ませている。なんだか様子がおかしい。また、昨日感じた胸騒ぎが遠くからやってきた。
 何か言おうと口を開きかけたとき、スマホが鳴った。光速で画面を見ると意外な相手で驚いた。俺の12歳年の離れた兄貴からだった。時刻はまだ5時台だ。滅多に電話でやり取りをしない間柄で、おまけにこの時間帯となると誰かの不幸の連絡かと身構える。すると、兄貴は挨拶もそこそこに、驚くことを伝えてきた。
「実は昨日、いきなり柔道から電話をもらってね。あまりにも意外なことを尋ねてくるものだから、ずっと気になってしまって。大したことじゃあないんだろうけど、どうにも落ち着かなくて、こんな時間に電話をしてしまった。何かあったのかな、と思って」
 すごい勘だな。俺は話を遮って尋ねてしまった。
「柔道が兄貴に電話を? 何の用事で? 何時ごろに?」
「順番に話すからちょっと待て」
 電話口で兄貴が呑気に笑っている。その昔と変わらない鷹揚さが今は恨めしい。
「ちょうど昼頃だよ。前に教えてもらった番号を登録していたから、すぐ柔道だとわかった。柔道の奴、大人びた口調で『伯父さん、お爺ちゃんの入所している施設の名前を教えてください』って言ってきたんだよ」
 凛々子にも聞こえるように、途中からスマホをスピーカーにしていた。
隣で凛々子が目を丸くして驚いている。

「もちろん教えてやったけど、びっくりしてね。突然どうしたんだ? どうして知りたいんだ? と尋ねてみた。それもおかしな質問だけどな。孫が祖父の暮らしに興味を持っていけないわけもない。親に聞けばいいことだろうけど、おまえはその……たぶん教えてやらないだろうから」
 あるいは、おまえは覚えていないだろうからの言い替えだろうと思った。
「学校で福祉の授業をしているから、課題提出に必要なんだと言ってきた。それですぐに電話は切ったんだけどね。別にどうってこともない話だろうけど、時間が経つとどうも気になってしまって。何かあったのか? どうも胸騒ぎがしてな。それとも、おまえが俺に聞くように頼んだとか」
「……いや。俺は一応知っているから」
 一度も足を運んだことはないが。兄貴には、正直に今我が家で起きている事情を説明した。昨日から柔道が家に帰っていないこと、行方が分からなくなっていることを。兄貴は学校勤めをしているので身動きがままならないが、自分も柔道へ働きかけて何かわかったら教えてくれるということで通話を終えた。と同時にLINEを開く。もう反復運動のようになってしまった。
「……既読ついてる」
「あたしのも」
 お互い顔を見合わせた。
 これは無事でいると考えていいのか、とりあえず。そうであってほしいと切に願うが。こんなことならGPS設定をしておけばよかったと、心底悔やまれた。男の子だし、俺も凛々子も、子供を監視するような行為は好かなかったので、こういう不慮の事態に備えて設定するという事をあえてしなかったのだ。

「ねえ、ジュドーさ。もしかして帯広へ行ってる?」
「まさか……」
 否定しながらも、俺も漠然とそれが頭によぎっていた。兄貴が親父の施設の話をした瞬間に。何を馬鹿な、とすぐにその閃きは打ち消したが、ずっとその考えが離れない。
「そんな所へ行こうとする理由がわからない。それにいくら何でも遠すぎるし、子供が一人でどうやって行くんだよ」
 言いながら、いや充分可能だろう思った。昔と違って、今はちょっと検索すればどんな情報も簡単に手に入るから、旅行にだって行けるかもな。
「ジュドーはそんなに子供じゃないよ。ああ見えて、かなり大胆なことをする子だから」
 そうだ。ブックカフェへいきなり一人で通い始め、俺の知らない間にマスターや杵柄嘉臣と打ち解けていたのだった。
 外の世界の大人に物怖じせずコミュニケーションを取っている姿が誇らしくもあったが、親には見せない顔で他人と交流し、うまくやっている様子に淋しさを感じたこともある。
「ジュドーが何が好きで何に興味があるのか、どんなことが嫌いか、ちゃんと知ってる?」
 凛々子が、俺を詰問するような強い口調で聞いてきた。
「それは……ラム肉とニンジンが好きで、とにかく本が好きで、物を作るのも好きで、それから……」
 他には、他には何があった? そうじゃなく、今は何に興味があるんだ? 何に好きで没頭しているんだ? 全然答えられない。凛々子の顔を見ればそれが正解でないことがわかる。俺は途中でやめ、そしてあらがった。
「大体、中2男子の考えていることをちゃんと把握している親のほうが珍しいだろ」
「大勢より一人でいるのが好き。ゲームや動画やSNSより、とにかく本や漫画やCGが好き。勉強より物を作り続けるほうが好き。そして、学校では友達と呼べる相手は一人もいなくて、それでも輪を乱さないようにコミュを取ろうと努力している。陸上部に入ったのは、個人でできる競技だから。黙々と自分の力だけでどこまで行けるか打ち込みたかったから」
 俺の言い逃れに被せられた言葉の数々は、俺が思い付かないものばかりだった。
「ちゃんとコミュ取って、彼に関心を持って見守っていたらどれもわかることばかりだよ」
「俺ばかりを責めるのか?」
 我慢ができず、つい言ってしまった。それは凛々子も百も承知で言っているというのに。常に冷静な凛々子が一方的に俺を非難し続けることなど、今まで一度もなかったはずなのに。いつも口論しないよう気をつけていたが、俺も気が動転していた。
「自分だって、ここ最近ずっと仕事が忙しいと言って、週に一度は必ず柔道と過ごす約束を守ってないじゃないか。ろくに塾へ迎えにも行っていない。子育ては二人でするものだと言ったのはおまえだろう。どちらも一方的にいいも悪いもない、別れても二人で責任を分かち合おうと話し合ったはずだ」
 我慢を破ると、もう止まらない。言うつもりのなかった文句まで、ベラベラと飛び出してくる。話していて、もうこの口を塞いでしまいたかった。
 俺の子供じみた指摘に、さらに反撃してくるかと思ったら、凛々子は黙りこんだ。異様な表情で沈黙したまま、じっと俺を見つめ返してくるのだ。
 その隈ができた大きな目の中に、怒りよりも悲しみのようなものが潜んでいるように感じられて、また俺の胸がザワザワとしだした。
……ひょっとして、心配からくる疲労ではなく、どこか具合でも悪いのか?
「凛々子、おまえどこか」
「帰るわ」
 踵を返して、凛々子が玄関ドアへ向かった。俺たちはずっと玄関で立ち話をしていた。慌てて追いかけ、もちろん引き留めた。
「悪かった。言い過ぎた! こんな言い争ってる場合じゃないのに……
おい、どこ行くんだよ!」
 構わずドアを開けようとする手を掴んで、遮った。
「行くんだよ。どいてくれる?」
「どこへ! どかねえよ!」
「帯広に決まってるじゃない。きみと話してて、やっぱりあいつ行っているような気がする。じゃないと、お義兄さんにこのタイミングで電話をしてるなんて辻褄合わないでしょ?」
「だからって、あいつが帯広へ行く理由なんて何もないだろう」
「それはゴロちゃん、きみが、でしょ?」
 うっと俺は言葉に詰まった。頭からあり得ないと否定してかかっている俺の無自覚を、凛々子の方がよく理解しているというのはどういうわけだ。
「それにあたしの第六感はよく当たる。知ってるよね?」
 そうだな。良くも悪くも、嫌になるくらい千里眼で、予知能力があるんじゃないかと疑うくらい、凛々子の言うことはいつも的を射ている。
「別に一緒に来いとはひとことも言ってないよ。じゃあね」
「行くに決まってんだろ!」
 俺は叫んで、自ら玄関のドアを勢いよく開けた。遠隔でエンジンがかかった俺の愛車が、静かに体を震わせ始めた。
「俺の方へ乗って行けよ」
「なんで。嫌なんだけど」
 秒で拒絶されて傷ついたが、気づかないふりをして強引に誘った。
「おまえのジムニーで狩勝峠は越えられねえよ。途中でエンコだなんて、ゾッとする」
「あたしのジミーの悪口を言うな。それに口調が昔に戻ってる。あと、今は高速通ってるから狩勝峠は走らない。いつの時代のはなし」
「うるせえ」
 文句を言いながらも、凛々子は助手席に乗り込んでくれたのでホッとした。あくまでも突っぱねられるかとビクビクしていたから。
「ゴロちゃん、向かう先は『オベリの杜』だよ」
 ちらっと凛々子の視線を横顔に感じた。俺は何とか表情筋ひとつ動かさず、平静を保てた。
「ああ」
 会うつもりはないけどな。そう心の中で呟いて、すぐさま発進した。
 この日のBGMは井上陽水《東へ西へ》だった。選曲していないのに、いきなり車内に流れ出したのだった。


~次作 「工程5-2 奢れるもの、ひさしからず(後編)」 へつづく




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