いとうまいこ

東京で一人暮らし。映画と器が仕事。料理と植物を育てるのが、わりと得意。人生いろいろあるけれど、毎日が楽しくいけませんね。

いとうまいこ

東京で一人暮らし。映画と器が仕事。料理と植物を育てるのが、わりと得意。人生いろいろあるけれど、毎日が楽しくいけませんね。

マガジン

  • 【台所で暮らしたい】

    美味しいものだけ食べていきたい。常々そう思っています。人を幸せにできるんだから、美味しいって偉大。そんな料理や食べ物のことを。

  • 【うつわや人生】

    沖縄クラフトの店・ふくら舎が開店して、もうすぐ10年。東京に暮らす私が、なぜ沖縄の仕事をしているのか。自分なりに考えてみようと思います。

  • 【映画探求の日々】

    映画宣伝の仕事を始めて、23年がすぎた。人生の半分は映画の仕事をしている。フリーになって17年。辞めようと思ったこともある。でも辞めなかった。東京の映画館が二ヶ月休館している間は、自分にとってはとって映画とは何なのかを考えた。なぜ、映画を仕事にしているのだろう。自分の人生を振り返ってみようと思います。

最近の記事

カフェ居酒屋始めました。

一月中旬から、田原町でカフェ居酒屋を始めた。住所が台東区寿四丁目なので、KOTOYONというコの字カウンターの店。スペースを曜日でシェアしているので、金曜と土曜のみが担当。「美味しいものだけ食べて生きたい」と思ってきたので、自分の思う“美味しい”を日々追及している。 お酒は好きだけど、酒に飲まれる人はあまり好きではない。お酒は好きだけど、お酒だけが好きなわけでもない。珈琲やお茶にもこだわりたい。あとは旬のものや野菜。素材そのものの味を感じて欲しい。そんなことを思いながら、先週

    • 「ごはんや」さんの想い出

      かつて、千駄木には「ごはんや」という店があった。 谷根千に引っ越してきた頃、30代半ばで猛烈に働いていた。若かったというのもあるけれど、映画の仕事がすごく忙しくて、器の仕事も始めたころだったと思う。 すごく疲れて帰って来て、夕飯をつくる元気のないとき、「ごはんや」に滑り込む。お父さんと娘さんが調理場にいて、お母さんがフロアを担当していた。いつもやたらと疲れていたので、注文した料理はぺろっと残さず食べていた。気取ったところのない、シンプルだけれど、ちゃんと手をかけた、どれも優し

      • 愛とユーモアしかない。

        20年近く前になるけれど、『able/エイブル』というドキュメンタリー映画の宣伝を担当していたことがある。ダウン症の元くんと自閉症の淳くんが、アメリカの夫婦の家にホームステイをする様子を追ったドキュメンタリー。その頃は宣伝の為に、二人が参加するスペシャルオリンピックスのイベントや元くんが通っている作業所に何度も出かけていた。 ある日、テレビのクルーと一緒に作業所の仕事の様子を取材に行った。カードをPP袋に入れ、セロハンをはがして封をする。そこに商品名のシールを貼る。元くんは

        • 谷根千のしあわせな循環

          通称「谷根千」と呼ばれるこの街に住んで、かれこれ十年が経った。 両親が東京の人なので東京育ち。国分寺、国立、そして練馬の家で幼稚園から育った。一人暮らしを始めたのは、世田谷区の用賀。実家から少し遠いくらいの田園都市線を選んだ。隣の桜新町でも数年。そして何の気なしに、谷根千にやってきた。 本当は桜新町周辺で新しい部屋を探していたけれど。条件に見合う物件はとんでもなく古いか狭い。そんな時、頭に年上の友人の顔が浮かんだ。(たしか谷根千に住んでいると言っていたような)そんな思い付きか

        マガジン

        • 【台所で暮らしたい】
          2本
        • 【うつわや人生】
          4本
        • 【映画探求の日々】
          4本

        記事

          忘れることで自由になった

          「ところでマイコは結婚しないのか」 長兄の家族がテニスをするのを眺めながら、父は私にそういった。急な一言に戸惑う私に「うちの遺伝子、けっこう優秀だと思うのだけどなぁ」と畳みかける。認知症になっても、こういうユーモアだけは変わらない。しかも上から目線。(おまえがそれを言うのか)と心の中でツッコミを入れた。 男兄弟の中で一人娘の私に、かつては(絶対にお嫁になんて行かせない)と思ったこともあったかもしれない。それが徐々に変わっていった。 「一度くらい行っても良いのじゃないか?」

          忘れることで自由になった

          一匹狼でありたい

          「民藝が好きなんだね」 そう指摘されるまで、まったく気づかなかった。民藝という言葉を認識していたけれど、まったく気に留めておらず、自分が好きなものを集めて囲まれながら暮らしていたら、たまたまそれが民藝と括られているものであることを知った。 それからすこし経ち、白羽の矢が立って、沖縄クラフトの店、ふくら舎の仕事を始めた。百貨店の催事が決まっていたので、その交渉と商品の手配が最初の大きな仕事。沖縄の手仕事を全国に届けるための自己流のうつわや人生が始まった。 一から始めるというこ

          一匹狼でありたい

          こんな嘘はつきたくない

          やちむん売りになってすぐの頃、ある媒体の撮影でスタジオに行った。 スタジオ自体は映画の仕事でよく行くけれど、俳優の取材をするわけではなく、器の物撮りをする現場は初めてだった。 ずらっと並んだやちむんを俯瞰で撮るための機材や、実際の食べ物を盛る撮影など、器ならではの撮り方を興味深く見学した。いつものふくら舎のやちむんが、なんだか違うものように扱われているのも不思議で。 しかし、その一コマに目を疑った。 やちむんのコーヒーカップとお菓子の撮影中。何とも言えぬ違和感を覚えた。なぜ

          こんな嘘はつきたくない

          初めての海外旅行 10歳の経験

          1984年、家族で初めて海外旅行に出かけた。私は小学4年生、10歳だった。 なぜ、明確に覚えているかというと、「84 HAWAII」と描かれたTシャツを買ってきたから。ベタである。 父親がアメリカの会社に勤めていて、一ヶ月くらいアメリカ出張に行くことがよくあったので、きっとアメリカが選ばれたのだろう。ハワイへの海外旅行と聞けば思い浮かべるのは、水着でビーチ。泳いだり、波打ち際で遊んだり…そんな絵が浮かぶ。いわゆるバカンス。でも、私たち家族のハワイ旅行は、まったく違うものだった

          初めての海外旅行 10歳の経験

          『はちどり』をみて、思い出したこと。

          中学生の頃、朝礼でいつも倒れていた。 ストンと倒れるものだから、頭を打つことを心配した先生は「具合がわるくなったら、倒れる前にすわりなさい」と。でも、そんな加減はできっこない。 背が高くてやせっぽちだったわたしは、先生だったかクラスメイトだったかに、かかえられ、ずるずると引きずられながら、保健室へ運ばれる。 あまりによく倒れるので、二学年上の次兄に「お母さんには内緒にしてあげるから、お願いだから、もう倒れないで」と頼まれたことさえある。 山登りも大苦手。遠足や移動教室の山登

          『はちどり』をみて、思い出したこと。

          料理を始めた理由

          映画の仕事につきたくて、二年半勤めたアパレルを辞めたのは22歳のとき。 とは言え、なんのツテもなく、あるのは「映画の仕事をしたい」という気持ちだけ。辞めて一ヶ月、毎日映画館に通っていた。一ヶ月が経って気づいたのは、実家における居場所のなさ。働きもせず、ただ映画を観ている、22歳のプータロー。どう考えても、どうしようもない。家族にせめられた覚えはない。今ではかなり自由に生きてはいるけれど、元来はわりと真面目なので、世間の常識に焦る。 そこで考えあぐねた結果、(そうだ、ご飯を作

          料理を始めた理由

          庭の手入れという名の、自粛やぶり

          4月29日、ゴールデンウィークが本格的に始まる日、県境を越えた。 毎日、テレビや区役所の放送で繰り返されるステイホーム、ステイ東京。 映画館が早く開いてほしいという一心で、かなりガマンをして、極力家にいた。外に出るのは、新聞を取りに行く。ごみを出しに行く。スーパーに買い物。それすらも、できるだけいっぺんで済ませるように努力。買い物も店が混んでいたら、違う店に。ご飯は家にあるもので何が作れるかを考える。 人に会えないといっても、家族と住んでいれば、日常的に家族がいるから、人と

          庭の手入れという名の、自粛やぶり

          初めてビリになった日

          ビリを取ったことがなかった。 かけっこはわりと速かったし、マラソン大会は朝練を積み重ねて、切り抜けた。体力測定は大得意。試験なんかも、できる方ではないけれど、まあ及第点。 しかし、三十半ばをすぎ、立派な大人になって初めてビリを経験することになる。 やちむん売りになってから、年に数回は東京の百貨店で催事をやっている。 商売人だからか、性格的な問題か、つい商品を入れすぎる。売り場を楽しくするには、物量だと信じているふしがある。加減をしたくない。 9年前の「銀座 手仕事直売所」で

          初めてビリになった日

          大揺れから始まった、やちむん売り人生

          あの日、初めての百貨店への営業のためにやちむんをわらび籠に詰めていた。2月の展示会で声のかかった百貨店のバイヤーを一週間で回るスケジュール。初営業は新宿にあるI社。 準備万端で家を出る15分前、突き上げるような凄まじい揺れを感じた。 そう、東日本大震災が発生した瞬間だった。 家にひとりでいたので、その恐怖はすさまじく…。植木鉢はわれ、冷蔵庫は歩き出し、本棚から本がなだれ落ち、食器棚の上部が傾いて落ちそうになる。必死でおさえながら、初めて「助けて」と声に出したのを覚えている。

          大揺れから始まった、やちむん売り人生

          だって僕は黒人なんだから

          「だって僕は黒人なんだから」 今年の2月中旬、『レ・ミゼラブル』のプロモーションで来日していたラジ・リ監督は何度もそう言った。 「カンヌ映画祭で審査員特別賞を貰った。 これは本当にすごいことなんだよ。だって僕は黒人なんだから」 警官に職務質問をされたのは10歳。 「怖くて仕方なかった。それから何千回もされたよ。数えきれない」 17歳でビデオカメラを手にしたラジ・リは街で起きていることを撮り始めた。 「警官たちは僕を黒い獣と呼んでいたんだ」 取材の間、語られた言葉は彼が作

          だって僕は黒人なんだから

          ちょっとした気の迷いから、17年

          「あなたは、一人でやっていけるね」 別れ際の恋人に言われた言葉ではない。 なんと、会社の面接で社長から言われた言葉でして…。すかさず、「御社の面接を受けに来ているんですけれど~」と突っ込みを入れた次第。 フリーランスになって、かれこれ17年が経とうとしている。たまたま退職前に宣伝の仕事を貰い、そのままフリーランスに移行しただけで、特になりたかったわけではなくて。 その数か月後、わりと大きな配給会社が宣伝業務の社員募集を出したので、せっかくなので受けてみた。 たどり着いた

          ちょっとした気の迷いから、17年

          みんなちがう夢をみた

          1996年、映画界に飛び込んだ。仕事は映画の宣伝で勤めた会社は表参道にあった。10時出勤。映画業界は始業がおそいので、11時に他の人はやってくる。10時に来るのは、下っ端三人のみ。ひとりは私より前からいた事務の女性。もうひとりは、私が入ってすぐに「求人をしていませんか」と電話してきた男性だった。同じ年ごろだったので、掃除や雑務をしながら、三人でいろんな話をする。上司のいないそのひと時があったから頑張れたのかもしれない。 その頃は理不尽なことを言われてもガマン、とにかく我慢。

          みんなちがう夢をみた