「喜び」も「悲しみ」も「怒り」も全ての選択肢はアナタの手の中に。
みなさんこんにちは、Linda°です。
この記事を書いているのはちょうど2023年の年明けから間もない頃ですが、
新年早々、呼吸困難で往生しかけたりといろいろなことがありました。
息がまともにできず、鼓動が耳の奥で波打ちながら段々と弱まるのを感じている時、
8歳のころに交通事故にあった時のことを思い出していたのですが
当時、車にはねられた時は何が起きたのか分からず、気がつけば病院に搬送されていました。
幸いなことに怪我は軽くすみましたが松葉杖をついて8歳の夏を過ごしました。
周りの大人が同情の目を向け「かわいそうに」「お大事に」と声をかける雰囲気は、自分にとんでもない不幸が起きたのだと錯覚を覚えてしまいそうでしたが、
私は事故に遭ったショックよりも事故にあったというドラマ、そして松葉杖の生活を普段はできない、誰も使っていないものを使えるという特別なものとして捉えることに決めました。
「骨折をしたことを嘆くよりも、骨折したことで楽しめることを考えよう」こうハッキリと自分で決めたのをよく覚えています。
この時の経験は大人になった今でも、自分に起きる出来事と向き合うときにとても活躍してくれています。
これには、無邪気な8歳という年齢も大きく関係していたと思いますが、
このように子供は、さまざまな体験を無邪気に捉えることをしていますよね。
大人のように「常識」で体験したことを区別することがないため、私たちが「かわいそう」と思うことでも
子供たちは別の角度から「楽しい」を発見することが自然とできています。
きっと起きる出来事は全部、ただそれだけ──・・・良いも悪いもないのですが、
それを捉えた人のフィルターを通して経験をするので、人それぞれの感情が付着しているのでないでしょうか。
「交通事故は悲惨な出来事だ」「この出来事は誰に起きても『不幸』だ」というのも数あるうちのたった一つの捉え方でしかないのです。
そして、その意味を与えているのは他の誰でもない、紛れなく、アナタ自身です。
長年のパートナーから好きじゃない料理を出されて「怒り」を選べば「どうしていつまでたっても私の好みが分からないの?」「この人は私のことを考えていない人」「私は大事にされていない」という経験に変わりますし、
「楽しさ」を選べばきっとそのことは笑い話に変わってしまうでしょう。
色眼鏡をかけた私たちは、好き放題に「目の前で起きてる出来事」にそれぞれが着色や脚色を施して、
まさしく、"(感情の)思った通り" の体験をしているのです。
しかしこの事実は、言うのはとても簡単で、頭では理解もできるのに
実際に目の前で「出来事」が起きてしまうと、
その「出来事」に「良い意味」を与えるのも「悪い意味」を与えるのも「自分の選択だ」ということはすっかり忘れて
「寂しい」「悲しい」「嬉しい」「楽しい」・・・
日常的に、当たり前のように反射的に反応してしまいますよね。
仕事が忙しいのも本当に、ただ「仕事が忙しい」たったそれだけで
連絡がないのも「連絡がない」というただの出来事で、
デートしているというのも「デート」というただの体験です。
私たちに起きる出来事や物事はいつでも中立の立場に立っているのに、
その出来事を法廷に立たせて一生懸命「有罪」や「無罪」を言い渡しているのも、
「これは"怒る"べき!」「これは"楽しい"ことなんだ!」と叫んでいるのも全部全部、自分自身だと想像すると、ちょっと可愛らしくもあります。
これを「可愛らしい」と思うのもまた、私Linda°の選択の一つでしかありませんが・・・
アナタはどう選択をしていますか??
これをお伝えしている意図は、自分で物事に感情をくっつけているのだから「常にポジティブに生きなければいけない」ということではありません。
感情はアナタが自分で選ぶことができるとっても大切な権利です。
誰かに任せたり、誰かのせいにしたり、他人にコントロールされるべきではない、アナタだけの大事な選択肢ですよ。
悲しみたいと感じているのなら、悲しむ権利だって当然あって然るべきものなのです。
これ以上悲しみたくないと感じているのなら、アナタの選択肢を変えるだけです。
アナタが本当に望むことに焦点を当てて選択をしてみてください。
前回の記事で「引き寄せの法則」について書きましたが、
「自分が怒りたいからどんな出来事も"怒り"のフィルターを通して捉える」=「自分が"怒る"ようなことばかり起きる」
望むことがアナタに惹き寄せられるのにはアナタの感情が大きな鍵となっています。
p.s. 改めてこの事実に焦点を当てることができた呼吸困難騒動に感謝を込めて。
Linda°