古典において原文を読む意義
先日の記事では、言語文化の教科書における「古典を学ぶ意義」について述べるコラムや評論文の紹介をした。そして、いずれの文章も「古典を学ぶ意義」となっても、「古典の原文を読む意義」については説明できていないことについて指摘した。
そこで、この記事では、もしも私が言語文化の教科書に「古典の原文を学ぶ意義」を述べたコラムを載せるとしたら・・・と仮定し、「古典の原文を学ぶ意義(理由)」を述べたコラムを作成した。以下がコラムである。
これから皆様は、古文を学んでいきます。小学校や中学校でも学んだと思いますが、その時どう感じたでしょうか。古語の特有の魅力を好きになった人もいると思います。そして、「どうして、今使っていない言葉を勉強しないといけないんだ。」と思われた人もいるでしょう。
「どうして、今使っていない言葉を勉強しなければならないんだ」・・・それは当然の疑問でしょう。そして、そのような疑問に対して、多くは「古典(昔に書かれた文学作品等の文章)を学ぶ事は、昔の人の思いを理解するために必要な事なんだ。昔の人の思いを理解することで、世界が広がるし、昔の人達が私達と同じことで喜び、そして悲しんだ事を理解することで、私達は同じ人として親近感を抱き、その人達の思いを大事にしようとなるんだ。そして、温故知新という言葉があるように、昔の事を学ぶことで、現在そして未来に役立つ知識や考えが生まれることがあるんだよ。」といった回答で答えられてきました。
しかし、その回答を聞いたあなたは次のように答えるかもしれません。「だったら、現代語訳で学べばいいのではないか。この前、現代語訳で枕草子を読んだのだけれど、十分に感動したし、解説がついているから、分からないというところがなかった。このように、現代語訳で十分意味が伝わるのだから、わざわざ、古典を原文で読む理由はないのではないか。」と。
では、「どうして古典を原文で読む必要があるのか。」この問いに答えるために、一つの事例を紹介しましょう。
2018年7月に西日本を襲った豪雨は多くの被害者を出しました。その中で多くの被害者を出した地区の一つが広島県坂町にある地区です。この地区は1907年にも大きな水害が発生し、46人もの人々が亡くなりました。そして、それを忘れないために、1910年には水害を伝えるための石碑が建立されました。そして、そこから116年後、同じように豪雨が襲ったのですが、石碑のある地区は、避難勧告が出されたにも関わらず、地区の避難率は町全体の半分にとどまりました。この地区の住民へのインタビューでは「石碑の内容は知っていたが、その内容までは知らなかった」との声が多数聞かれました。では、どうして内容が分からなかったのでしょうか。実際にその内容を見てみましょう。
上記の文章を見て、どう思いました。読めそうだぞと思いましたか。それとも何が書いてあるか分からないと思いましたか。もし、何が書いてあるか分からないと感じたあなたはどうして分からないと思ったのでしょうか。それは今は使っていない言葉で書かれていたからでしょう。
もしも、現代の日本語で書かれていたら、「石碑の内容は知っていたが、その内容までは知らなかった」とはならなかったはずです。その内容まで知らなかったとなったのは、その内容が「古文」で書かれていて、読めなかったからだと推測できます。そして、また別の住民の方は、「危険を知っていればもっと早く避難していた」と新聞社のインタビューに答えています。
もしも、この地区に住んでいる住民の方々がこの石碑を読むことが出来ていたのならば、避難率が上がり、多くの命を救えたかもしれません。このように考えてみますと、「古文」を読む能力が、命に左右することが分かるでしょう。「古文」が読めるか読めないかで、命が失われるか否かに関わってくるのです。
勿論、現在では石碑の解析が進み、その内容が現代語訳されています。しかし、それでも多くの石碑の内容が現代語訳されているとは限りません。つまり、その内容は私達自らが読まないといけないのです。
古文で書かれた文章の中には、私達の命に関わるものもあり、そのような文章を出来る限り正確に理解するには、やはり自らがその文章を読めるようにならなければなりません。古文を読めるようになることが明日の私達の未来を守ることになるかもしれません。
いかがだったであろうか。従来の「文学を味わう」といったテイストの古典擁護論では、「文学が正確に理解できなくても私達の命や生活に関わらない。それなのに、どうして文学を古文で読まないといけないのか」と反論されてしまうだろう。だからこそ、「古文を読める能力が私達の生命を左右する」と言った主張を、古典を原文で読むべきだといった古典擁護派はしないといけないのである。むしろ、それ以外の余計な要素である「教養である」だとか「内容が良い」だとか「心が豊かになる」だとかを持ち出した瞬間、
不要派に論破されてしまうだろう。
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