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「こてほん」における渡部泰明氏の発言に対する批判


 「古典は必要なのか」(正確に言えば、「古典を原文で読ませる教育は学校教科において、他の教科を優先してでも必修にするべきか」となるだろう。)といった問いは毎年のように繰り返される。そして、「不要派」が、「古典の内容は意義あるものが多いけど、それについては現代語訳でやれば十分なのでは。」と主張すれば、「必要派」が古典の素晴らしさを語るといった「嚙み合わない議論」(もしも、「古典なんて一切誰にとっても役立たない」と言われたら、「必要派」のその返しは正しい。しかし、「不要派」は、古典の内容の意義を認めたうえで、時間が制約があるゆえに必修科目から外せと主張しているのである。「不要派」が主張するべきなのは、全員が古典を原文で読めなければいけない理由であり、古典自体の素晴らしさではない。)が繰り返されてきた。
 近年において、最も著名な「古典要不要論争」は2019年1月14日(月)に明星大学で開催された「古典は本当に必要なのか」と題されたシンポジウムである。この議論において、古典脱必修派の議論に対し、古典要必修派は上手く対応することが出来なかった。特に私個人として一番ひどいと思ったのが、古典要必修派の一人として登壇した渡部泰明氏である。本ブログはその渡部氏の発言に批判を加えていくものである。具体的には2019年1月14日(月)に行われたシンポジウムにおける発言と、2020年6月6日にICU高校(国際基督教大学高等学校)の現役高校生を中心に行われたオンライン上におけるシンポジウム(通称「こてほん2020」)における発言内容についてである。ただし、注意して欲しいのは、この批判はあくまで、シンポジウム上における渡部氏の発言に対する批判であり、渡部氏の人格や研究内容等に対する批判ではないことについては了承して頂きたい。



渡部氏の主張のまとめ(要約は筆者)


 古典(ただし、渡部氏の古典の定義は第二次世界大戦ぐらいまでの、日本の文学作品に限定されている。)は仕事をするうえでも役に立つ。その理由は二つある。一つは古典には「情理」があるからだ。仕事には理も必要であるが、一方で情も必要であり、この二つは古典で学べる。もう一つは、古典は「心が複雑になって錯綜した状態」(筆者注 おそらく、アイディアを出すために、一生懸命考えているが、それが思いつかず、悩んでいる状態であろうと推測される。)を作り出すのが上手く、特に和歌を作る時には、「心が複雑になって錯綜した状態」となる。その状態を耐え、考え続ける事によって、新たな「和歌」が出てくる。それは仕事で、何かアイディアを思いつくために考えるプロセスと一緒であり、和歌を詠むことは、そのプロセスの練習となる。では、具体的に古典とは何か。それは、「共生を感じさせるもの」である。そして、ここから渡部氏は徒然草を例に、「兼好法師が紅葉を題として歌を詠もうとしたら、それが散ってしまった。そこで、反対に散った事を歌にしたら師に褒められた」というエピソードを話し、そこから
「ピンチこそチャンスになるんだ。だから固定観念にとらわれるな」と主張する。最後に、彼が実際に大学(当時の所属は東京大学)で和歌を用いた授業の紹介で締められる。具体的には授業の参加者が和歌の上の句だけを詠んだ後、その上句を参加者にランダムに再配分し、再び下の句を詠む。そうしてできた歌を二つのグループに分かれ、批評する。自らのグループの歌は必ず褒め、相手の歌は必ずけなす。そして中立の審判員が勝負を判定するといった内容である。

必須性の欠如


 まず、彼の主張の最も致命的な点は、それが古典である必須性がないことである。彼が説明する内容は、現代文でも十分得られるスキルであろう。実際に彼は「心が複雑になって錯綜した状態」を作り出すのに、「現代文でも可能である」ということを言ってしまっているのである。

 知恵を出すってどうやって出すんだろうと考えた時に、心の中にある種モヤモヤとした状態も実は大事なのであって、そのモヤモヤとした状態が整理されていく時に何かアイデアが生まれてくることがあるんじゃないでしょうか。全く思い付きにすぎないんですけれども。そういうモヤモヤとした、心が複雑になって錯綜した状態というのを母胎として、知恵は生まれる。そう考えてみると、これは文学が生まれてくるのと似たような状況だと思います。私の場合は和歌ですので、和歌というのはそういうモヤモヤの作り方がすごく分かりやすくできているので、モデルとして考えてみるとこができるんじゃないか。着想の立て方みたいなものですね。それをいま考えているところです。古典はそういう知恵を与えてくれるものではないかと思います。それは現代文ではダメなのか。そんなことはありません。

古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。(p54~55)黒字は筆者。

 現代社会では、解決すべき様々な問題があり、そしてそれぞれの立場が対立している場合が多い。例えば、環境問題であれば、環境保護を優先する立場と経済発展を優先する立場が対立している。環境保護も経済発展も同時に満たす「知恵」が求められており、その「知恵」を出すために世界中の人々が考えているのである。渡部氏の言葉を借りれば、心が「モヤモヤ」している状態である。和歌で無理矢理心のモヤモヤを作り出さなくても、現実の世界で「モヤモヤ」が生じる問題は沢山あり、それらはいずれも解決が求められるのである。その場合、現実社会の問題を解決するために考える事の方が優先されるだろう。

「非論理」的な発言


彼はシンポジウムで以下の発言をしている。

 ある時私、大変酔っぱらってベロンベロンになって、列車から降りた瞬間に手がブラブラになって動かない状態になってしまって、家に帰ったら女房が真っ青になって、脳梗塞かもしれないと急いで病院に行ってMRIを撮ったりしたのですが、当直の先生は「そういうんじゃない」と。じゃあ何なんだと問うても、「そんなの分からないよ」と言われて、ますます不安になって、東大病院に行きました。そうしたら別の医師を紹介してもらって、とある病院に行きました。40歳くらいの女医さんでしたけれども、「これは橈骨神経麻痺だ」と。脇の下の神経が切れて動かないだけであって、神経が回復すればすぐ動くと。安心して女医さんに「夜中運ばれて動かなくなってどういうことだと思って、でも医者に聞いたって答えてくれない。そうじゃないと言うだけだ」と愚痴ったんです。その女医さんは、それはよくないと。彼女が言うには「医者の心得とは患者の愁訴に応じることである。治すことじゃない。治すこと以上に、患者はとにかく憂え訴えている。その愁訴に対して応えていく。これがまず医者の第一の務めだ。」と。素晴らしい人だ、と思いましたね。本当に。さらに素晴らしいと思ったのはその後で、彼女は「実は私、古今和歌集に興味がある」と言いだすんですよね。やっぱり!って(会場笑)。限られた時間で、一例を持ってきてすべてを答えるわけじゃないんですが、やはりそういう興味・関心がある人は人間として優れているというふうに(笑)。

古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。(p86~87)黒字は筆者。

 一人の女医が優しかったと、その理由は古典に興味があるからだ。つまり、古典に興味がある人間は優れていると渡部氏は主張する。いわゆる「早まった一般化」であり、誤った推論である。もし、この論理で古典の必修化を正当化できるのであれば、反対に私は、逮捕された国語教員を数例挙げる事が出来る。国語教員は一般的に古典に興味・関心を持ち、古典を読み解くスキルが優れている。この逮捕された数例の国語教員を根拠として、
「何人かの国語教員が逮捕された。その理由は古典に興味があるからだ。
つまり古典に興味がある人間は人間性に問題がある。」と主張すれば、古典必修派はこれを受け入れるのだろうか。少なくとも、渡部氏は一例であるが、私は数例挙げているので、私の主張の方が妥当であるのだろうか。
 勿論、どちらの主張も「早まった一般化」である。そして、「古典」がどれだけ人間性をよくするのは未知数である。もし、「古典」の点数が高ければ高いほど、ボランティアの参加率が高いといったデータが出たとしても、
その要因は「経済的に豊かな家庭はボランティアに参加する余裕がある」といった第三の要因かもしれない。そして、人間性というのは、様々な遺伝や環境といった様々な因子が複雑に絡み合って形成される。決して、一つの因子だけで決まるものではない。
 また、渡部氏が一つの事例を挙げるだけで、主張が妥当性を持つと考えているならば、それは渡部氏、いや「古典必修派」にもブーメランとして帰って来る。渡部氏の主張の「非論理」さだけを持って、「やっぱり、古典を学んでいるような人達は、非論理的である。だから古典をやるよりも、論理国語を優先するべきだ。」と主張されても仕方ないだろう。古典必修派が
「早まった一般化」を使用するならば、当然、古典脱必修派も「早まった一般化」を使用するのは当然である。議論においては同じ論法を使わなければ、「フェア」ではないからだ。

「責任感」の欠如


 渡部氏は、「文法のための文法は止めましょう」と言い、さらに「徒然草」の面白さを伝えられるような授業をしてほしいと教員に要請する。ではなぜ、「文法のための文法」が止められないのか。それは、大学入試で出題されるからである。生徒は大学に入学できるかどうかで、自分が望む職業に就けるか、そして生涯年収も変わってくるのである。いわば、人生が懸かっているのである。だからこそ、多くの受験生は古典文法を嫌いながらも仕方なくやっているのである。どれだけ教員が魅力的な授業をしても、出口である大学入試が古典文法の知識を問われる以上、「文法のための文法」になるのは仕方のないことなのである。つまり、本来であれば、大学入試を改革しなければならず、それを行うのは大学教員の仕事なのである。いわば、渡部氏は本来であれば、自らが入試の改革を働き掛けないといけないのに、それについて言及することなく、一方的に現場の教員のせいにしているのである。当時渡部氏の所属は東京大学であり、いわば受験制度における「頂点」に位置する大学である。その東京大学は共通テストにおいても、そして文理問わず二次試験において「古典」を出題する。そして、その文章もまた、「文法のための文法」を行わないと解けないだろう。だからこそ、渡部氏が「文法のための文法」を教員の指導において止めてもらうには、現行の大学入試の古典を廃止しなければならない。東京大学が入試において、共通テストから古典を採用せず、二次試験からも古典を廃止すれば、渡部氏の理想が少しは実現するだろう。それこそ、「隗より始めよ」である。
 また、現行の教員は多忙であり、さらに多くの学校で人手不足が生じている。2024年度には新潟県の高校の国語科(中高)において採用予定者が55人に対し、現在20人(2024年9月24日発表)しか採用されていない。

https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/409503.pdf

https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/419465.pdf

勿論、2019年と2020年度と状況は異なるが、その当時も教員の過剰労働や人手不足は問題となっていた。そのような状況下で、「教員は授業を変えろ」と言ってしまうのは、ある種の「殿上人」的な態度であろう。
 そして「文法のための文法」を否定し、2019年のシンポジウムでは、
「古典文法なんて出題する大学なんてレベルが低いから行かなくていい。」と主張していたが、「2020年こてほん」においては、高校生に対し、
古典の意義について次のように語っている。

 現在、古典は非常に役に立っているんです。なぜ役に立っているかというと、一つは入試です。これは入試で国語というものを問題に出すときに、客観的に答えが出るように、客観的に採点できるようにするためには、現代文よりも古典のほうが出しやすいというところがあります。つまり、国語教育の中で試験のためにも必要です。そのために古典という科目が育てられてきたという面があると思います。

高校に古典は本当に必要なのか 高校生が高校生のために考えたシンポジウムのまとめ p57

「なぜ役に立たないのに、入試に出題するのか」と古典脱必修派は主張しているのに対し、「入試に役立っている」と回答したのである。これはあくまでも採点側の都合であって、学ぶ生徒の事を何にも考えていない事に等しい。本来であれば、「大学の学問を修めるのに必要だから入試に課している」と答えるべきであるが、これでは古典が入試の選別の手段としてしか役に立たないと認めているようなものである。となれば、古典脱必修派が言うように、古典自体は入試以外では、役に立たないと言っているようなものである。
 そして、客観性であるが、古典もまた文章なので、解釈のぶれが生じることがある。答えが最も「客観的」に出やすいのは数学である。そして、数学は文理問わず「必修」の学問であろう。論文作成において、「統計」は基本的に欠かせないものであるし、「統計」に関わる数学は理解が求められる。多くの私立大学では経済学部なのに、「数学」が必修ではないが、本来経済学は数学と切っても切り離せない。また、文理問わず「情報」のリテラシーは現在に生きるのに必須である。そして、また情報も「客観的」な教科となりうる。
 もしも、採点の理由で「客観性」を求めるなら、例えば、大学入試からは、「国語」自体を入試から廃止して、「数学」や「情報」を必修にするべきだろう。また「文系」であっても、二次試験等で、科学(物理・化学・生物・地学)を出題しても良いだろう。文系なのに、「科学」が何の役に立つのかと言われそうだが、例えば、気象現象を理解するには物理や地学の知識や概念理解が必要であるし、地学は災害に関わる教科でもある。日常生活を含め私達の周りには「化学」が溢れているし、健康に生きるには「生物」の知識も役立つだろう。そして、原子力発電について総合的に理解するためには、「科学」の知識が必要となる。
 このように考えてみると、「古典」よりも「客観的」でさらに「役に立つ」教科が複数挙げられる。要するに、渡部氏が古典の役割を「採点における客観性」に定めた事によって、客観性と言う面においては「上位互換」の教科がいくらでも見つかってしまい、「それ、古典でする必要がないのでは。」と皮肉にもなってしまうのである。

まとめ


 以上まとめてみると、「こてほん」における渡部泰明氏の発言は、「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」を体現しているものだと言えよう。もしも、今後、「古典要不要論争」が行われるとすれば、少なくとも「古典必修派」は渡部氏のような発言を行う人物を採用するべきではないだろう。古典に対する見識以上に、ロジカルに主張できる「古典必修派」を採用するべきであろう。


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