高等学校の学習指導要領における古典観
古典を必修にするべきか否か。その論争が絶える事はない。その中で否定派の論点では、「古典は情緒的なものであるので芸術である。」といった、
古典≒芸術といった見方がある。その一方で、肯定派は「古典は、芸術ではなくあくまでも言語を学ぶものである。」と反論する。では、現行の必修教科である言語文化においては、古典をどのように定義しているのか。学習指導要領に基づき、教科書が作成される以上、高校生が学ぶ「古典観」は学習指導要領の「古典観」である。学校教育における「古典」を論じたければ、学習指導要領の「古典観」に基づいて論じないといけない。そういうことで、本ブログでは、言語文化の学習指導要領とその解説を根拠として、
高校生が学ぶ「古典観」を定義してみたい。
学習指導要領における古典観を要約すると、「古典とは、価値があり、豊かで、美しく、深く、面白いものである。そして、その内容を味わうことが古典の学習である。」と要約されよう。以下は、要約を作成するために、
使用した学習指導要領の解説の抜粋である。
つまり、この事から判断するに、否定派が主張するように、学校教育における古典は芸術に属するという意見は正しい。「古典は芸術ではなく言語教育である」と主張する肯定派は、否定派ではなく、まず学習指導要領を否定しなくてはいけない。
一般的に芸術が美しさを味わうものとしたら、上記の学習指導要領と照らし合わせて、「古典もまた芸術科目に分類される」と結論づけるのは、三段論法から導き出せる。
A 芸術とは美しさを味わうものである。
B 古典は美しさを味わうものである。
C 古典は芸術である。
否定派は「古典は芸術科目だから選択科目にするべき」と主張する。その理由として、芸術をするのはタイパが悪いという価値観があると思われるが、
それと同時に、「個人的な価値観に属するものは、他者に押し付けるべきではない」と言った、リベラル的な価値観に由来するのだろう。
上記の発言は、2019年1月14日(月)に明星大学で開催された「古典は本当に必要なのか」と題されたシンポジウムで古典否定派として登壇した、
猿倉信彦氏の発言である。彼の発言は、「個人的な価値観に属するものは、他者に押し付けるべきではない」事を反映していると言えよう。
私は、古典教育において一番問題視しているのは、「特定の価値観の押しつけ」である。必修科目である以上、生徒は、その価値観の押しつけから逃れることが出来ない。
そもそも、「古典は豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」事を自明の理としていることが問題である。そして、その価値観に基づいて教科書が作成される。言語文化の教科書で多く取り上げられている作品は、「宇治拾遺物語、かぐや姫、伊勢物語、枕草子、土佐日記、徒然草、平家物語、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、奥の細道」となるだろう。つまり、これらの作品は「古典は豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」のである。
しかし、「古典が豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」かどうかは個人によって判断される事である。人によっては、「古典は、豊かでも魅力的でもないし、美しくもなく、深くもなく、面白くもない」だとか、「古典は面白いが、美しくはない」といった多様な評価があるのは当然なのである。そして、古典自体に価値を認めたとしても、「枕草子は魅力的ではない」と判断されるのもありうることなのである。「枕草子」が「豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」と思っているのは、あくまでも教科書編集者(もしかしたら本心ではそう思っていないかもしれないが)の主観に過ぎないのである。学習者がどのように価値判断を行うのかは、未知数なのである。
そのように考えてみると、現行の言語文化における古典教育が、「古典は素晴らしい」といった「特定の価値観」を押し付けていることになるだろう。そして必修というのは、強制である。つまり、学校教育における古典教育は、権力を用いた特定の価値観の押しつけである。
私達は、全体主義がもたらす悲劇を学び、全体主義が二度と出現しないように道を歩んできた。そして、その独裁者が出現しない事を願ってきた。
なぜ全体主義が許されないかと言えば、多様な思想を持った国民が存在するにも関わらず、統治者の特定の価値観が強制され、それ以外の価値観が踏みにじられるからである。そのように考えると、特定の価値観を押し付けているという点では、現行の古典教育はまさしく「全体主義」的である。
一方、国語関係者からは評判の悪い現代の国語(言語文化と同様に、高等学校の国語科における必修科目である。)では次のように、記載されている。
また機会があれば論じたいが、現代の国語においてもその国語観においては問題がある。しかし、現代の国語においては、以上のように、文章の価値判断自体は学習者に委ねられているのである。つまり、「この文章は素晴らしい」といった価値観の押しつけを行っていないのである。「論理的」な文章を読むのが、現代の国語であるが、その文章が「論理的な否か」の判断すらも学習者に委ねられているのである。
このように考えてみると、言語文化の「異質さ」が際立つだろう。この異質さは言語文化で取り上げている古典の文章は「素晴らしい」という価値観から起因している。
最後に、道徳における学習指導要領を引用する。
現代社会は多様の価値観を前提とし、「特定」の価値観を押し付けるのは、タブーとされる行為である。言語文化は、そのタブーとされる行為を行っていると言わざるを得ない。「古典は面白くない」といった価値観は無視し、「古典は面白い」と「特定」の価値観を押し付けているのである。私は必修教科における古典がこの立場に立っている以上、「実用的か否か」の論点ではなく、「多様性を前提とする社会で、特定の価値観を押し付けるのは、ふさわしくない」という理由で選択科目にするべきであると主張する。
そして、擁護派は、もしも古典の延命を考えるならば、たとえ指導者が枕草子に思い入れがあったとしても、学習者が「枕草子は価値のない作品である」と主張すれば、受け入れないといけないだろう。一番ダメな反応は「枕草子の文学的価値が分からないのか」と感情的になることである。「なぜ、この生徒は枕草子を価値のない作品であると感じたのか。」「その一方で、
なぜ枕草子を魅力的であると感じる人々がいるのか」と様々な立場を想定し、その根拠や理由を出来る限り「言語化」していく。これこそが、多様な社会を前提とした、「国語」の学習になりうるのではないか。
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