高等学校の学習指導要領における古典観

 古典を必修にするべきか否か。その論争が絶える事はない。その中で否定派の論点では、「古典は情緒的なものであるので芸術である。」といった、
古典≒芸術といった見方がある。その一方で、肯定派は「古典は、芸術ではなくあくまでも言語を学ぶものである。」と反論する。では、現行の必修教科である言語文化においては、古典をどのように定義しているのか。学習指導要領に基づき、教科書が作成される以上、高校生が学ぶ「古典観」は学習指導要領の「古典観」である。学校教育における「古典」を論じたければ、学習指導要領の「古典観」に基づいて論じないといけない。そういうことで、本ブログでは、言語文化の学習指導要領とその解説を根拠として、
高校生が学ぶ「古典観」を定義してみたい。

 学習指導要領における古典観を要約すると、「古典とは、価値があり、豊かで、美しく、深く、面白いものである。そして、その内容を味わうことが古典の学習である。」と要約されよう。以下は、要約を作成するために、
使用した学習指導要領の解説の抜粋である。

古典の世界に親しむために,作品や文章の歴史的・文化的背景などを理解すること。古典の世界に親しむとは,古典の世界に対する理解を深めながら,その世界を自らとかけ離れたものと感じることなく,身近で好ましいものと感じて興味・関心を抱くことである。作品や文章に関する歴史的・文化的な情報などを単なる断片的な知識として理解するのではなく,作品や文章に対する影響を与えたものとして理解することを通して,古典の世界のもつ豊穣さや魅力に気付かせることが重要である。

古典特有の表現とは,古典特有の言葉のリズム,音便や係り結びなど文法上の現象,掛詞や縁語などの古典に多くみられる修辞など,古典の美しさ,深さ,面白さなどを味わえる古典の表現を広く指す。

【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説より引用。黒字は筆者

 つまり、この事から判断するに、否定派が主張するように、学校教育における古典は芸術に属するという意見は正しい。「古典は芸術ではなく言語教育である」と主張する肯定派は、否定派ではなく、まず学習指導要領を否定しなくてはいけない。
 一般的に芸術が美しさを味わうものとしたら、上記の学習指導要領と照らし合わせて、「古典もまた芸術科目に分類される」と結論づけるのは、三段論法から導き出せる。

A 芸術とは美しさを味わうものである。
B 古典は美しさを味わうものである。
C 古典は芸術である。

否定派は「古典は芸術科目だから選択科目にするべき」と主張する。その理由として、芸術をするのはタイパが悪いという価値観があると思われるが、
それと同時に、「個人的な価値観に属するものは、他者に押し付けるべきではない」と言った、リベラル的な価値観に由来するのだろう。

国文科の授業というのは本日の先生方の話を聞いていても、横で見ていると幸福感があるので、これはどういうことなんだろうと。やっぱりこういうのは好きな人だけでやってくださった方がいいものなんだろうなというのを、とても感じました。それでやはりこれは芸術ですから、絵が好きな人でも、私は草間彌生が嫌いなんですけれども、「これは嫌いだ」というものがあるので、「強制していること」に問題があると。

「古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。」より引用。黒字は筆者。

上記の発言は、2019年1月14日(月)に明星大学で開催された「古典は本当に必要なのか」と題されたシンポジウムで古典否定派として登壇した、
猿倉信彦氏の発言である。彼の発言は、「個人的な価値観に属するものは、他者に押し付けるべきではない」事を反映していると言えよう。

 私は、古典教育において一番問題視しているのは、「特定の価値観の押しつけ」である。必修科目である以上、生徒は、その価値観の押しつけから逃れることが出来ない。
 そもそも、「古典は豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」事を自明の理としていることが問題である。そして、その価値観に基づいて教科書が作成される。言語文化の教科書で多く取り上げられている作品は、「宇治拾遺物語、かぐや姫、伊勢物語、枕草子、土佐日記、徒然草、平家物語、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、奥の細道」となるだろう。つまり、これらの作品は「古典は豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」のである。
 しかし、「古典が豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」かどうかは個人によって判断される事である。人によっては、「古典は、豊かでも魅力的でもないし、美しくもなく、深くもなく、面白くもない」だとか、「古典は面白いが、美しくはない」といった多様な評価があるのは当然なのである。そして、古典自体に価値を認めたとしても、「枕草子は魅力的ではない」と判断されるのもありうることなのである。「枕草子」が「豊かで魅力的あり、美しく、深く、面白い」と思っているのは、あくまでも教科書編集者(もしかしたら本心ではそう思っていないかもしれないが)の主観に過ぎないのである。学習者がどのように価値判断を行うのかは、未知数なのである。
 そのように考えてみると、現行の言語文化における古典教育が、「古典は素晴らしい」といった「特定の価値観」を押し付けていることになるだろう。そして必修というのは、強制である。つまり、学校教育における古典教育は、権力を用いた特定の価値観の押しつけである。
 私達は、全体主義がもたらす悲劇を学び、全体主義が二度と出現しないように道を歩んできた。そして、その独裁者が出現しない事を願ってきた。
なぜ全体主義が許されないかと言えば、多様な思想を持った国民が存在するにも関わらず、統治者の特定の価値観が強制され、それ以外の価値観が踏みにじられるからである。そのように考えると、特定の価値観を押し付けているという点では、現行の古典教育はまさしく「全体主義」的である。
 一方、国語関係者からは評判の悪い現代の国語(言語文化と同様に、高等学校の国語科における必修科目である。)では次のように、記載されている。

文章の構成や論理の展開などについて評価する場合,読み手の目的に照らして,文章の組立て方や筋の流れが効果的か,また意図を分かりやすく伝えているかなどの観点から,文章の構成や論理の展開についての適否や善し悪しを判断するとともに,どのような特徴があるかについても具体的に指摘できるようにすることが必要である。こうした文章に関する評価は,情報を鵜呑のみにせず多角的に検討する,批判的に読むための基本となる。

【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説より引用。黒字は筆者

 また機会があれば論じたいが、現代の国語においてもその国語観においては問題がある。しかし、現代の国語においては、以上のように、文章の価値判断自体は学習者に委ねられているのである。つまり、「この文章は素晴らしい」といった価値観の押しつけを行っていないのである。「論理的」な文章を読むのが、現代の国語であるが、その文章が「論理的な否か」の判断すらも学習者に委ねられているのである。
 このように考えてみると、言語文化の「異質さ」が際立つだろう。この異質さは言語文化で取り上げている古典の文章は「素晴らしい」という価値観から起因している。
 最後に、道徳における学習指導要領を引用する。

特定の価値観を押し付けたり,主体性をもたず言われるままに行動するよ
う指導したりすることは,道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」,「多様な価値観の,時に対立がある場合を含めて,誠実にそれらの価値に向き合い,道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」

【特別の教科 道徳編】小学校学習指導要領(平成29年告示)解説  黒字は筆者

 現代社会は多様の価値観を前提とし、「特定」の価値観を押し付けるのは、タブーとされる行為である。言語文化は、そのタブーとされる行為を行っていると言わざるを得ない。「古典は面白くない」といった価値観は無視し、「古典は面白い」と「特定」の価値観を押し付けているのである。私は必修教科における古典がこの立場に立っている以上、「実用的か否か」の論点ではなく、「多様性を前提とする社会で、特定の価値観を押し付けるのは、ふさわしくない」という理由で選択科目にするべきであると主張する。
 そして、擁護派は、もしも古典の延命を考えるならば、たとえ指導者が枕草子に思い入れがあったとしても、学習者が「枕草子は価値のない作品である」と主張すれば、受け入れないといけないだろう。一番ダメな反応は「枕草子の文学的価値が分からないのか」と感情的になることである。「なぜ、この生徒は枕草子を価値のない作品であると感じたのか。」「その一方で、
なぜ枕草子を魅力的であると感じる人々がいるのか」と様々な立場を想定し、その根拠や理由を出来る限り「言語化」していく。これこそが、多様な社会を前提とした、「国語」の学習になりうるのではないか。


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