言語文化の教科書における「古典を学ぶ意義」について述べた評論の分析とその批判
「古典を学ぶ事は何の役に立つのか」・・・この事は多くの人の疑問である。そして、それに対して、教える側が満足の行くような回答を示すことが出来ない。そのような事もあり、近年では「古典要不要論争」が紛糾しており、不要派の声が強くなっている。その論争の中で最も著名だと思われるのが、2019年1月14日(月)に明星大学で開催された「古典は本当に必要なのか」と題されたシンポジウムである。このシンポジウムでは、「高校において古典は必修であるべきか」といったテーマ設定がなされ、それぞれ必修化するべきでないといった「否定派」と、必修化するべきであるといった「肯定派」が論争を行った。ただし、正確に言えば、「古典を原文で読ませる教育を必修化するべき否か」が真のテーマであろう。「否定派」も古典の内容を全否定しているわけではなく、『古典の内容で「有益」なものは現代語訳で教えるべきだ。』と主張しており、いわば、「古典を原文で読ませる事」を否定しているのである。詳細はこのシンポジウムをまとめた書籍である
『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』を
参考にして頂きたい。
また、中央教育審議会の答申である『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の 学習指導要領等の改善及び必要な方策等について』(2016年12月21日)には古典について次のように記述されている。
古典の学習について、日本人として大切にしてきた言語文化を積極的に享受して社会や自分との関わりの中でそれらを生かしていくという観点が弱く、学習意欲が高まらないことなどが課題として指摘されている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/01/10/1380902_0.pdf
この文章を要約すると「生徒は古典で学習したことを実生活で生かせていない」と言う事になる。つまり、生徒にとって、古典を学習しても、実生活に役に立たないから学習意欲が高まらないとなる。以上の事柄をまとめると「古典を学んでも実生活で役に立たない」といった事は多くの人々に共有されている認識であると言えよう。
そのような現状を踏まえ、2022年から実施されている「言語文化」では、
古典の指導について次のような認識に立っている。
古典を読み味わうためには,古典を理解するための基礎的・基本的な知識及び技能を身 に付けていなければならないことは言うまでもない。しかし,従来その指導を重視しすぎるあまり,多くの古典嫌いを生んできたことも否めない。そこで,指導においては,古典 の原文のみを取り上げるのではなく教材に工夫を凝らしながら,先人のものの見方,感じ方,考え方に触れ,それを広げたり深めたりする授業を実践し,まず,古典を学ぶ意義を認識させ,古典に対する興味・関心を広げ,古典を読む意欲を高めることを重視する必要 がある。そして,そのような指導を通して,古典を理解するための基礎的・基本的な知識 及び技能を身に付けさせていくことが大切である。
そして、言語文化を学ぶ目標として「生涯にわたる社会生活に必要な国語の知識や技能を身に付けるとともに,我が国の言語文化に対する理解を深めることができるようにする。」とされている。つまり、言語文化は、「古典はどうして学ばないといけないのか。古典は何の役に立つのか。」といった疑問についてかなり意識していると思われる。そして、同様に言語文化の教科書においても、「古典はどうして学ばないといけないのか。古典は何の役に立つのか。」といった疑問に対するアンサー的なコラムや評論文が掲載されている。以下はその内容についてまとめたものある。
「古文の世界へ」 三省堂 精選 言語文化
古典を学ぶのは、古人の心を知るためである。
清水義範「説話集を読む楽しみ」 数研出版 新編 言語文化
古典を読むと、昔の人と今の人との共通点が見いだせる。
嵐山光三郎「ジョブズと『徒然草』」 数研出版 新編 言語文化
スティーブ・ジョブズの信条は、徒然草と一致する部分が多い。
「古文の世界」 文英堂 言語文化
昔の人たちの考え方・感性を知り、そこから、現代人との類似点や相違点を見出し、日本の文化を歴史的かつ総合的に理解するには、言葉を学ばないといけない。
「古文はタイムマシンだ」 桐原 探求 言語文化
昔の人の思考や感覚を学ぶため。
「古文の学習」 第一学習社 高等学校 新編言語文化
・昔の人の価値観や社会制度を学ぶことで、私達のものの見方や考え方を養うため。
・過去の言葉を学ぶ事で、未来に向けての豊かな言語文化を構築していくため。
まず、「昔の人の価値観を学ぶ事で、現在の価値観を相対化することが出来る。」とある。要するに、今の価値観はあくまでも今の価値観であって、普遍的な価値観ではないということが学べるのである。その事例を示す為に、
例えば、「古文はタイムマシンだ」では、捨て子が泣いているのを見た松尾芭蕉が食べ物を投げ与えてそのまま通り過ぎたという現在の価値観から見れば「非人道的」なエピソードを取りあげている。その一方で、私達は同じ人間であるから時代を超えて共通する部分が存在する。例えば、古今東西、「死を悼む」行為は共通であろう。「千年の時が与えてくれる安堵」では、「枕草子」を取りあげ、清少納言を「働く女性」としてとらえ、枕草子に出てくる悩みは、現在の「働く女性」が抱える悩み(家庭や子育てと仕事の両立、女性の自立、男性の理解不足)と同じであると結論づける。つまり、過去の人々も現在の人々と同じように感じていたことを学ぶことで、過去の人々に親近感を抱かせる。それは過去の人々への尊敬へとつながっていき、過去の人々と現在の人々が「つながっている」感覚を抱かせるのである。
しかしながら、ここまで読んでいただいた読者の方ならこのように思うのではないだろうか。
「その目的を果たすなら、現代語訳で読めば十分では?わざわざ原文で読む意味はないのでは?」
言語文化の編集者もまた「古典なんていらない」という声を受けて、「古典はこのように役に立つ」ということを示すために、コラムや評論文を取りあげている。しかし、それは、「古典不要論」を文字通り受け取っていることから生じている誤解である。「古典不要論」を主張している人々は、
「古典の内容は有意義であるので、教えるべきではあるが、それは現代語訳でやるべきであって、わざわざ原文で読ませる必要はない。学習時間に制約がある以上、原文を読むスキルを身に付けさせるのは非常にタイパが悪い。
原文を読むスキルを身に付けても、ほとんどの場合役に立たない。」
というような内容に要約され、現在の「古典不要派」の主張の主流となっていると推定される。先ほど例に出したシンポジウムで否定派として登壇した
猿倉氏は「意味のありそうな東洋哲学の部分は現代語訳で社会科に」と、
前田氏は「古典の内容は現代文で学ぶ価値があるものもある」と主張している。つまり、「古典の内容は一切役に立たない」というような否定派は、存在しないと言ってもよいだろう。あくまでも「原文で読む意味がない」と主張しているのである。
だからこそ、「古典を学ぶ意義」を説くコラムにおいては、「なぜ原文読解のスキルが必要なのか」といった問いに答えないといけない。しかしながら、ほとんどのコラムが「内容が役に立つ」といった主張となっている。その中でも特に悪手なのが「ジョブズと『徒然草』」である。以下引用である。
ジョブズの「伝記」を読みながら、「おや、これはどこかで読んだことがあるぞ。」と、気がつきました。それは兼好の『徒然草』です。兼好は弘安六年(一二八三)ごろに生まれ、ジョブズより約六七0年前の人です。
『徒然草』にはどきりとする一節が、そこかしこに出てきます。「一瞬の怠けは一生の怠けとなる。」「ほとんどの話はむだな話である。」「大事に思いついた人は、他のことはすべて全て捨てよ。」「現在の一瞬がむだに過ぎることを惜しめ。」「一切の俗縁を捨てよ。」「上に立つ者はぜいたくや浪費はやめなさい。」「時代を生きる人は、まず時期を知らなくてはならない。」「趣向を弄して面白がるより、シンプルなものがすぐれている。」などなどです。
これらは、すべてジョブズの信条と重なっています。ジョブズは仏教徒で禅を修行していたから、英訳された『徒然草』を読んでいたかもしれません。
この文章を読んでまず第一に思う事は、「ジョブズは英訳で読んだ(かもしれない)徒然草の精神を体現できている。だったら、現代語訳でも十分学べるのでは。」ということである。つまり、この文章は「なぜわざわざ徒然草を原文で読まないといけないのか」といった問いを答えるどころか、「古典は現代語訳で十分」と古典不要論を後押ししてしまっているのである。その他のコラムや評論文もそうで、現代文で古典の魅力を伝え、それで十分理解されてしまったら、逆説的ではあるが、「現代語訳で十分である。」となってしまい、原文を読む理由がなくなってしまうのである。
中には、なぜ「原文である古語を学ばなければならないのか」といったことに触れているコラムも存在する。第一学習社の「古文の学習」では、次のように述べている。
古典の文章(古文)と現代文を比べると、仮名遣いや用いられる語、文法などに違いがある。難しく感じるかもしれないが、言葉は、先人たちの英知や営み、文化を今に伝えてくれるものである。また、古文独特の調子や美しい表現そのものが、すでに一つの文化でもある。過去から現代へと文化を伝え、つないできた言葉について学ぶことは、これからの未来に向けて豊かな言語文化を構築していくためにも大切なことである。古典を味わうために、まずは声を出して読んでみよう。子供のころに出会った童謡の響きを似通っていることに気付きはしないだろうか。また、古文は日常的に使う言葉の中にも息づいている。私たちの身の回りにある古典を発見すること、それが古典に親しむ第一歩である。
確かに、「古文独特の調子や美しい表現」は、現代語訳では学べないし、それが文化である以上学ぶべきだとなるだろう。しかしここでもいくつかの疑問が浮かんでくる。
・「古文独特の調子や美しい表現」とは何か。それはどのように判断される
のか。
・「豊かな言語文化」とは何か。
・なぜ「豊かな言語文化」を構築しないといけないのか。「豊かではない言
語文化」では駄目なのか。
・「豊かな言語文化」は古文を学ばないと実現できないのか。
つまり、このコラムの筆者は「美しい古典表現を学ぶ事で、豊かな言語文化が構築される。」と主張している。しかし、この主張では、美しくない古文は学ぶ意義はないし、古典を学ばない限り、「豊かな」言語文化は構築されないということになってしまうだろう。そして、「美しさ」も「豊かさ」も主観的なものである。「美しい」古文もあれば、「美しくない」古文もあるだろう。文学に「美」を見出す人は、「無味乾燥」な過去の災害記録には興味を持ちづらいだろう。その基準で言えば、過去の災害記録は「美しくない」から読まなくて良いとなってしまうのだろうか。また、古典を知らない人々は、「豊かな言語文化」を構築できないのだろうか。そもそも「豊かな言語文化」の定義から始めないといけない。少なくとも、現代語しか話せないからと言って、「言語が貧しい」と言われる筋合いはないのである。
以上まとめると、教科書に掲載されている「古典の意義」を説くコラムや評論文は「古典不要論」の本質を理解しているとは言えず、皮肉にも「古典不要論」を後押しする内容となってしまっている。また、原文を学ぶ意義に触れていても、「古典は美しい」といった個人の「価値観」にすぎないものを前提としてしまっているがゆえに、単なる「美しさ」の強制となってしまっているのである。私が「古典必要論者」(高校教育において、古典を原文で読むことを必修化するべきであると考える立場の人々)の意見で一番問題としているのが、「美しいから(面白いから)、必修にするべき」といった意見である。個人の価値観にすぎないものを、権力を用いて当然のように押し付けても良いといったその「傲慢さ」もまた、「古典」に対するアンチを増やすものであろう。要するに、「あなたの「特定」の価値観を、当然のように押し付けてこないで」という話である。