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『桐生タイムス』連載「永遠の英語学習者の仕事録」【47】(2025/2/22)

自閉スペクトラム症の母とその娘の前に突然現れた、美しく奇妙な隣人

 白いものしか口にしない、
 他人との会話は暗記したマナー本に忠実に――。
 わたしが決めた、わたしのルール。
 ただ、娘(ドリー)の前では「普通」を装い、わたしの「自然」を抑え込んだ。
 わたしとあの子を引き離そうとする何かの存在が、怖ろしくて。


 今月の「永遠の英語学習者の仕事録」は、来月、朝日新聞出版から刊行されるヴィクトリア・ロイド=バーロウ『鳥の心臓の夏』をご紹介したい。

★    ★    ★

『鳥の心臓の夏』の主人公サンデーは、自閉スペクトラム症(ASD)の特性が見られる人物だ。人とのコミュニケーションが苦手で、人の発音を必要以上に気にしたり、食べ物に強いこだわりがあったりする(基本的に色の白いものしか食べない)。そして社会生活においては何度も読んで記憶したマナー本の指示にしたがい、南イタリアの伝統を心の支えにしている。
 サンデーは自分のような問題は抱えていない娘のドリーとイギリスの湖水地方の町に暮らしている。農場の温室で働いているが、周りの人たちに理解してもらうのがむずかしいこともあり、ドリー以外の人と過ごすことはほとんどない。

 わたしは常に人々から後退している。この世界全体は回転する部屋の集合体で、その一室一室にわたしはいつも誤って入ってしまっている。

 そんなサンデーの前に、洗練された女性ヴィータが突然現れる。ロンドンから隣に越してきたヴィータと夫のロロは、サンデーをやさしく受け止めてくれる。サンデーはヴィータとロロの自由な生き方に惹かれ、ふたりから今まで味わったことのない温かい扱いを受ける。娘のドリーもふたりに惹かれ、特にヴィータとすぐに親しくなる。
 だが、ヴィータは謎めいた女性だ。何か目的を持ってサンデーとドリーに近づいてきたのかもしれない……。
She leaned towards me and looked at my face, closely and entirely without self-consciousness. I began to feel that I had crossed some invisible social boundary that I should not have, had stepped off the path and on to the forbidden grass. I looked away from her and out towards my garden. But when she spoke again, it was with the deftness of a mother tightening her hold on a stumbling child.
 あの人はわたしに向かって身を乗り出し、ためらうことなくまっすぐにわたしの顔を見つめた。わたしは越えてはいけない見えない社会の境界線を越えてしまったのかもしれない。道を外れて進入禁止区間に踏みこんでしまったのかもしれない。ヴィータから目をそらし、庭を見つめた。でも、ふたたび発せられたあの人の声が、よろける子どもをしっかりと抱きしめる母親のように、巧みにわたしを包み込んでくれた。


 だが、ヴィータはサンデーの生活にどんどん踏み込んでくる。

「ええ、娘さんにご家族の名前をつけるなんて、すてきなことよ。すごくいいことをしたし、あなたがドリーちゃんをお姉さんの分まで愛していることがよくわかるわ」
 この確信に満ちた言葉で、あの人はわたしにそれまでまったく知らなかった自信を与えてくれた。それは期待していた包み込まれる安堵感をもたらすものではなく、わたしの内に眠っていた何かにそっとささやきかけてくれた。ずっと長いあいだ眠り続けていたものに、そっと。

 
 424ページにおよぶ本長篇において、サンデーの悲しい過去(姉ドロレスのこと、母との関係、ドリーの父である夫〝キング〟との出会いと別れ)も次第に明らかにされる。
 著者ヴィクトリア・ロイド=バーロウ(Viktoria Lloyd-Barlow)はケント大学でクリエイティブ・ライティングの博士号を取得し、2023年発表のデビュー作である本作『鳥の心臓の夏』(All the Little Bird-Hearts)は、同年のブッカー賞のロングリスト入りを果たした。自身もASDであるロイド=バーロウは、ブッカー賞候補入りした初のASD作家となった。現在は創作活動を続けながら、ASDと文学の関係について積極的に発言している(ハーバード大学でも講演した)。
『鳥の心臓の夏』は「家族愛、友情、階級、偏見、トラウマといったテーマを、心理的洞察とウィットによって巧みに織り交ぜた詩的なデビュー作」とブッカー賞審査で評された。
 本欄第28回「人間が生きる上での習慣――大江健三郎がもうひとつ残してくれたもの」(本紙2023年7月22日号掲載)でも書いたが、わたしはASDおよび障がい者支援を長く続けている。ジョリー・フレミング『「普通」ってなんなのかな 自閉症の僕が案内するこの世界の歩き方』(文芸春秋)につづいて、ASDの著者の魂の叫びを映した本作を日本に紹介できるのを大変光栄に思うし、翻訳作業を通じてASDの人たちをめぐる状況に関し、新たに多くのことを学んだ。
 自身も当事者である著者が、その感覚世界、家族の揺れ、そして自己の探索を繊細に描く、「ブッカー賞」候補作。
 
 来月の本欄では、ヴィクトリア・ロイド=バーロウの『鳥の心臓の夏』について、さらにくわしく論じてみたい。

鳥の心臓の夏
ヴィクトリア・ロイド=バーロウ著
上杉 隼人訳
朝日新聞出版

上杉隼人(うえすぎはやと)
編集者、翻訳者(英日、日英)、英文ライター、通訳、英語・翻訳講師。桐生高校卒業、早稲田大学教育学部英語英文学科卒業、同専攻科(現在の大学院の前身)修了。訳書にマーク・トウェーン『ハックルベリー・フィンの冒険』(講談社青い鳥文庫)、ジョリー・フレミング『「普通」ってなんなのかな 自閉症の僕が案内するこの世界の歩き方』(文芸春秋)、ムスタファ・スレイマン『THE COMING WAVE AIを封じ込めよ DeepMind創業者の警告』(日経BP/日本経済新聞出版)など多数。本書『鳥の心臓の夏』の刊行により、日英翻訳をあわせて翻訳書数は100になる。


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