私の心の穴
今回は私の心の支えだった祖父のお話です。
自分語りなので苦手な方はバックしてください。
私の祖父は享年69歳 末期の胃がんでした。
祖父は京丹後市から反物を持って
こちらに出てきて商いを始めました。
父から聞いたところ その当時京ちりめんや
丹後半島の反物はよく売れたそうです。
時代は移り変わり反物が売れなくなると
祖父はホテルマンをし始めました。
祖父は初孫の私を大変可愛がってくれました。
父方は父以外は独身で
祖父にとっても私は長男の最初の子。
小さい頃の写真を見ると祖父や両親と
写っているものが多い様に思います。
一緒に住んでいたことも関与してたように思います。
そんな大好きな祖父に異変が起きたのは
ある初夏のことでした。
外で倒れて頭を切ってしまった。と
父から聞きました。
この時点では私達も両親もそして祖父自身も
あまりことの重要性を理解していなかった。
夏休み。
毎年恒例のお墓参りの後花火大会を見に行く
約束をしていました。
弟も妹ももちろん私も楽しみでわくわくしていました。
そんな時夕方突然父に
『今日は花火が見れない。
おじいちゃんが入院する。』
とだけ伝えられました。
両親は私たちのご飯と祖父の入院セットを買い
家路を急ぎました。
帰るとそこには何食わぬ顔で祖父が
迎えてくれます。
『おじいちゃん何処が悪いん?』
祖父にっこり笑って
『どこも悪くないよ』
と言いました。
後に両親からこの時入院していれば
祖父はもう少し長く生きられたかもしれない。
と言っていました。
祖父は医者から入院を勧められるも
入院を拒否したのです。
理由は金銭で息子家族に迷惑をかけたくない。
でした。
そこから祖父は徐々に食事を取らなくなって
いきました。
夏の終わり。祖父はまたも外で倒れ
近くの大きな病院へ緊急搬送されました。
連絡を受けた父が駆けつけると告げられたのは
余命わずかの末期の胃がん。
転移もあり祖父の当時の体力上
治療は不可能だと言われたそうです。
そこから祖父の入院生活が始まりました。
最初の頃はご飯を普通に食べ
元気に笑っていました。
ですが病気は進行していて運ばれてくる食事は
徐々に液体状になっていきました。
副作用でふらつきがあり
よく頭をぶつけてガーゼを貼られていました。
点滴生活になるのもそう遅くはありませんでした。
あれだけ元気に歩いていた祖父は
経口補水液以外は口にせず栄養と服薬は
点滴でするようになりました。
たくさんの注射針と尿管チューブが繋がれて
寝たきりになりました。
入院からわずか1ヶ月半のことでした。
その頃から祖父は少しずつ孫 息子と娘。
そして別れた元妻(私の祖母)の区別がつかなくなって行きました。
母はよく祖母と間違われたと言います。
徐々に喋れなくなり
個室に移ることになりました。
たくさんの機械に繋がれた祖父。
毎日声をかけてもあーというだけです。
祖父は私たちの声と電車の音には
何かしらの反応をしていました。
あの頃の祖父は何を思っていたのでしょう。
そして。
私たちが学校に行っている間に
祖父は母に看取られて
最後に大きく息を吸い込み目を開き
そのまま息を引き取ったそうです。
私が祖父の訃報を受けかけつけた時は
もうたくさんついていた機械が
全部外され看護師さんが会釈し
出ていくところでした。
『おじいちゃん?○○だよ。』
私は意味は無いと分かりながらも
声をかけ祖父の手を触りました。
あの時の冷たさは今でも忘れられません。
冷たく硬直した祖父の手は
細くほぼ肉はなかったです。
1年生からいじめを受け
4年生から不登校になった私。
両親は共働きで学校には行きなさいと言いますが
話は聞く時間はありません。
そんな時話を聞いてくれた祖父。
『辛かったね。悲しかったね。
よく頑張ったね。』
そういつも声をかけてくれていた祖父。
父に最後まで言っていたそうです。
私が学校で悲しい思いをしているんじゃないか。
もっと話を聞いてやれ。と。
冷たい祖父の手を触ると
もう会えない寂しさと
心臓が二度と動くことは無いこと。
そんなことを思い知らされました。
『なんで!!おじいちゃん!!』
大きな声で泣きました。
病室の外にもきっと聞こえてたと思います。
母も父も弟も妹も泣いていましたが
私はあの瞬間に心が壊れていきました。
雨の音と電車の音が虚しくて。
泣けども泣けども
祖父のあの優しい声は帰ってきませんでした。
その日から少しずつ
私は食事を取らなくなりました。
祖父を失った悲しみを埋めるように
自分を傷つけ
学校に行っては罵詈雑言を浴びせられ。
そんな小学生時代でした。
4月。
私は一番最初に見せたかった制服姿を
祖父に見せることはできませんでした。
入学式の日新たな門出なのに
喜べませんでした。
唐突に始まる過激ないじめ。
男女問わず。
私は完全に壊れてしまいました。
中2の4月。
私は市民病院に入院しました。
学校で意識を喪失し
緊急搬送されたのです。
それからはいろいろありましたが
それはまたの機会に。
私が祖父を失ったあの日。
私は大きなものを失いました。
大好きだった祖父と心。
祖父の死は
私にとって壊れていくきっかけに
過ぎなかったのです。
ここまで読んでくださった皆さま。
どうか。
大切な人にはその人が居るうちに
沢山感謝を伝えてください。
そして自分の心は壊れないように
守ってください。
これは心を壊した私からのお願いです。
壊れた心は二度と元の形にはなりません。
あなた様があなた様らしく
生きていけるよう
心からお祈り申し上げます。
おわり