曖昧さのなかにあるもの
ふと持て余した感情を
雑談だったり SNSにポトり落とす
結論がほしいわけでもない
誰かが同じレベルで 温度で 感じとってくれることは
それなりに何かの材料になるから
ゴミ箱ではなく ひとがいるところに投げこむ
だけどたいていは
どさくさで関係ないゴミを投げこまれたり
とか
とか なんなら
的に 謎に冷たい水を浴びせられたりする
元気にしてほしくて話しかけたんじゃない
そもそもそこが大間違いだ
この感情を あわよくば誰かと堪能したかっただけ
きにしたかった だけ
深刻にはならない程度に この焦げたマシュマロ
一緒につっついてみてよと 投げかけただけ
最近、過剰に平常に戻そうとするスタビライザーのなかで
生きているようなきがして落ち着かない
バイオリズムからはみ出た感情は 即座に修正され
誰もが見知った座布団のうえに勝手に着地させられる
多様性とかいいながら どんどん均一化
ああ、あれね、とラベルを貼られてかたづけられる
一方で派手なリボンでもつけていれば
中身がなかろうとも 個性的ともてはやし
みるからに自己愛の怪物を独創的だとか
自由だとか 寛容ぶる
「わかったふう」が降りそそぐ世界
情報がありすぎて SNSでとんでくる問題が多くて
さっさと分類して片付けたいのかもしれない
ならば関わらなければいいだけなのに
わざわざ入ってきて いいひときどりで
不快を置いてゆく不可思議
不特定、通りすがりの場でなら
そんなコメントがくることも5000歩譲ってしかたない
でもクローズドの場で
そこそこコミュニケーションもある知り合いにされると
この先 もう会話はできないひとだと理解する
ひとの感情は複雑で単純だ
弱っているときこそ 小さな断片からも本質が透けてみえる
そのとき得た印象はその先もくつがえらない
〜だとはおもいます「けど」
失礼かとはおもいました「けど」
文章は立ち止まれるんだから
けど を使う時点で愚かさにきづいて消せばいい
呼ばれたわけでもない
弱ってるところに 諭しや教育をして
正義の証明にすりかえている魑魅魍魎もいる
他人のネガティブな感情に寄り添えないのはしかたない
無理に寄り添う必要なんてない
わかってほしいともおもってない
スルーをするか そういうときもあるね、って
そんな程度でいいんだとおもう
元気だしてなんて きにしないように なんて
一見やさしげで聞き心地いいけど
電気を消された暗い廊下に置き去りにされ
「わたしは関わらないけど あとはじぶんで片付けて帰ってね」と
同義の言葉だと なぜわからないんだろう
経験値の不足?本を読まなくなったから?
すぐ白黒つけるゲーム脳だから?
白でも黒でもない曖昧な機微のなかにこそ
思考と情緒の種があって
そこで弾力みたいなものも育って
何かあったときにもこらえる力にもなるとわたしはおもう
それに
そういう瞬間にしかない感情と思考を 誰かとつつくことは
最高にインテリジェンスな遊びでもある
暖炉の前で年代もののブランデーでも傾けながら(イメージです)
映画のセリフを共有したり
くだらないことでも哲学めかして 笑っておとしこんでいけたら
すばらしい曖昧時間になるとおもう
解決でも誘導でもない そういう「時間」を味わいたいだけ
すぐ捨てればいい感情を あえて楽しんでるだけ
アドバイスなんて1ミリも求めてない
こうですよ、こう考えるといいですよ
そういえばSNSもアドバイスであふれているな
いつもピカッと心身潔癖に保てないことを
割り切れないことを 悪のように
強迫観念を助長してはいないだろうか
曖昧さは生きるのりしろ
弱そうで強いひとは
のりしろがいっぱいあるからで
それを大事だとわかっているからで
それを 不穏なものと そそくさと切り落とし
勝手にご満悦で
とにかくみためが揃ってればいいんだとばかりに
安物香料と粗悪な原料がぼろぼろこぼれる
怪しい国の派手なウエハースと一緒の棚に並べられ
よかった元気になったみたいで、なんて言われたら
わたしのすてきな曖昧はどうしてくれるのよ
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https://note.com/lily_mints/n/na238d8a0753b
リリィミンツ
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