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デジモンアドベンチャー02映画一作目の雑記
今年はデジモンアドベンチャー25周年ということでアニバーサリーイヤーです。ということで、映画のリバイバル上映にいってきました。今回は、デジモンアドベンチャー02前編 デジモンハリケーン上陸!!/後編 超絶進化!!黄金のデジメンタルについての感想、雑記です。
この物語をどう読み取るか①
この映画って解釈難しくないですか?笑 例えば一作目「デジモンアドベンチャー(映画)」において描かれたのは、子どもたちとファンタジーの出会いの物語でした。端的にいえば怪獣映画のようです。未知との遭遇をきっかけに子どもたちがファンタジーに満ちた冒険を始めるための前日譚。
二作目「ぼくらのウォーゲーム」では世界を揺るがす脅威から人類を守るヒーローたちの戦いを描きました。インターネットのなかで行われるリトルウォーでありながら、その戦いに負けると核ミサイルが爆発してしまうというトンデモスケールの物語でした。言わずもがな、サマーウォーズの原型となった作品です。
さて三作目、ファンの間ではデジハリと呼ばれる本作ですが、時系列的なつながりは全くありません。またTVシリーズとの連続性もありません。ウォーゲームとのつながりもありません。ウォーゲームの続きはディアボロモンの逆襲という映画四作目へとつながります。え、ウォーゲームとのつながりはない? 今回のリバイバル上映ってウォーゲームとデジハリじゃないんですか。あれ?なんで?
この物語をどう読み取るか②
物語のつながりがないのにこの二作品を同時上映にしたことには、全ファンが首をかしげたことでしょう。考えてもしょうがないので、とりあえずこの謎については置いといて。
上記で触れたように、他の二作品(映画デジアド、ウォーゲーム)については驚くほどシンプルに物語を概観することができます。しかしデジハリについて語ろうとすると「これってどういう物語なん…?」と言葉に窮してしまう。ただ単純な映画ではない。一筋縄ではいかない解釈の沼にハマってしまう。そんな映画について、今回はじっくり考えてみようと思います。
ストーリー
アメリカが舞台。主人公のウォレスは、双子のデジモン(チョコモンとグミモン)と幸福に暮らしていました。しかしある日を境にチョコモンは謎の風とともに姿を消し、離れ離れになってしまいました。
時は進んで、デジモンをパートナーにもつ選ばれし子どもたちがこれまた謎の風とともに姿を消すという事件が発生しました。TVシリーズの主人公たちは姿を消した子どもたちを探すべく、旅を始めます。
謎の風の正体
この作品に度々登場するのが謎の風で、風とともに現れるのは巨人の姿をしたデジモンです。作中でこのデジモンは「チョコモン」と呼ばれます(正式にはウェンディモンと呼ばれます)。したがってここでは「謎の風=チョコモン」と考えられます。よって「子どもたちをさらったのはチョコモン」ということになります。
一方で、物語の最序盤、花畑で走るグミモンとチョコモン。二匹のパートナーであるウォレスたちは謎の風によって離れ離れになってしまいます。謎の風によってさらわれたのはチョコモンです。ここでチョコモンは、グミモンとウォレスと離別してしまいます。
さて、「謎の風=チョコモン」「子どもたちをさらったのはチョコモン」と定式化したはずなのに、「最初の被害者であるチョコモンをさらったのも謎の風」ということで、矛盾が生じます。
チョコモンはさらわれたのではなく、自ら去ったと考える
グミモンとチョコモンというデジモンは、双子のデジモンです、ウォレスによって二匹とも愛され、また二匹もウォレスのことが大好きです。十分な愛着関係が形成されていました。
しかしきょうだいというのは、愛着対象(この場合はウォレス。一般には母親や父親となります)の取り合いをするのが定説です。どちらかが損をしていると感じたり、頼りたいときに片方のきょうだいに手を焼いていたり、親は自分が甘えたいときに都合よく甘やかしてくれる存在ではありません。こうした同胞葛藤により「自分だけを愛してくれないウォレスなんていなくなってしまえばいい」拗らせたことで、チョコモンは自らウォレスのもとを去ったと考えると、論理が破綻しません。
ですがこの考え方には多少の無理があります。ウォレスを独り占めしたいとチョコモンが考えるのなら、グミモンを攻撃するはずです。あるいはウォレスに文句を言うはずです。グミモンさえいなくなればウォレスを独り占めできるのに、なぜ自ら去るという回りくどい方法を取ったのでしょうか。これについては、チョコモンは元来抑制的な性格をしていて、自己主張する力に乏しかったという解釈ができそうですが、いまいちしっくりきません。なぜならグミモンもチョコモンも赤ちゃんデジモンだからです。赤ちゃんはギャンギャン自己主張してなんぼですよね…。うーん…。
子どもをさらって幼児化させ、ウォレスを探した
ウォレスを探すためにウォレス以外の子どもをさらって幼児化させることで、幼いウォレスかどうかを確認してまわりました。つまり、チョコモン自身が愛されていると感じていた、ウォレスの幼少期に戻り、今のチョコモンを愛してもらおうとしたのでした。
チョコモンは成長して、ウェンディモン→アンティラモン→ケルビモンへと変貌していました。ケルビモンの力によってウォレスも幼児化させられてしまいましたが、幼児化したウォレスはグミモンとともにケルビモンを討ち倒そうとします。絶望したケルビモンによって食われたウォレスは、ケルビモンのなかにかつてのチョコモンの幻影を発見します。チョコモンの幻影は優しく微笑んで、ウォレスによって討ち倒されることを望みます。ケルビモンに変貌したことで、自分では暴走を止められなくなっていたチョコモンは、ウォレスを諦めること決意します。ウォレスがチョコモンにとどめをさすことが、ウォレスの愛のようにも思われます。切ない。
で、結局どういう物語なのか
討ち倒されたケルビモンは悪魔のような外見から、天使のような美しい姿へと変貌し、消えます。ケルビモンはウォレスの愛を感じることができたのでしょうか。そういうシーンだと思いたい。
で、ですよ。これは一体全体どういう物語なん。愛を受け取り損ねた子どもが、愛情を憎悪へと拗らせ、愛されないなら殺してしまえといわんばかりに襲いかかり、浄化される物語でしょうか。子どものときにオンタイムでこの映画を見ましたが、大人になってもわからん。それからエンディングでのイラストもわからん。大塚康生さんという凄腕アニメーターによって描かれましたが、これにどういうメッセージが込められたものなのかもわかりません。大塚康生さんの『作画汗まみれ』という自伝的な著作においても、東映の周年企画で描いた程度のことしか語られていません。いったいぜんたいなんなんだ…。
ファンの皆さまぜひ感想ください
いちデジモンファンとして、この謎の物語をどういう風に読み解けばいいのかということに長年苦しんでいます。古いマイナーな映画なだけに、解釈や感想がインターネットに少ないです。さみしい。
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