脱サラ手記: 院進決意編
大学院に行きたいと騒ぎ立ててはや2年。いや、もっとか。
無事に合格し、今は脱サラの準備を始めようとしている。脱サラといっても留保付きである。正社員から請負か何かになって働ける時だけ無理なく働くつもりだ。
とにかく、私の人生においてとても貴重な経験なので記録しておきたい。
今回はとりあえず全体的な人生設計の話でも。
人生プラン
会社を辞めて次に何をしたいか考え出したのは、入社3ヶ月後くらいだと思う。
理由は、社会人になってからも学生時代と同じ興味関心で情報を追っていたからだ。移民・難民と中東である。
卒論のテーマは、中東地域における難民問題だった。しかし、一番の関心は日本における移民・難民問題なので、少し後悔があった。当時はどちらも興味があって、より大学やゼミの手法に合っている方に流れたのだ。
もう勉強したくない、知識を得るだけで満足だから研究は向いてない、などと嘆き、指導教員にはほぼ相談せず、それはそれは内容の薄い作文を提出して卒業した。
そう振り返って思いついた選択肢は、中東での日本語教師、青年海外協力隊、大学院、留学、ワーキングホリデー、在外公館派遣だった。
実務経験や年齢制限などを調べて、とりあえず資格として日本語教育能力検定の勉強を始めた。
ちなみに、日本語教師はボランティアベースで経験があり、日本で暮らす外国にルーツのある人々との接点として有効だとも考えていた。
院進の決断
大学院の受験を決めたのは、社会人8ヶ月目あたりだと思う。2022年末に人生プランのようなものをノートに書いていた。漠然とした海外への憧れに折り合いをつけ、日本における多文化共生の実現をライフワークにしたいと改めて認識したのがこの頃ということだ。
これはタイムカプセルに埋めて4次元に飛ばすべき黒歴史かと思ったが、そうでもなさそうだ。
その時は、2029年に大学院に入学することになっていたようだ。それまでに資格を取って語学をやり直して洋裁やピアノやダンスをやり尽くそうと考えていたらしい。
その半年後くらいに、院進を2026年の予定に早めている。仕事内容が性格に合っていないことに気づいたのかもしれない。欲張るにはあまりにも薄給であることにも。
最終的には2025年4月に入学予定である。新卒3年目で25歳は節目なのでちょうどいい。
志望校の決定
日本における移民・難民を研究対象とし、出願に卒論も推薦状も不要な大学院はかなり限られる。
調べたうえで、社会人2年目の2023年には3校の説明会に参加した。
卒論は掘り起こせるレベルではなく、推薦状はどこの誰に頼めばいいかわからないので、この条件は私にとっては大切だった。良くない選び方だとは思う。
また、日本の移民・難民研究ができる大学院も案外少なかった。国際協力やグローバルガバナンスや地域研究ではなく、日本に絞ると、研究機関は出てきても指導教員になってくれる先生はそれほどいなさそうだ。
結局、学部1年の時に参加したNPOのセミナーで講演していた先生の研究室を志望することにした。5年越しに伏線を回収する気分だった。
他はあまり魅力的に思えず、予算も少ないので、そこ以外は受験しなかった。
留保付き脱サラ
最初、大学院へ進学するなら会社は辞めようと思っていた。それが、データサイエンスをかじっていたら気が変わってしまった。受験の約1年前のことだ。
データサイエンスで学んだことを実践するには、今の会社でマーケティングをやらせてもらうのがいいと思い至ったのだ。
この時、長期履修制度を使って、進学後も正社員のまま時短勤務できるかもしれないと考え始めた。そのため、マーケティングだけのポジションは弱いと思い、会社の経費でDXのリスキリングも受講した。日本語教育能力検定試験の結果が出た後、2024年1月から3ヶ月間である。
だが、正社員のままではジョブチェンジできないようにも思えた。今の職種からは離れたかったのだ。
後に、メインの業務が忙しいうえにマーケティングとDXで残業して勉強時間が減るのはアホだと気づき、その2つで実績が出なくても受験を最優先にすることになる。
それでもたぶん会社側はそこそこ評価してくれてるので、ね。
なお、次の記事は、受験のタイミングは決めたがまだ会社を辞めようと思っていた時のものだ。
最終的には請負か何かで契約し直すことで合意している。会社との相談は別で書こうと思う。
キャリアプラン
現時点では、学部の時に投げ出した公務員試験に再挑戦しようと考えている。
移民庁ができたらそこで働きたいのだが、そんなことはしばらく起こり得ないと思うので、まぁ調べて考えて、2年後どうなっていることやら。
学部で全部懲りたと思っていたのに。先が見えなくて期待できそうだ。