女子校教育の賜物とは何か◇その5(終)◇
あなたは聖母マリアの像を実際に目にしたことがあるでしょうか。彼女の足下までしっかりと見たことはあるでしょうか。
聖母マリアは、慈愛に満ちた微笑みで私達のことを優しく見守りながら、その足下では静かに蛇を踏みつけています。
これは旧約聖書において、蛇が、アダムとイヴに知恵の樹の実(いわゆる禁断の果実)を食べるようそそのかした、と書かれていることに由来します。
さて、今回も「女子校教育の賜物とは何か」について書いていこうと思います。最終回の今回は “カトリックの女子校特有の価値観” についてのお話です。
まずはじめに、女学院に入学して、意外に感じたことがひとつあります。
それは、「キリスト教の学校だから主役はイエス・キリストだと思っていたら、違った」ということです。
私達は、「イエスさまのような生き方を」と教えられるのではなく、「マリアさまのような生き方を」と教えられます。
(※この辺は女子校特有の教えなのか、共学または男子校のカトリック校ではどのように教えられるのか、詳しく存じ上げませんので、ご存知の方は是非ともコメント等お寄せくださいませ。)
女学院内には何体ものマリアさまの像が設置されており、絶えず私達を見守り続けます。もちろん各教室内にも、マリアさまの像と絵が必ず飾られています。
カトリックの女子校教育における理想像は、マリアさまなのです。
では、“マリアさまのような生き方” とは、一体何でしょう。
この問いに対するよくある誤答は、“良妻賢母” だと思いますが、実際のところ、そのような教育を受けた記憶はほぼありません。
マリアさまはイエスさまの母親なので、私達は、母親の子に対する愛については学びましたが、だからと言って、女性の自己実現を否定したり、夫や子を支えるために家庭に入ることを推奨するような教育は、一切受けませんでした。
(そもそもマリアさまは、処女のまま神の子イエスを身籠ったことになっているので、捉え方によっては、“妻” という概念すら存在し得ません。私達は「母とは」を学ぶことはあっても、「妻とは」を学ぶことはありませんでした。)
おそらく、「女性の社会進出を!」という世の流れを汲んだ部分もあるとは思いますが、私達は “自己実現” だとか “キャリア形成” だとか、そういった、「自分の人生を自分で切り開いていく」ことを主眼とした教育を受けたのでした。
女学院では、中学・高校の6年間、毎週必ず1コマ、“宗教” という授業がありました。
そこでは、もちろん聖書に書かれていることについてを学んだりもしましたが、女性の生き方についても学びました。
ある時はココ・シャネルについて、またある時は緒方貞子さんについて、そしてまたある時はマザー・テレサについて……。
彼女達は皆、周囲からの有言無言の圧力をはね除け、「自分の人生を自分で切り開いた」女性達です。
彼女達とマリアさまの、どこが繋がるのかと思われるかもしれませんが、
冒頭にも書いたとおり、マリアさまは優しい微笑みを浮かべながらも、足下では蛇を踏みつけています。
つまり、悪いものは悪い、ダメなものはダメだと、はっきり主張する強さを持ちなさい、「○○だから」「○○なのに」といった有言無言の圧力を受けても、静かに微笑みながらはね除ける強さを持ちなさい、ということなのです。
要するに、マリアさまは、強くしなやかに生きる女性のお手本だったです。
また、◇その3◇でも書きましたが、私達は一人ひとりが、神様から愛されている、かけがえのない存在であると教えられ、自分の存在を肯定的に受け止めてもらえる環境下で育ちます。
基本的には頭ごなしに否定されるようなこともなく、「あなたがたはできる人達なのよ、頑張りなさい」といった風です。
女学院内には修道院もあって、シスター方もいらっしゃいますが、このシスター方というのが、女学院内の “のほほん” とした雰囲気の根源だと私は考えていて、基本的に彼女達は常に穏やかです。
たまに叱られることがあったとしても、「あなたのおばあさまのつもりで言うわね」と、どこまでも愛情がついて回る感じなのです。
私が女学院時代のことを “ぬくぬく” と表現するのも、この辺りのイメージに由来します。
そしてこのような環境下で育ったため、自分が誰かを教育する側に回った際にも「肯定的に育てる」ことを基本とする人が多いです。
この辺りの感覚は、(カトリック特有とは言えませんが)カトリック教育の賜物かなと感じています。
更に、カトリック校に限らず、女子校の特長としてよく挙げられるのは、
女子しかいないのだから、とにかく全部、自分達でやる。重い物だって協力して持つし、生徒会長だって女子だ。
こういった類いのことだと思います。
これは本当にそのとおりで、“全部自分達でやって当たり前” なのです。
荷物が重くて一人で持てないのなら、二人・三人で協力して持つしかないし、生徒会長など何かの長に就くのも皆、女子です。当たり前です。
そしてそこには「何かの長は男子の職だ」という概念自体が存在しません。
(そうした概念が欠落していたせいで、その後、私は大学に入ってから、色々とカルチャーショックを受けることになり、そこそこ苦労しました。)
女子しかいない環境というのは、「自分が女子であることによって自動的に被る理不尽な不利益」が完全に排除された環境です。
◇その2◇で、「女子は理数系が苦手だ」という、謎の偏見に晒される機会がないと書きましたが、これもその例のひとつです。
女子校で「女子だから」「女子なのに」は、基本的に成り立たないのです。
それ故、“自分は何者にでもなれる” と信じて疑わない子が多く見られます。
「私は医者になる」と思う子もいれば、「私は総理大臣になる」と思う子もいました。もちろん「私は保母さんになる」「私はCAになる」と思う子もいました。そして、各自それぞれの目標に向かって、純粋に努力します。
そういった風景は、女子校ならでは(共学だとなかなか難しい)だろうなと、今になってつくづく感じます。
長々と書き連ねてきましたが、“カトリックの女子校特有の価値観” といったら、この辺りがメインかなと思います。(細々したことは他にもいろいろと思いつきますが……。)
この note を読んで「こんな学校無理!」と思うのであれば、カトリックの女子校を進学先に選ぶのは止めた方がいいと思いますが、
「女子が多感な時期を過ごす場所として、あながち悪くもないのでは?」と少しでも思ってもらえたのなら、私も note を書いた甲斐があるというものです。
世の価値観の変化を受けて、男女別学、宗教校というのは、まさしく風前の灯火のようですが、
各学校にはそれぞれの教育理念や建学の精神があり、それらに賛同できるのであれば、思い切って進学してみるのもいいと思います。意外としっくりくるかもしれません。
◇その4◇でも書きましたが、似たり寄ったりの価値観を持つ人間が集まりやすいので、ピタリとはまれば、かなり快適に過ごせることでしょう。
いずれにせよ、男女別学、宗教校と聞いただけで毛嫌いするような現在の風潮が、少しでも変わるといいなと思う、今日この頃です。
かなり長くなってしまったこのシリーズ、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました(*´`*)
◇◇◇おわり◇◇◇