「どうせ無理」と完璧主義と強迫性障害
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逃げてばかりの人生を送ってきました。
ちょっと無理そう、失敗するかもと思ったことはだいたいやる前から逃げるか、
ちょっとやって「やっぱり私にはできない」と思ってすぐやめる。
根性がないとも言えるし、飽きっぽいとも言える。
でもそれだけではない気がする。
昔から、「やりたい」と思ったことを何かと理由をつけてあきらめることが度々あった。
たとえば小さい頃から踊ることが大好きだった。
小学校卒業までの間にバレエとダンスと器械体操、そして新体操も習い、
ジャンルは様々であれ常に何かしら踊ることをしていた。
中学生になり部活を決める際には、
ダンス部か器械体操部でめちゃくちゃ悩んだ。
どっちも少しずつやったことがあって、
どっちもやりたかった。
でも、ダンス部に入ると言ってる子たちのキラキラオーラに負けて入部をあきらめた。
だから体操部に入部した。
器械体操も大好きだったし、
体操部に入ったことは少しも後悔していない。
だた、あんな理由でダンスをあきらめたことをずっと後悔していた。
高校を卒業するまでの6年間、
私が入れなかったダンス部に所属している子たちをどこか羨ましい目で見ていたと思う。
そして私の中に、うっすらと、
大好きなはずの「ダンス」や「踊ること」への劣等感がすみつくようになった。
さて大学に入学した。
ここにも規模は小さいもののダンス部がある。
今度こそ。
しかしよく聞いてみると同じ学部の先輩が一人もいないだけではなく、
またしても「キラキラ」系の学部(私の独断と偏見による)の部員しかいないのだと。
キラキラ系とは無縁の人生を送ってきた私がなじめるわけがない。
しかも同じ学部の先輩がいないなんて、
部活中何を話せばいいんだ。
やっぱり無理だ。
そんな理由でまたやめた。
でももう大学生なので自分で選択できる行動の幅も広がっている。
サークルに入らなくても近くのダンス教室に通えばいい。そうだ。
そうしてダンス教室に通い始めた。
楽しい!
やっぱり音楽にのって体を動かしてる時間が何よりも解放感を感じる。
幸せだなぁ。
しかしそんなことを思うのも少しの間で、
数ヶ月通うとなぜか心が折れてくる。
なんか行きたくないなぁ…。
だって、全然うまくなってる気がしないんだもん。
上手な人たちを見ると自分のダサさに悲しくなる…。
上手な人たちは私よりずっと長いこと習っていて、
私は始めたばかりで、
差があるのは当たり前。
できないから練習する。
そしてうまくなっていく。
のはずなのに、私の頭は今「できない」ことにばかり意識が向く。
「ダンスをやりたい」と思ったその時にすぐ始めていれば、
今頃もっとうまくなってただろう…
過去の自分を恨む。
下手くそな自分のことが許せない。
だから見たくない。
「行きたい」で通い始めたはずなのに、次第に
「行くのがつらい」
「行きたくないけど行かなくてはいけない」の義務になってくる。
そしてそのうちフェードアウト。
そんなことを何度か繰り返しました。
とにかく、自分のことが許せませんでした。
周りの人ができてることに手こずる自分。
大好きだったはずのダンスは、
「無能な自分を見せつけられる」というつらいイベントになってしまいました。
これがけっこうトラウマになったのかもしれない。
すっかり自信をなくした私は、
「やりたい」と思ったことに挑戦するのが怖くなりました。
「やりたい!」と思ったそばから
「どうせ無理」
「どうせうまくならない」
という意識が湧いてきて、嫌な気持ちを思い出してあきらめる。
別にうまくなくたっていいのに、それを許せない自分がいる。
一種の完璧主義なのかもしれない。
通常は「完璧主義」と聞くと「完璧になるまで努力する」というイメージだけど、
私の場合は「完璧じゃないとすぐあきらめて逃げる」らしい。
「うまくなるようにがんばろう」
ではなくて
「うまくないからやめよう」
になるのはなぜ?
結局は、
「できない自分に傷つくのが怖い」
から。
怖がってるだけなんですよね。
自分に向き合うのが怖いんですよね。
全然ストイックじゃないタイプの完璧主義でした。
これに気づいたとき、ちょっと自分でショックでした。
逃げてばっかりの自分、カッコわる。って。
一生逃げてんのか?って。
だから、自分と向き合うことを決めました。
自分が見ないふりしてきたカッコ悪いところに向き合って、
ほんとにやりたいことに向き合おうと。
その過程できっと、見たくない自分がたーくさん出てくる。
でも覚悟を持って、向き合おうと思う。
より良い人生のために。
不潔恐怖の克服もそう。
5年以上も完治せずに居座り続けてる理由は、
それが不治の病だからではなく、
私自身が治らなくさせている理由、
向き合わずに避けている何かがあるから。
その大きな要素として前述の「完璧主義」もあると思う。
「清潔」「不潔」を完璧に分けるなんて不可能だから、
不潔恐怖の克服も不可能だとはじめからあきらめている。
だから私の場合「不潔」そのものに慣れるよりもまず、
「清潔」「不潔」を完璧に分けることはできないという「不完全さ」を受け入れる、
そのことが大きな一歩だろうと思う。
ゆり
※最後まで読んでくださりありがとうございます。
強迫性障害、その他生きづらさに向き合い、自分を変えるため修行中です。
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