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割と普遍的な日本的家族の話/『どうすればよかったか?』感想

filmarksに感想らしきものは書いたし、それも全く嘘ではないが、もうちょっと本音に近い部分をnoteに残しておく。
具体的には、filmarksには特に他の情報に触れないまま映画単体の感想をネタバレなしで書いたのだが、このnoteではもう少し他の情報に触れたり自身の知識や体験と照合しながら考えていることも踏み込んで書く。ネタバレもある。

感想を抱くこと自体がすごく難しかった。これは、内容面というより技量面による問題だと思うのだが、そもそも、監督が何を意図してこの映画を撮っているのか、が曖昧であると思う。

映画の冒頭では「姉の統合失調症の発症要因の特定」「統合失調症の症状の説明」を目的としないことを明示した上で、『どうすればよかったか?」とタイトルが表れる。ということは、「どうすればよかったか」を考えるための映画である、とひとまず了解するのが筋だろう。

そして、結論から言えば、これは監督自身が「自分は/自分たち家族は、どうすればよかったか?」という自問自答であり、そこに至るまでの家族全体の軌跡を写していると思う。そういう意味で、かなり個人的な映画である。

しかし、最初の演出で「どうすればよかったか?を、この後に続く映像を観て判断してください」と私は受け取った。
し、これはそんなに特殊な受け取り方では無いんじゃ無いかなと思っている。その前提でこの後の感想を書く。


本音を言ってしまえば、この映画はひどく観づらいものだった。

まず、家族の言っていることが聞き取りづらい。北海道弁の訛り、両親の老いゆえのモニョモニョした喋り、姉の支離滅裂な発言、家族が口々に話し、会話が重なってしまう瞬間。断片的にしか発言を拾えていない箇所もあり、後から他の人の感想を読んで「そんなことを言っていたのか」と思うこともあった(別の映画の時に結構記憶違いしてない?と思うこともあるので、誰かの感想が必ずしも事実に基づいているとは言えないが)。
監督の語りだけがスッと聞こえてくるし、視点も監督のものであるので、監督の語りが一番寄り添いやすいものになるのは当然である。

さらに、情報がかなり制限されている。映画の開始時点で発症からかなり時間が経過している(18年とか)。また、監督は同居しておらず、年に1,2度の帰省になるためかなり時間経過が早いし、突飛である。定期的な観察とするには、かなりスパンが開いている。例えば、ある年に帰省したら家の扉に南京錠がかかっていたが、それはその日に急に行われたのではなく、その前の1年があったからで、その前の1年にあの家族に何があったかは、私たちは観られない。

自分に置き換えても思うのだが、年1で会う親戚と共有できる情報量で、自分の家族を全て語り切れる訳は無い。
私が今仕事をせずにひきこもっていることも、それまでにはひどく入り組んだ過程が約2年、もしかしたらもっと長期的かつ根本的な問題が横たわっているのだが、そんなことは親戚には理解できない。「せっかく良い大学入れたのに、就職できなかったんだ」「早く働きなさい」となるだけ。

さらに細かいことを言うのであれば、観客に与えられる情報は映像が回っている時期のみで、その当時の両親や姉の年齢や社会的状況を特定できる情報は殆どない。「父は大正15年生まれ」等の説明は最初にされるが、じゃあ今何歳なんだろう、みたいなことが少なくとも私には咄嗟に計算できなかったし、発症からどれくらい月日が経っているのか、スタート時にも特に触れられていなかった記憶があり、全くわからなかった。

また、統合失調症に関する情報もほぼ存在しない。私はある程度病識があるので、ほぼ常に症状が出ている状態なのはわかるが、人によっては「落ち着いている時もあるんだなあ」くらいにしか思わないのかもしれない。
前情報を割と入れているつもりだったのに驚いたのは、姉の発症時期がかなり昔であると言うことで、こうなるといよいよ、その当時に病院にかかっていたらどのような治療が受けられたのか、全く知識がない。
映画の終盤で父との対話の中で当時の「治療」環境に監督自身が触れるが、実際「もっと早く治療していればよかった」とは私自身は全く思わなかった。
あと個人的に、最初に救急車で運ばれて行った先の病院で「健康です」と言われたのも、あながち嘘ではなかったのではないかと思うし、最後に父親のいう「間違ったことはしていないと思う」も、割と本心ではないかと思う。
行動次第でもっと良い未来もあり得たかもしれないが、もっと悪い未来もあり得て、そのなかでぴったり最善を選ぶというのはかなり困難である。

最後に、監督が当事者視点であるためフェアではない。ここに関しては製作者側がある程度了解済みな上、むしろ自覚的に自身の心境の変化を映像で表現したのではないか、と言う点は評価したいと思うのだが、「どうすればよかったか?」という問いに答えようとした際に、ややこしさを増しているという点では触れておきたい。

序盤、監督は確実に、両親を責めたい、という気持ちがかなり強く出ていたと思う。
姉への恐怖心や抑圧されてきた苦しみから、その環境を作り出した(と思う)両親に対して責めたがっているし、この家庭で育った自分の苦しみを世間に知らしめたい、という印象を受けた(観ている間でだんだんと印象が変わっていくのだが)。

私が一番印象的だったのは、家族全体として姉の一部としての「病」を無視する部分だ。食卓で姉が騒ぎ出しても、他の家族の会話を続行するシーンも多かったが、それ以上に個人的にショッキングだったのは、監督が姉に語りかけるシーンだ。
呼びかけに一切応じない姉に「なんでもいいから話してよ」と声をかける場面はとても胸が苦しくなった。が、それに対して姉がいつものように支離滅裂な発言をするところで、ブツっと場面が終わる。この編集が、かなりショッキングだった。
誰かの感想で「監督だけは姉に語りかけていた」と言うものがあったが、私はむしろ逆の感想を抱いた。監督自身も、病を姉の一部として扱わないんだ、というのが裏切られた感触があった。
(以下のnoteで藤野監督がここに関して割と自覚的な語りをしていて驚いた、とともに、少し好意的に解釈できるようになった)

先述したように、私は最初の病院で診断が降りなかった、と言う両親の発言はあながち嘘ではないかもと思った。が、この映画では「絶対嘘だ」という信念のもとに作られているように感じる。「もっと早く医者に診せれば、姉は診断されて適切な治療に繋げられたはずだ」「それを両親が阻んでいる」とも。事実はわからないのに。

このような状況で「どうすればよかったか?」は、観客は絶対に判断できない。だから、違う観かたをすることになる。「家族の在り方」だ。


観終えて色々な感想を読みながら逡巡して、最終的に考えたのは、
「この家族は、かなり親が大きな傘になっている家族だったんだなあ」と言うことだった。

実は観ていてかなり強烈な違和感だったのは、監督が「これはお姉ちゃんだけじゃなくて、パパとママの問題でもあるんだよ」と言った場面。
その後様々なライフステージの変化により帰省の頻度も上がり、より家族の内側に入っていく中で、最終的には「なぜもっと早く親を説得しなかったのか」と自省の念も強くなったのだとは思うが、すでに少なくとも40は超えている状態で「姉と親の問題」と言い切れる家族、って凄いな、と思ってしまった。
勿論、発症してすぐのころは年齢的に力が無かったと思う。彼は常に被害者でもあったと思う。家を出たことも正しい選択だったと思う。しかしそれは、自身の健康のために、自分の人生のために、正しいのである。
一人だけ脱出した状態で両親のみを責めるのは、「なぜあの姉をどうにかしてくれなかったんだ」と言っているように聞こえた。

そこに悶々としながら色々な人と話したり感想を読んだりしていると、親を責めると言うことは、それだけ監督自身の中で、ことさら家族に関しては、親の存在が大きすぎるんだろうなあ、と言うことに至った。親の言うことに逆らえなかった、親の決定が絶対だったからこそ、親の決定を責めることしかできなかったんじゃないか。自分が勝手に行動するということは、はなから選択肢になかったんじゃないか。



「両親を説得すべきだった」と言う表現に感じる違和感もそれだった。年老いた両親は、説得できなくても力づくで行動することが確実にできる。両親の了承を得なければいけない、と言う観念が彼自身の中にあったのではないか。
100才近い父親との最後の対話も、私は「この歳になっても、親は親として子供からの批判を受けなきゃいけないのか……」と思ってしまったが、そういう家庭だったのだと思う。
対話ができるという状況はある種健康的だと思うし、それが出来たのが、他の家族がいなくなり2人きりになり、お互いが老いてからだった、ということなのかもしれないが。

そういう意味では、監督自身も、姉から逃げていたのではなく、また家族の一員として縛られ、彼自身が家族から逃れようと足掻いて、ようやく最後に少し自立できたからこそ生まれた自問ではなかったのではないか。

なんとなくだが、監督を責める観客が少なく、そして親を責める観客が多い時点で、この家族の構図は結構普遍的なんじゃないだろうか。

私自身も、同じ状況に陥ったら、外には愚痴をこぼすだろうが、自分で勝手に行動するんじゃなくて、母親に相談して、拒絶されたらそれまで、で終わってしまうだろう。

この状況は親に支配されているとも甘えているとも言える。一言で言えば依存、なのだが。この、親がかなり強い家庭というのはとても普遍的で、だからこそ、閉じこもってしまったのではないかと感じる。

家族個人の問題を家族全体が抱えてしまうのも、そしてそれを社会に繋げられずに閉じこもってしまうのも、どれも他人事とは言えない。
似たような家庭であれば、全く違う環境からでも、少しバランスを崩せばすぐにこうなるのではないか、と思う。





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