見出し画像

ディズニーとキャンセルカルチャーとポリコレ

最近よく耳にする「キャンセルカルチャー」という言葉。
世界規模で、キャンセルカルチャーがある種トレンドのようになっており
ディズニー社もその煽りを受けています。

Reimagine Tomorrowというポリティカルコレクトネス

2021年9月2日ディズニー社公式アカウントから発表されたこのツイート。
「ディズニーのストーリーテラーとして、視聴者の意見や体験を自分たちのコンテンツに反映していく。デジタル配信における我々の新しい目標の発表と共に、その実現のためにこれまで以上にがんばります!(意訳)」というツイートともに、30秒の短い動画が投稿されました。

はっきりと「何をどうする」 とまでは書かれていませんが、動画から、レイシズム表現が含まれる作品を子供の目に触れないようにしているようしていることが分かります。察するに「レイシズム表現など特定の人種や宗教に対してネガティブな印象を与える作品は制限していきます。」ということでしょう。


調べてみたところ、いくつかの団体から抗議を受け(講義団体名を掲載した記事を失念してしまいました。確認次第追記します。)、2021年1月にはすでに先ほどのツイートの動画に出てきた作品についてアクションがとられていたようです。各コンテンツは削除はされないものの、冒頭に警告が出たり、7歳未満のキッズのプロフィールからは視聴できないよう制限がかけられている、とのことです。(これが新しいSTARブランドなのかな?きちんと調べていないのでそこはまた後日)

つまりReimagine Tomorrowはディズニー社のポリティカルコレクトネスへの取り組みです。

https://reimaginetomorrow.disney.com/

※こちらが上記の一連プロジェクト、Reimagine Tomorrowの公式ページですが、現在はまだ日本からのアクセスは許可されていないようです。
米国で制限されたからと言って、日本でもすぐに制限がかかるというわけではないようです。

こうしたアクションは、世界をけん引するアニメーション企業として、素晴らしい考えであり、「企業の社会的責任」であると思います。ただ同時に、日本人の私から見ると、大きな矛盾をはらんでいる(ていうかやりすぎ?)と感じる部分もあります。

日本人の私の視点

アメリカで取りざたされる人種問題において、日本人の私は、はっきりいって「部外者」です。数年米国で過ごしたところで、やはり本当の意味で「理解」することは難しいのです。

日本のファンの私からすると、Reimagine Tomorrowのアクションは、「(頭では)わかるけど…(感覚的には)わからない」というのが正直な感想です。

個人的には、大好きな作品が制限の対象となってしまうことはとても悲しいです。現時点では、「子供の視聴を制限」しているだけですが、南部の唄のように永久に見られなくなってしまったら と思うと本当に悲しいです。(プライドはどこいった!っていうか、過去の価値観は変わらないし、出ちゃった作品は消せないぞ!くらいに思うこともあります(笑))

しかし、ディズニーは米国の企業ですから、米国の消費者の意見が何よりも優先されて当たり前です。米国ではディズニーの過去の作品について、視聴者から(個人・団体問わず)申し立てがあり、制限が実現された のです。おそらくそれが「現在」の企業としての正しい姿勢なのだと思います。

というように、現在私はこの相反する考えの間で板挟みになっております。

とても良い機会なので、今回はこれらの記事をもとに、視聴を制限された作品のNGだと思われるポイントを個人的な意見を交えながら、一つずつ見ていきたいと思います。

確認したところ、ディズニー社は各表現の問題点について、先程のページで公式見解を発表しているようです。現在日本からは閲覧できないので、おそらくここかなという部分について記載しております。(VPN経由で閲覧次第また追記します。)

記事によると制限されたのは、
・ピーター・パン
・ダンボ
・おしゃれキャット
・スイスファミリーロビンソン
・ファンタジア
・わんわん物語
・ジャングルブック

です。

ピーター・パン

画像1

ピーター・パンはインディアンの描写がNGなのでしょう。

私が子供のころにはすでに「インディアンと言ってはダメだよ」と親に言われていたので、ネイティブアメリカンをインディアンと呼ばなくなってすでに30年近く経つのでは?と思うので、これは少し今更すぎるのかなという印象を受けます。
彼らインディアン、ピーターパンたちとは異なり端的な英単語のみで会話をします。いかにも「未開の人々」という印象を受けます。ウェンディに対してインディアンの女性が「女は踊れない。女は薪を持っておいで!!」と怒鳴るシーンも現代の女性観とは乖離があるのかもしれません。

インディアン自体が実在する人々であるにもかかわらず、人魚や海賊(海賊も実在しますが)と同等にまるで空想のものとして扱われているのも少し不思議です。

ピーターパンは本当に大好きな作品なので、制限されてしまうのはとても悲しいですが、この制限は遅かれ早かれ…だったのだろうと思います。

ダンボ

画像2

ダンボにおけるNGシーンはカラスたちです。

以下、私自身の卒業論文より引用です。

 カラスのリーダーの名前はJim Crowといい、あの悪名高きジム・クロウ法と同じ名前である。ジム・クロウ法とは人種隔離法を代表とする、1880年代に主にアメリカ南部で制定された一連の人種差別法である。またジム・クロウとは白人が黒人に扮して行うミンストレルショウと呼ばれる喜劇の代表的なキャラクターの名前である。
 「ジム・クロウ」とは20世紀のアメリカにおいて黒人男性の通称名であった。つまり、ジム・クロウの名前のリーダーをもつ真っ黒なカラスたちは明らかに黒人の表象である。加えてカラスたちはダンボやティモシーとは異なる黒人英語を話し、陽気なジャズミュージックを口ずさむ。その様子を見れば当時の観客の誰もがカラスたちを「黒人だ!」と認識するだろう。
 しかし、ダンボには明らかな差別表現はない。カラスたちに「悪」や「劣等」といったネガティブなイメージを見つけることはない。カラスたちは、はじめ、空を飛ぼうとするダンボを馬鹿にして笑っていたが最終的にはダンボに勇気を与え、背中を押す存在になる。ダンボにおいて、黒人(カラスたち)と白人(ダンボとネズミのティモシー)は敵対する存在ではなく、協力しあう仲間なのである。

 カラスたちがステレオタイプであることは明らかですが、個人的にはカラスたち自体にネガティブな要素を見つけるのは少し難しい気もします。ただ、やはりジム・クロウという名前自体がネガティブな表現である ということもできますね。

おしゃれキャット

画像3

おしゃれキャットのNGポイントは、彼、 チャイニーズ猫のShun Gonですね。実はジャズ猫たちにはそれぞれ人種があり、彼らは適度にステレオタイプ化されています。特にShun Gonはわかりやすく中国人っぽい。訛りの強い
英語を話し、箸でピアノを弾きます。

個人的には、戦中プロパガンダの日本人描写やThe Simpsonsの日本人描写と比べれば「このくらい…」と思ってしまうのですが、やはりステレオタイプがすぎるのでしょう。

スイスファミリーロビンソン

画像4

スイスファミリーロビンソンはほかの作品と比較すると日本ではあまりなじみのない作品かもしれません。問題のシーンは、海賊たち。白人ではない海賊の集団が白人を攻撃する「悪者」として描かれているのが、問題になったようです。たしかに言われてみるとアジア風(日本風とも言えますね)の海賊が目立ちます。これも子供のころは全く気にしたことがなかったのですが、たしかに言われてみると「白人以外」を悪者として描くのは、現在のコンテクストにおいては不適切と言えるのでしょう。

ファンタジア

クラシックとアニメーションの融合した大作、ファンタジアも制限の対象です。一体どこがだめなんだ!?と思ったのですが、おそらく「くるみ割り人形」より踊るキノコたちの描写かな?と思われます。見るからに中国人風ではありますが、とても美しいシーンですし、キノコなので…無害では…と思います。が、これもやはりステレオタイプだと言われてしまえばそれまでですね。

画像5

過去には交響曲第6番のシーンから、サンフラワーという黒人の女の子のキャラクターも削除されています。

画像6

わんわん物語

画像7

わんわん物語で制限の対象となったのは、おそらくシャムネコちゃんたちでしょう。Si と Am(合わせてサイアム)と名付けられた猫たちは、アジア的な音楽に乗せて、訛りの強い英語で歌い、そしてレディにいじわるをします。「あからさまにアジア人な悪者」というのが強いステレオタイプです。さきほどのおしゃれキャットとスイスファミリーロビンソンでの例を足して2で割ったようなかんじですね。

歌は白人歌手、ペギー・リーによるものです。いいじゃんもう!ペギーリーが歌ってるんだし許してあげて!と思うのですが、どうあがいても彼らは現在のコンテクストにおいては「ステレオタイプです」となってしまいます。白人の演者がわざと中国訛りの演技をするのが余計アウト!とされてしまったのかもしれません。

ジャングル・ブック

画像8

ジャングルブックが制限されたであろう理由は、ほかの例とは少し異質であると、私は感じています。

ジャングルブックは、おそらく動画にもあったように、キング・ルーイがNGポイントかと思われます。キング・ルーイはジャズを歌う南部訛りのオランウータンです。ジャズを歌う・南部訛り・猿 それが黒人侮蔑に繋がる ということでしょうか?

でも、ちょっとまって…!

キング・ルーイを演じたのは、King of the Swingことルイ・プリマです。ルイ・プリマはイタリア系アメリカ人、つまり白人です。
演者を踏まえると、キングルーイは単に「(白人の)オランウータンのジャズミュージシャン」に過ぎず、そこに黒人差別的表現があるようには私には思えません。

キングルーイに対し「差別的である」という申し立てがあったとしたならば、逆説的に「黒人」たちは白人のルイ・プリマ演じるキングルーイに「黒人的要素」を強く見出していたことになります。

こうした状態を「メタステレオタイプ」と呼びます。

どの作品においても該当する(であろう)特定集団からの申し立てがあった場合、各集団は「メタステレオタイプに基づき、申し立て」をしたことになります。製作者側(差別側)と消費者(被差別側)認識が一致しているのであれば、企業は適切に対処すべきでしょう。

ジャングル・ブックについては、その点に疑問が残ります。どう転んでも「キング・ルーイ」はまんま「ルイ・プリマ」にしか思えないのです。

もちろん「黒人」たちがキング・ルーイに「黒人的要素」を見出たとするならば、その原因は長年に渡る白人側のステレオタイプ描写によるものですから、一概に単なるクレームだ。ということはできません。

しかしキング・ルーイを制限の対象としてしまうことは、少し横暴ではないかと思います。

これに関してはディズニー側が「彼はルイプリマですよ。白人ですよ」と言えば済む話なのでは?と思いますが、きっとそれもいまは難しいのかもしれません。

まとめ

今回記事のタイトルに、あえて「キャンセルカルチャー」という言葉を使用しました。
とはいえこれって本当に「キャンセルカルチャーなのかなあ?」という思いも捨てきれません。

結局のところ、私には結局なのかよくわからないままです。

個人的には「過去の作品の制限は悲しいしなんか悔しいけど、まあそれが世の中なんだよね~しゃ~ないね~」という感じにつきます。

だってやっぱりわからないものはわからない。

そもそも幼いころ、ステレオタイプだとか人種がどうとかで作品を見てたわけでもないのです。さっきのシャムネコちゃんたちがアジア人差別だといわれても、「そっかあ」という感じです。感覚的にわかりようがないんです。

差別は「被差別側」が差別だと感じたら、もう差別になります。
差別側に意図があるとかないとかそういうことは関係ないのです。
「差別かそうでないか」を客観的に判断することは非常に難しいのです。

そして、米国において「何が議論の的になり得るか」ということは、あくまでも米国人の価値観に基づき、米国の文化圏内で起こっていることであり、米国人でない部外者の私には「よくわからない」ということしか言えないのです。

---------------------------------------------------------------------------

「何が正しいことか」は、時代によって、立場によって目まぐるしく変わります。

過去の作品における一部の表現に、明確な差別的意図や悪意があったとは個人的には思いません。その当時、白人の価値観としては「当たり前」のことだったのだと思います。せいぜい ちょっと茶化しちゃお… くらいの感覚だったのだと思います。

当時の価値観に基づいて作られた過去の作品を引っ張り出して「これは悪いことだ!」と晒上げる行為はキャンセルカルチャーに他なりません。その意味でディズニーの一連のアクションはキャンセルカルチャーの標的になってしまったが故(というかキャンセル爆撃の回避)だといえます。

ですが、それが現代のコンテクストにおいては「適切な表現ではない」こともまた事実です。「正しいこと」は絶対普遍ではなく、常に変わっていくものですから、過去に作られた作品が時代を経て「正しくないもの」に変化することは自然なことです。

消費者あっての企業ですから、常に企業は消費者の意見を反映させ続ける必要があります。

ディズニーにとってはアメリカだけではなくいまや全世界が消費者です。世界のありとあらゆる多様性を反映させられれば良いのでしょうが、それは非常に難しいというか、無理というものです。どこかの意見を反映すれば、またどこかの特定集団の反感を買う。

先ほども述べたように差別とは被差別側が差別だと感じたらもう差別になってしまいます。ですから場合によっては、ジャングル・ブックのように、「本当に差別的だったのか?」という作品まで攻撃の的になってしまうこともあります。

本来ポリコレとは、「特定集団に 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策」のことを指します。みんながいい感じに幸せになれるように が目的です。ですが、ある一定のラインを超えると、ただの暴力と化します。ある意味表現の統制と同じです。じゃあその一定のラインはどこなのか?そのラインって誰が決めるんですか? という話になってきます。

これらのことを踏まえると、ディズニーが過去の作品を、「南部の唄」のように発禁にせず、内容のあからさまな修正もせず、子供のアクセスを制限するという形を取ったのは、特定集団の意見を反映しつつ、クラシックのファンたちも守れるギリギリラインの選択だったのかな と感じました。

表現の幅が狭まらない程度に、適度にポリコレされていけばいいなあ。でもそれ過去の作品の修正が必須になるし、すごく難しいことだなあーと感じるのでした。

結論:あと、やっぱ部外者だからよくわかりませんでした。もうなんかしょうがない。そういう世の中だから。ディズニーさん采配頑張ってください!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?