五つの”恋駅” 後編
最後の”恋駅”
今後新たに「恋」がつく駅が開業する、もしくは「恋」がつく名前に改称する駅が現れる可能性があることは十分承知の上で、あえて「最後の恋駅」とする。
2023年10月時点において”最後の恋駅”、すなわち5番目に現れた「恋」がつく駅は
恋し浜(こいしはま、岩手県大船渡市、三陸鉄道リアス線)
1985年10月16日開業(小石浜駅)
2009年7月20日改称
三陸鉄道
一首の短歌から
恋し浜は岩手県の沿岸地域(三陸海岸)をほぼ南北に縦貫する第三セクター、三陸鉄道の駅である。国鉄(日本国有鉄道)が既存の山田線、宮古-釜石間の南北に路線を延長させる形で計画を立て、1970年代に大船渡市の盛線(盛-吉浜間)、宮古市の宮古線(宮古-田老間)、久慈市・九戸郡野田村・下閉伊郡普代村の久慈線(久慈-普代間)を開業させた。残りの吉浜-釜石間、田老-普代間も日本鉄道建設公団による工事が続けられたが、国鉄再建法により1980年に工事が中止された。建設した3線も廃止対象とされたため、岩手県は1981年に3線一括運営と工事完成を目指して「三陸鉄道株式会社」を設立させた。
残存区間の工事は1984年に完成。同年4月1日三陸鉄道は盛・宮古・久慈の3線を譲受し、新規開通区間を合わせて、盛-釜石間を「南リアス線」、宮古-久慈間を「北リアス線」として営業を始めた。
小石浜駅は三陸鉄道南リアス線の営業開始からおよそ1年半後の1985年10月16日、綾里(りょうり)-甫嶺(ほれい)間に設けられた新駅である。すなわち線路自体は国鉄盛線として建設され、1973年7月1日から列車の運転に供されている。盛線の開通時から地元で駅設置の要望があったのかどうかちょっと気になる。
小石浜駅が開業した際、地元に暮らす人が記念に短歌を一首詠んだ。
「藍」は「愛」、「小石」は「恋し」との掛詞となっている。
”午前中は停車しません”だった
手元にある「交通公社の時刻表」~「JTB時刻表」のバックナンバーで三陸鉄道のページを開くと、今は語られていない事実が掲載されている。開業から10年以上、南リアス線では小石浜だけ停車しない列車運用が多数存在していた。
1986年6月時点で13往復中6往復
1989年7月時点で16往復中8往復
1995年2月時点で下り17本中2本、上り16本中2本
が小石浜通過と記されている。1980年代はほぼ半数である。早朝7時台の列車は停車するが、午前9時から12時までの時間帯に運転される列車は通過している。開業当初は午後の列車も一部通過していた。1995年時点で午後の通過はなくなっているが、午前中の通過は残されている。2004年7月時点では全列車停車に改められている。都会の大手私鉄では新駅を作るとそこに優等列車を停車させて、長年地域に貢献してきた古くからの近隣駅をお払い箱のように扱う方針の会社もあるが、三陸鉄道は”長幼の序”に忠実なダイヤを組んでいたようにも見える。
恋し浜ホタテ
小石浜集落では2003年ごろから、収穫される養殖ホタテを生産者直送で全国に届ける活動を始めていた。2008年にそれを「恋し浜ホタテ」と名付けて商標登録を行い、ブランド化することとなった。上記の短歌の掛詞がヒントとなり、訴求力の強いネーミングとしたのだろう。
それならばいっそ駅名も「恋し浜」にしたい!という要望が発生。三陸鉄道はそれに応え、小石浜駅を2009年7月20日「恋し浜駅」に改称した。
2005年4月1日の、のと鉄道能登線恋路駅廃止により一旦3つに減少していた”恋駅”が、再び4つになった。地元では恋し浜ホタテの貝殻を絵馬にして、来訪した観光客に願い事を書いてもらい待合室に吊るす企画を始め、翌2010年には駅ホームに「愛の鐘」設置と、新たなパワースポットとして売り込む態勢を整えた。
被災からの”恋駅プロジェクト”
2011年3月11日に発生した東日本大震災により三陸鉄道も甚大な被害を受け、南リアス線は全線運休となったが、2013年4月3日に盛-吉浜間で運転再開、恋し浜駅も営業を再開した。翌2014年4月5日に吉浜-釜石間も運転を再開して、全線復旧を果たしている。
2013年の「恋の駅きっぷ」発売に始まる「恋駅プロジェクト」は智頭線に恋をし続けて、恋山形駅にその気迫がひしひしと伝わる智頭急行の主導と見受けられるが、単なる各地域活性化策にとどまらず、三陸鉄道とその沿線の復興支援の意味合いも含めたという。
恋駅プロジェクトのスローガンは
「日本に4つ 恋の駅」。
現在ホーム掲示は恋山形駅のみの模様だが、「4つ」は母恋・恋ヶ窪・恋山形・恋し浜を意味する。この時点で既に廃止されていた恋路駅は含まれていないし、のと鉄道はこの企画に参加していない。
のと鉄道の関係者や、能登線の廃線に反対した人たちにこのプロジェクトの噂は伝わったのだろうか。能登線が存続していれば智頭急行は当然のと鉄道にも声をかけたであろうし、スローガンを「日本に5つ 恋の駅」として、恋の駅きっぷのデザインも違うものになっていただろう。
恋し浜駅訪問
※本項目の写真は2023年8月撮影
私は2023年8月、恋し浜駅を訪れた。すなわち前の記事で紹介した恋山形駅よりも先に見ている。
三陸鉄道南リアス線に行くには南側の盛駅からと北側の釜石駅からのアプローチが考えられるが、大船渡線の気仙沼-盛間は震災の被害が甚大すぎてBRTに転換されている。BRTは三陸鉄道との接続を全く考慮しないダイヤを組んでいる。仙台から三陸方面に向かう高速バスは時間帯が全く合わない。従って東北新幹線~新花巻乗り換え~釜石線のルートに限られる。
切符を買う段になって、ひとつ気がついた。東京都区内から釜石まで583.8kmで、往復割引対象になる601km以上までわずかに足りない。山田線がJRの頃は浪板か岩手船越まで買えば往復割引の条件を満たせたが、今はその区間も三陸鉄道になっているので、釜石を着駅にせざるを得ない。「えきねっと」の”トクだ値”は直前の旅行立案に対して全く使えるものではなく、最初から眼中になかった。「えきねっと」はフィッシングメールの騙りに使われたことからガードが堅くなり、正規ログインをするのにもストレスがたまりすぎる。
いろいろ考えた末、恋し浜へ行く前日に東京メトロ東西線を使って西船橋駅(千葉県船橋市)に赴き、秋葉原経由釜石までの乗車券を購入した。601.0kmで往復割引が効く。地下鉄の運賃を差し引いてもなお安くできる。
一向に収まる気配のない酷暑日続きに、決して大げさでなく人類文明滅亡へのカウントダウン開始かと慄いた8月、恋し浜駅に向かった。
新花巻9時23分発の快速「はまゆり」に乗車する。釜石線の乗車はおよそ30年ぶり。JR東日本の普通列車向け車両としては珍しく、3両編成全て転換クロスシートであった。後で調べたら急行「陸中」用に作られて、それを快速に転用したという。
前に訪れた時は寒い季節で、乗車した際押しボタンでドアを閉める形式と気がつかず、乗り合わせた高齢の人に怒られた苦い経験を思い出す。まさか自分が生きているうちにこれほど暑い世の中が来るとは思わなかった。
見覚えのある山深い風景を眺めたり眠ったりでおよそ90分を過ごし、10時52分釜石駅に到着した。広い構内を包み込むように山が迫り、阿波池田駅(徳島県三好市)に少し似ていると感じた。
三陸鉄道の盛行きは11時38分発車で、少し時間がある。空腹なので駅前の食堂でラーメンをいただいた。冷やしがメニューにあって嬉しい。その間に盛行きは入線していて、私が足を踏み入れた時にはもう海側の座席はすべて人影が見られた。
山側の席に陣取り発車を迎えた。工場が目立つ釜石の市街地を後にして、長いトンネルを2つ抜けると通路ごしの車窓に海が広がった。唐丹(とうに)湾の小白浜という。真新しい防潮堤でガードされた白い渚が眩しい。車内アナウンスで当地の名産「吉浜アワビ」について紹介されていた。「きっぴん」と音読みする。中国や香港に輸出され、高い評価を受けているという。
唐丹を発車するとさらに2つのトンネルがある。後者はとりわけ長い。そこから出ると盛線時代の終点、吉浜(よしはま)に着く。もともとホーム片面使用駅なので、三陸鉄道になってからは単なる中間駅の扱いで、すぐに発車した。
2つ先の甫嶺には国鉄の忘れ形見が残されていた。
甫嶺を出ると地形がひときわ険しくなったと感じる。トンネルはこれまでよりやや短いが、山も海も浴びせ倒してくるかのように迫ってくる。リアス式海岸を身体で感じつつ、12時09分恋し浜に到着した。列車は記念撮影用に4分間停車する。数名の乗客がホームに降りてカメラを向けていたが、発車時刻になると皆さん車内に戻り、私はひとりで列車の出発を見送った。
この写真より、ホームが設けられている箇所の線路はいくらか傾いているとわかる。盛線の開業時に設置されなかった一因かもしれない。
ホームの釜石寄りには電照式の三角柱型駅名標がある。かつては山陽本線、鹿児島本線、常磐線、東北本線などに多数設置されていて、夜行列車の寝台ブラインド越しに光る姿が印象的だったが、いつしかほとんど撤去された。宮脇俊三さんは三陸鉄道について「国鉄と席を同じうせず、反面教師」と著書に記しているが、案内表示は国鉄の衣鉢を結構受け継いでいる。JRや後発鉄道会社のデザインがハデハデになっていく中、かえって貴重である。
ホーム中央の駅名標は濃青色地に縦書きで「恋し浜」と記されている。
小石浜駅時代に撮影された写真を参照したところ、リアス海岸の地図を描いたイラスト地に「こいしはま 小石浜 KOISHIHAMA (岩手県大船渡市)」と国鉄流で記されていた模様。
78段
ホームからの絶景については後述する。まず駅前に降りてみる。
ホームと集落の道路とは鉄製の階段で結ばれている。数えてみたら78段あった。金刀比羅宮石段のおよそ1/10である。他にスロープも整備されている。振り向くと駅名標の裏側に「恋し浜」と大書されていた。この流儀は東北地方のローカル駅でよく見かける。
階段を降りると小さな駅前広場が整備されている。
品よく清楚感漂うパステルピンクに彩られた自動販売機と郵便ポストが設置されている。合間には紅色の薔薇が咲いている。ポストの右上の屋根はお手洗い。先にこちらを見てから恋山形駅に行ったので、智頭急行の「恋駅」に対する情念のような気配がひときわ強く感じられた。
備え付けの説明板によれば、薔薇は2009年に作られた新しい品種で、大船渡市在住の育種家が「恋し浜」と命名して、翌年市に寄贈したという。
大震災を経て、2014年にピンクの郵便ポストが設置された。大手化粧品会社が寄贈したもので、当初は恋山形のポストと同様私設扱いだったが、2017年5月公設として認められた。私設時代はスロープ入口脇に設置されていたが、公設化の際現在地に移されている。台座もハート型である。元の位置には通常の赤い小型ポストが新たに設置されていた。
自動販売機は2017年11月、大手清涼飲料水メーカーが設置したもの。ハート模様の自動販売機はここだけという。ハートがちりばめられている中、ひとつだけホタテが描かれている。
リアス・ブルーのためいき
話は前後するが、ホームからは集落ごしに越喜来(おきらい)湾が遠く見渡せる。
何と美しい海の色だろうか。
全国様々な海を見てきたが、ここは東日本屈指の色合いを見せている、そう思う。”リアス・ブルー”はいかがだろうか。
振り向けば樹木に覆われた斜面。
後で恋山形に行った際、海から離れているにもかかわらず恋し浜のロケーションと相通じるものを感じた。
海まで歩いてみよう。
駅から続く下り坂を一歩ずつ踏みしめる。厳しく蒸し暑い風が、少しだけ優しさを吹かせた。
10分ほどで、私の目線が真新しい防潮堤まで降りてきた。鮮やかなマリンブルーがひとみいっぱいに広がった。
あまりにも暑いためか、お昼どきゆえか、集落内を歩く人や走る車は全くいない。ためいきが出るほどにまばゆい体験だった。
防潮堤は集落を守るため相当高く作られている。20mくらいはあるだろうか。都会のビルに入るようにくぐると、澄んだ漁港と水揚げ場の広い建屋が現れた。
漁港事務所の脇に、年に一度放送される有名テレビ番組シンボルマークをあしらった大きなポスターが張り出されていた。この番組への募金を元手として、小石浜漁港に何か寄贈したとみられる。
昨今、この番組には何かと批判が多い。人に募金させておきながら出演者がギャラをもらうのはおかしい、某大手芸能事務所との癒着が目に余る、感動の押し付けだ、偽善だ…。私も概ね同意する。最初の頃からあのメディアグループ独特の臭みが鼻について、長年全く見ていない。
募金が有効活用されていることは間違いないだろう。しかし駅名が「小石浜」のままだったら、中央のメディアは多分この地に見向きもしなかったのではないか。「恋し浜」の名前にひかれて人気タレントが幾人か訪れるようになったから、復興支援と活性化名目で施しをしてあげようというアイデアが出たのではないか…と思いを巡らせると、やはり大都会の論理によるスタンドプレー的、自己陶酔的な匂いが漂ってくる。私は先ほどとは別の意味でためいきをついた。
そろそろ帰りの列車が来る頃。駅へ戻ろう。元来た坂道を上るうち、津波到達点の碑に気がついた。
三陸は古来より幾度も大津波に見舞われている。そのたびに多くの人が命を落とし、築き上げてきたものが全て流されている。それでもなお、この地に住む人々は海の暮らしをあきらめない。都会で暮らす者には決してわかり切れない姿勢だろう。
碑は恋し浜駅のかなり手前に立っているから、駅付近は直接の被害を受けなかったと見られる。鉄建公団はこの地域がたびたび津波に見舞われていることを考慮した上で、集落から遠い位置に盛線を通したのだろうか。
78段を上ってホームに戻り、13時19分発釜石行きを待つ。待合室は願いごとを書いたホタテの貝殻で雑然としていて落ち着かなかった。駅舎内を願掛けスポットとして物を張り付けたり飾ったりする慣習を持つ駅はいくつかあるが、いくら地元の人がこまめに整理整頓を心がけていても、どうしても雑多な印象を与えてしまう。飾った人の”念”が独特の磁場を生み出しているかのようである。最近話題の「片づけられない人」の心理にも相通じるものがある。それを考えるとハート絵馬を整然と吊り下げる形式の、恋山形の絵馬堂はさすがによくできている。この点に関してだけは西の恋山形に軍配を上げたい。
待合室の案内によれば、付近の道路にも「恋スポット」がいくつか設けられているそうだが、私はこの駅と絶景だけで十分満足できた。訪ね歩いた”5つの恋駅”の中で、ここ恋し浜に最も好感を抱いた。いろいろな意味であざやかな印象を残した。
リアスとアリス
”恋駅”とは直接関係しないが、恋し浜への往復で通った釜石線には「上有住」(かみありす)という一風変わった名前の駅がある。岩手県気仙郡住田町の地名で、駅はないが下有住(しもありす)も存在する。いずれもかつては独立の村だった。
アリスといえばルイス・キャロルが執筆した物語を思い浮かべるのが王道だろうが、ある方面のマニアは「今はもう誰も」「帰らざる日々」や「遠くで汽笛を聞きながら」、もしくは「時間の国のアリス」をつい思い浮かべる。今はほとんど乗り降りする人もいなく”秘境駅”扱いされているゆえ、いずれホームでこれらの作品を熱唱する人が現れそうな気がしてならない。そういえば「リアス」と「アリス」はアナグラムの関係にある。
かくれ恋駅
「五つの恋駅」紹介はこれで終わるが、のと鉄道に乗車した際、ある駅に停車すると不意に気配を感じた。
「石川県七尾市」と記されていた位置に、いつのまにか「恋火駅」と書かれている。近くの海岸で7月に行われる「塩津かがり火恋まつり」に由来するらしい。”かくれ恋駅”と認定したい。
恋駅の傾向
五つの”恋駅”全てを見て歩くと、共通する傾向がいくつかあると気づく。
(1)乗り換えターミナル駅ではない
これは全ての”恋駅”に共通する。複数の路線が分岐する、他鉄道会社との乗り換えができるなどの、いわゆる「ターミナル駅」ではなく、1路線単独の駅である。この条件は「恋駅プロジェクト」などの企画を立てるには好都合だろう。
(2)「元・幹線上の新駅」と「第三セクター」
先発組の母恋、恋ヶ窪のある路線はその地域最初の鉄道として敷設され、古くは幹線としての役割を果たしたが、その後の情勢変化により”支線区”に格下げされている。”恋駅”は新たに需要が発生した都市型近距離輸送に対応する形で生まれている。
対して後発の3駅は交通不便な地方のインフラ整備として建設された末端路線にある。智頭急行は大阪・神戸と鳥取を直結させる使命を担っているので「準幹線」という見方も可能であるが。1960年代までは国鉄の体力で営業可能だったが、1970年代に力が及ばなくなると「第三セクター」という新たな道に活路を求めた。この条件もまた、それまでの観光の常識にとらわれない売り込みを可能としただろう。
(3)普通列車のみ停車する駅
"恋駅”は原則として普通列車しか停車しない。末端路線の中でも拠点駅から離れたところにある。のと鉄道が恋路駅観光用に急行「のと恋路号」を運転させていたケースのみが例外である。母恋には札幌と直通する特急「すずらん」が乗り入れてくるが、東室蘭-室蘭間は普通列車としての運転であり、母恋から室蘭や東室蘭までならば普通乗車券や青春18きっぷなど普通列車用企画券のみで乗車できる。この運用は国鉄の時から伝統的に行われている。
(4)ほどほどの秘境駅
近年、辺鄙な位置にあって停車する列車の本数が極端に少なく、他の交通機関が事実上存在せず、車で行こうにも悪路続きでアプローチが困難な鉄道駅を”秘境駅”とする言い方が定着している。
今回取り上げた”恋駅”はいずれも「ほどほどの秘境感」を醸し出している。出向くにはそれなりの準備と時間、経済力を必要とするが、そこに降り立つこと自体が話題となるガチ勢秘境駅ほど難易度は高くない。この塩梅も大切なポイントだろう。ほどほどに難しいからこそ関心を持ってもらえて、なおかつ達成感を与えられる。
私のお勧め恋駅は一番に恋し浜だが、西日本の人にとっては南千歳から列車1本で行ける母恋以上にアプローチが難しいかもしれない。恋に関する願いごとの有無にかかわらず、どこか気になる”恋駅”を目指す旅を計画することもまた、暮らしに彩りを添えるだろう。
<参考資料>
「国鉄監修 交通公社の時刻表」「JTB時刻表」
「国鉄全線各駅停車 東北530駅」(小学館、1983年)
宮脇俊三・著「線路のない時刻表」(新潮社、1986年)
Webサイト「海の見える駅」
同「おおふなとりっぷ」
同「のと鉄道株式会社ホームページ」